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2011年9月27日 (火)

SLOFT通信・女3への手紙・3

・身体論的に続けます。素材として考えれば、加東サユミは一つです。が、ここに疑問符を撃ち込むのです。乖離性同一障害ではありませんが、似たようなことです。
・私は以前「オレは外に出ると北村想をやってんだ」と話したことがありましたね。たしかに、私を北村想として既知している人々の前では、そうですが、ぶらっと旅して、誰一人、私のことなど知らないところに行けば、私は北村想でなくてもイイわけです。(ただし、何処へいっても私は私に対して北村想をやってる場合が多いですけど)
・演劇の演技というのは「作為」です。「創られたもの」です。では、何が創られるのでしょうか。「役」でしょうか。そのとおり「役」です。だからみなさん、役作りに励む。と、いうのが錯誤であるから、私は役作りを重要視しない。演劇という「作為体験」においては、まず、自身が「作為されたもの」に入り込んでいくことです。「役作り」そのものは間違ったことをしているというものではナイ。ただ、「役作り」というものが、自身のイメージと実態(素材)とを交換しているかのように思ってしまうところが、錯誤、間違っているのです。ここで「何が創られる」から思考を「何から創られる」に方向転換してみましょう。そうすると、それは戯曲(の台本化)であることは先述したとおりです。ホンを読み込むことによっての「作為体験」が「役」への導入です。
・そのとき、身体的にいえば、自分の身体は「そこ」にあるのに、意識としては、自分の身体には、何か自分以外のものが、自分以外の指示によって流れ込んでくるように感じます。これを「ガアル」から「デアル」への過程(process)だと思って下さい。
・加東サユミは、舞台において、その「作為(体験)」によって、加東サユミ「ガアル」から「役」の「○○デアル」になるワケですが、その前に、素材(実態)をもうひとつ創ってしまうのです。素材(実態)に手を加えて、「作為体験」の作業をする前に、素材(実態)自体を変容させてしまうのです。そうやってのち、違う、加東サユミ「ガアル」から加東サユミ「デアル」という素材を創るワケです。そんなことはもうやっているのなら、その作りかたに問題があります。あるいは弱すぎるのかも知れません。
・具体的に強く「作為(体験)」を以て加東サユミを創る。加東サユミ「ガアル」をまず創るのです。たとえば、片方の手の認知能力が劣っているという「作為」を施す。そうすることによって、片方の手の不自由なぶんだけ、時間識知が遅れます。何故なら、手は時間的感覚を多く持っているからです。数を数えるのも手です。料理の手際(まさに手という文字が肺っていますが)というのは料理に費やす時間のことです。料理は手でやります。ただし大袈裟に身障を創る必要はナイ。半ば「落せば」イイ。これは足にも適用できます。すると、そのぶん、足の場合は空間識知があやしくなる。そうすることによって、本来の元々の素材であった加東サユミ「ガアル」が少しずつ消えていきます。これは全消去も出来る。
・これは、自身の身体が自身の身体と「関係」を持つことです。と同時に、その身体の延長における全てと関係を持つことです。ですから、ちょっとちぐはぐな関係です。
・そこで、あなたはこう反論するに決まってます。~そういう特異なものが欲しいのではナイのだ、正統なる演技の上達を望んでいるのだ~、と。
・しかし、この「作為(体験)」は、異端な営為ではありません。胡桃の殻を破るには胡桃が必要なように、正統に至るための、正統な「作為」です。あなたにとっての胡桃の殻というのは、現状に認知されているあなたのcharacterではなく、あなたが、「正統な演技の上達を」と望んでいること、そのものだと、私には思えます。

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