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2011年9月15日 (木)

無常に対する疑問

何かが「動いている」という事象については、二つ条件が必要だ。一つめは、「動いている」モノを観察している者が存在する。一つは、観察している者は静止していなくてはならない。もちろん、地球はスゴイ速さで自転していて、誰もそれを観察などしてはいないのだから、前者は不要だといわれそうだが、自転しているという事象をいうには、観測する以外に手だてはナイ。また、これを観察(観測)する場合、同じ速度で動いていては、けっきょく同じスピードで走っている電車が二台あって、どっちもが動いていないように感じるのと同じだ。アインシュタインの相対性理論においても、静止している観測者から観て、動いているモノは、逆に動いているほうから観ると、静止している観測者が動いているようにみえるという相対性をいう。(ここから例のウラシマ効果が出てくるのだか、それはここでは取り上げない)
ともかく、私のいいたいのは以下の2点だ。
①動いているというのは、動いていることを観察しているものが必要になる。
②動いているものを観察しているものは、静止していなくてはならない。
①の場合再度述べるが、天体などの運動は宇宙時間にして135憶年前からなので、観察する者(人類)とは無関係なのではないかという、反論必至だろうが、この反論については、単に「現在はそうである」と示せばそれでイイ。②についても、単純にこう書き換えてもイイ。[動いているということは、何かが止まっていなければ成立しない概念だ]

さて、ここから本題の疑問に転ずる。仏教でいう「無常」とは常ならむことであって、ものごとに恒常的なものはなく、すべては、移り変わっていく、ということだ。鴨長明のかの『方丈記』も「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし・・・」と、物事の移り変わりを水の流れに例えている。ところで、この「移り変わり」というのは「動いている」ということだ。つまり「無常」もまた「動いている」ということをいっている。それは、森羅万象(世界すべてが)そうだといっていることになる。ところが、この「無常」を先の①②の命題に当てはめてみると、おかしなことになってくる。「無常」という場合、「無常」であることを証明するために、①②を満足させるモノが必要になる。しかし、それを存在させると、「無常」は「無常」でなくなってしまう。何故なら、「無常」というのは先述したように世界全体の事象をいうのだから、①②を認めると、①②はこの事象から外のものになってしまう。外のものが在るのかどうかは別にして、問題は内部なのだから、外のものの干渉は受けない。
まとめていいなおしてみると、こういうことになる。「無常」を認めるとすれば、「無常」という「動き」を動きとして存在させるためには、「ナニか」が止まっていなければならない。かつ、「無常」というものが、人間における発明であるならば、「無常」という動きを止まって観察(観測)している者が存在しなくてはならない。
卑近にいってみよう。誰しも「年をとったなあ」と思うときがある。そのとき、「年をとった」という「動き」を認識している存在は誰なのか。他ならぬ自分だ。では、自分のどの部分がそういわせしめているのか。ここでも、自分の中にある「静止点」が必要になってくる。「子供の頃に比べると、青年の頃に比べると」と、自分の「現在」がいわせているのなら、自分の「現在」は「静止点」か。そんな矛盾はナイ。何故なら、自分の「現在」が「年をとった」それ自体なのだから。・・・・(つづく)

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