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2011年9月14日 (水)

泣いているよな昼の月

月曜日は伊丹で塾。ここでは、ヘーゲル哲学を応用して、「書けない」ということについてのレクチャー。塾では、毎度、課題が出て、400字5枚の小戯曲(plot)を書かねばならない。このとき、すんなり書ける者などいない。しかし「書けない」ということは、タイセツなことで、これは野球の打者が「打てない」、数学者が数式を「解けない」科学者が事象を「説明出来ない」、医者が「治せない」のと同じ。こういうとき、ひとは「考える」ものになっている。これを学的という。で、考え方のヒントを出す。課題に対して(そのときの課題は「走る」)ヘーゲルでは[物]が多く事象として存在するとき、これを[多]といい、この[多]に対する主体(自分)を[一]とする。主体(自分)[一]は多くの物を、[多]を考えることになる。「走る」において、ひとが走っているのが風が走っているのか、噂が走っているのか。さらに細かく、マラソンということにするならば、誰が走っているのか、オリンピックで走っているのか、走法はどうか。マラソンの歴史はどうだったか。あるいは文学で走らせるなら、メロスなのか。つぎに立場を逆にして自らを[多]、[物]を[一]とする。つまりどういう自分が、その物(事象)をみつめているのかだ。さまざまな自分(主体)を想定し、その自分が[一]の物を考える。ここまではヘーゲル。ここから歩を進めて、自分も[一]、物も[一]の場合、自分も物も[多]の場合があると想定する。これを二進法(コンピュータの演算方法)で考える。そうすると(1・0)(0・1)(1・1)(0・0)のビット数が得られることになる。(この場合の0は何も無いということではなく限定無しということだ)。およそ、考えるというのは、この組み合わせの数だけあるということだ。これが「書けない」に対する、対処の仕方ということだ。
SLOFTのこともあるので、その日は、いつものホテルで宿泊。久しぶりに師範たちと飲む。と、師範から、「塾長の足が心配なので、卒塾生有志で、電気自転車をお贈りしたいと思っているのですが、お受け取りいただけますか」
ところ変われど変わらぬものは ひとの情と袖時雨れ(『越後獅子の歌』)

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