無料ブログはココログ

« DVD感想『ばかもの』・・・その他 | トップページ | 震災未だ終わらず »

2011年9月10日 (土)

恋愛的演劇論[実践編]・20

即自、対自、対他、という用語は弁証法に現れる存在概念だが、私はこれらを演劇において演繹的に取り出してきたのであって(演繹的というのは、「鳥というのは羽根があって空を飛ぶ」という命題があるとすると、じゃあ、カラスもそうだ、鳩もそうだ、燕もそうだ、というふうに情報が増えていく論理展開のことをいう)哲学学徒の諸氏には誤謬に過ぎないと一笑に付されるかも知れないが、サルトルのいうように即自とは、石のような存在だとは思っていないし、類人猿に即自(自意識)があるかどうかなどは、まったく問題にしていない。
即自、対自、対他、(ここに即他も含む場合もある)というのは、主体と情況(或いは対象)との関係と、その了解のことだ。即自と対自の分別は、即自は演技者そのものなのだが、ワカリヤスクいうと、この場合の演技者はコップをひとつ手にしているとする。ここで、演技者は「自分はコップをひとつ手にしている」という、コップと自身との情況を判断する。それ以上の情況判断、コップとの関係、了解はナイ(演技者それ自体だ、というよりも、こっちのほうがわかりイイはずだ)。次に対自に進む。演技者は「何故、自分がコップを持っているのか」「このコップは自分にとって何か意味があるものなのか」と問いかける。このとき、演技者(主体)はコップ(対象)との情況、関係、了解へとステップアップしたことになる。ただし、それ以上の情況との関係は成さない。換言すれば、演技者はコップを持っている自分とだけ、対面していることになる。対他とはは、[コップを持ち、「このコップは自分にとって何か意味があるのか」と問う演技者(主体)]をさらにみつめる情況との、関係、了解になる。これを具体的にいうと、ここに観客の視線が含まれることになる。つまり演技者の意識は、観客視線を取り込むことになる。これが観客視線に対する演技者の演技だということになる。ここにおいて、演技者は[コップを持ち、「このコップは自分にとって何か意味があるのか」と問う演技者(主体)]を観客からみつめられている(対他)という情況を通して、コップとの関係を演じ、それを観客に了解せしめることになる。それはまた、同時に演技者自体にreturnしてきて、即自、対自、対他(何れかをすっ飛ばしてもいいのだが)と、この反復が「運動」として続行されることになる。
もっと簡単にいってしまうと、即自は、自分が自分のことだけを了解しているので、情況やその他のものと関係しない状態。対自は、自分だけを対象としているが、即自とは違って、自分を対象として、情況との連関から(積極的に)独立して、自分に対しては運動している状態。対他は自分と自分以外のものを対象としながら、それを取り込んで自分にもどってくる状態。
この用語を用いて演出をしたのは『ゴーシュの夜の夜』だけだが、いずれSLOFTにおいても、それくらいのことが出来るようになればと望んでいる。

« DVD感想『ばかもの』・・・その他 | トップページ | 震災未だ終わらず »

演劇」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/558792/52693574

この記事へのトラックバック一覧です: 恋愛的演劇論[実践編]・20:

« DVD感想『ばかもの』・・・その他 | トップページ | 震災未だ終わらず »