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2011年9月30日 (金)

SLOFT・朝の訓辞

かつて「自分さがしの演劇」というコトバが頻繁に使われていた時節があった。10年も前(それ以上前)になるのかな、それとも、ごく最近のことかな。ともかくそれらはいまなおワークショップという名に変わって続いているかのようだ。時を同じくして、か、ちょいと前か、演劇(演じられる劇)が「自己表現」だというふうにいわれていたこともあった。つづめていえば、何れもidentity(同一性・自分が自分自身そのものであって、他人とは異なる(証明・確証)のこと)にまつわることなんだが、私はこと演劇(演技者として)において、そんなことはやったことがナイので、そんなことをやってる連中がいったいナニがためにそんなことをしているのかが、よくワカラナカッタ。演劇は多くを奪っていくものだが、多くを与えてくれるものでもある。奪われていくものに別れを告げ、与えられるものに感謝してればそれでイイ。だいたい「自分さがし」なのになんで「自己表現」なのだ。おおよそ、演劇はその「役」を表現するものであって、それを自己表現というのは「自己が」演じているのではなく「自己に」演じさせているだけのことだ。じゃあ何が自己に、と問われれば、「世界が」としか答えようがナイ。その代わり、演じられたもの(表現されたもの)は、自己ではなく「世界」なのだ。新しくあなたの創った世界なのだ。自分みたいなチンケなもの表現しなくったっていいじゃないのさ。女3のメールに(公表してもイイとあったから書くが)「○○さんは何を演じても○○さんだね」というのが最高のほめ言葉だとあったが、ほんとうにほめ言葉だというふうに、女3が思っているかどうかはあやしいもんだと、姑根性の私などは穿つ。その文言は「けっきょくあんた、何を演じても○○でしかナイね」というコトバとダブルミーニングをなすからだ。こういうインフェリオリティーcomplexの「解消」ではなく「克服」を目指すのも、SLOFTの目標だ。(まあ、これくらいのハッタリはイイということにしよう)
ここんとこ知り合った札幌演劇財団の若き頭脳にして八つの珠の何れかを持つ者に、メールで、ふと、もらしたのが「最近は年がら年中、あちこちの劇団やプロデュースに出演している者が多いんですが、こりゃあ、常に演出家や他の出演者に、観られていたい、かまっていてもらいたい、いうことを聞いていたい、というある種の依存症か、社会的モラトリアムなんじゃねえでしょうかネ」。その返信が「札幌のことをいわれているのかと思いました」。何処もかしこも増えてんだなあ。中には掛け持ちでやってんのもいるんだが、それは余裕というのではなく、滅私だろう。SLOFTは、劇団ではナイので、スケジュールにおいて、そのあたりには配慮している。むしろ、他んところに出ていて、うまくいかないのをSLOFTで修正鍛練出来る、そんな道場にまでなれば、いいくらいだ。

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