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2011年9月 8日 (木)

SLOFT通信・28

昨日。お姉様たちと合わせての稽古。エピローグの演出をつける。語り方については各自に任せる。一番手女2には、深呼吸を二つしてから登場と指示。要するにエピソードは本編を終わっているので、ただ、肩の力を抜いて月を観ていればいいことになる。
女3の例のラストシーン、はまだ問題が隠されているような気がするので、寸暇を惜しんで(というほどではないが)考える。つまり、演技において上手い下手とは何かという簡単でいてアポリアな問題。簡単にいうならば、上手い演技とは、書かれた劇=戯曲を演じる劇として転換し、如何に観客に伝えるかの能力が優れたものをいう。いってみればそれだけだ。下手な演技とはその逆であるのはいうまでもナイ。しからば、上手な演技をする者の普遍性をのみ取り出し、特殊性(固有性)を捨象すればイイ、と、ここで、スタニスラフスキーやリー・ストラスバーグ、あるいはその流派は間違ったと思える。もちろん、それに連なるあらゆる「使用価値主義」の演技派も同じことだ。それらについては[実践編]で記す。

さて、この伝でいうと、女4はそれを器用に演じ、女2はたまに自身のせりふの高揚感に逆手をとられることがあっても、エッジの鮮明な強いベクトルで演じられる。女1には天性のものがある。天性のものとは時分の花であるから、解読の仕様がない。女3の不器用さについてのみ、演技の課題を持つべきだと思う。
いわゆる演技とは技量だから、能力の問題に帰することが出来る。そこで終われば事は簡単で、女3は演技の能力に劣るといえばイイ。しかし、演技の技量は、技芸の技量においてでも、まったくチガウものを含んでいる。それは私が35年間感じてきたものだ。下手な落語は耳障りだし、演技の場合、下手な芝居は早く引っ込めだが、いわゆる大根役者と称される役者ではナイ、ある特有のエネルギーを持つ役者が存在する(演技の場合、エネルギーというのは、観客への伝達力をいう)。これを魅力と述べてもいいが、特権的肉体と称してもイイ。(特権的肉体についても[実践編]に記す)。女3は常識的演技に拘泥しているので(それは誰しもそうなのだが)、自身の素材に殆ど気付いていない(自身の声、カラダ、動き、表情、et cetera)。従って、一連の演技のうちで、せりふに意識すれば、カラダが緩み、導線に意識すれば、カラダが緩む。何ものにも集中してはイケナイ、というのは矛盾しているようだが、演技のコツなのだ。まず、汝自身(の魅力・エネルギーを知ること)だが、これを誘導するのは演出力だ。演出の価値が女3の価値とうまく交換できねばならない。女3の演技の使用価値は、女1・2・4に比べて、劣ることは否めない。しかし、アホな経済学者が述べているように、使用価値が「価値」などというのは、大嘘だ。ほんとうの価値は「交換価値」に在る。それを女3は有する。と、まあ難しいことはこの辺りまでで、女3は、私に質問してくるときの表情が苦悶しているみたいで、何か苦しいことでもあるのかと、逆に聞きたくなる。まず、芝居の話など、笑って出来るようになることだ。女3は、笑顔がいいのに、もったいないではナイか。(女2が、執拗に女3さんは美人なんです。と私に主張していたけど、ナンデかな。劇中で顔がペチャンコなどと書いてあるせいでかな)でと、今日は、通し稽古にもあきてきたので(飽き性だからな)女3にはちょっと泣いてもらう。

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