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2011年9月 1日 (木)

恋愛的演劇論[実践編]・19

私たちはひとを恋するとき、どこで間違うのか。いうまでもなく、相手のことを自らの思うがままに勝手にイメージとして創り上げるところでだ。「あんたがそんな男だったとは思わなかった」「おまえがそんな女だとは知らなかった」というところで破局を迎えるのはそのためだ。ところで、これを対幻想の領域だとすると、演劇もまたその領域に含まれる。何故なら、演劇は、どれだけの人数の観客がいても、一対一対応だからだ。かといって、観客の側の、あるいは仕手の側の個的幻想ではナイ。何故なら、つねに、仕手においても、観手においても、「対手」が設定されるからだ。
稽古のとき、たとえば演出家が「そこんところはちょっとイメージと違う」と演技者に注意を促しても、演技者は、これを聞き流してイイ。「書かれた劇」である戯曲を台本化しての稽古の場合、そこに演技者はイメージとしてではなく、「実態」として存在するからだ。実態として存在する者にイメージを述べても意味がナイ。そのとき演技者は「現実」であり、演技が「虚構」であることはいうまでもナイ。すると、イメージをいいぶんとする領域があるように存在してもよさそうなものだが、「虚構」は、対幻想として、演出家の創り出したものであって、要するに「思い込み」でしかナイ。あくまでも演出家は、「現実」としての演技者に対してコトバを発せねばならない。そこから「虚構」を紡ぎだす以外、方法はナイ。「10㎝ほど背をのばしてくれるかな、それがぼくの中の役のイメージなんだけど」と「現実」に要求しても、出来るワケがナイ。この「現実」を「素材」に「虚構」を「表現」に置き換えてみればイイ。素材が表現に優先するように、常に現実は虚構に優先する。これは、敗れ去った思想、サルトルの実存主義で、充分納得がいっているはずのことだ。ただ、ハイデガーのほんものの実存主義は違う。カボチャで肉じゃがは作れないが、カボチャが肉じゃがに「なる」ことは可能だ。カボチャで「ある」ことを「現実」即ち「素材」とするならば、肉じゃがを「虚構」、「表現」であるとすればイイ。カボチャは「肉じゃがとなった」と、宣言すればイイ。中身がいくらカボチャでも、それは「肉じゃが」なのだ。カボチャをみて「ああ、肉じゃがだ」と恋するのと同じことだ。「虚構」はここにおいて積極的誤謬を含む。あたかも、シンデレラが美しき淑女であったのが12時までのように、だ。薄汚い女中は12時まで、城で王子と踊れたのだ。それは「虚構」だ。ただし、積極的誤謬なるものだ。女中をシンデレラ姫に変えること、演出とはそのことをいう。

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