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2011年9月26日 (月)

SLOFT・猫の夜会

SLOFTwork1『夕月』の最後を飾るかのようにして、その猫の夜会は始まった。もとはといえば、喫煙場所にいる女3を口説きに(いや、もう、そんなことはどうでもイイ)女4が加わったあたりで、私は女4に「あなたはスタイルで演技が出来るひとだから、そのスタイルはテレビ・映画で使うことは構わないが、抽斗のひとつとして、スタイルを拠り所とせず、常にSLOFTにおいては試行していくこと。それもあなたに出来ることなのだから」と、総評めいたことを述べた。女4はハナからにそれがすんなり理解出来たワケではナイ。いくつかの質疑の往来があって、女4はそれを納得する。そこで、女3に、あなたは『夕月』において自身のどのシーンが好きであったかを問う。女3は私への遠慮もあって躊躇う。私は「あのお絵描きのシーンは好きですよ」とコトバをむけた。女4も諸手で「あのシーン良かった」と賛意するが、女3はそこで、重い口をやっと開く。「アノシーンは好きではナイのです。私が好きなシーンはエピローグの詩を口ずさむところです」その理由として、「自分はお絵描きのシーンなら簡単に出来るんです。カラダも小さいし、声もこんなのだから、いままでやってきたから。でも、私は、最後の詩のシーン、あのシーンが出来るようになりたい」
エピローグの詩のシーンは、私が一週間ほど、入院したときにベッドから窓を観ていて創った詩だ。既に述べたように、演出助手トヤマも、オガワアサミ女史も、他の多くのひとが、あのシーンにはヤラれているようで、まあ、それはホンがいいから仕方がナイ。ただ女3の希求が問題なのだ。お絵描きのシーンは、女3の身体性を利用して、演出された観客向けのシーンでしかない、といってしまえばそれまでのシーンだ。しかし、彼女の求めている身体はそうではナイ。そんなことは私にはたいていはワカッテいたのだが、打つ手がなかった。というより、いろいろ打ってみたが、失敗した。これはもう、壱からやるしかナイ。次回は基礎から徹底して試行錯誤する。
このあたりで、女1・2が加わって来る。というか、いつからいたのか、私は気がつかないでいた。女2は女3の希求にも触れつつ、あるワークショップで「演技はカラダでやるものでしょ」といわれたのだが、じぶんには溜飲が下がるということはなかった。で、おめえ、どう考えるんだよとニャーと私に向かって鳴いてみる。ここから身体論へと入っていく様相をみせる。身体論は難しいのだ。その理由は、身体には「脳髄」も含まれる。ということは「観念」「意識」「精神」も当然、含まれることになる。脳がどれだけ心的領域を持っているのかはワカラナイが、「思考」は脳の専売特許であることは疑いを挟む余地はナイ。
とりあえず、そこでの女2への答だけを述べておくと、おおよそ、現在流布されているワークショップは、身体を扱う。これはスタニスラフスキー、リトラスバーグ、の支流、亜流、枝葉、新開発、修正、の何れかだ。(ブレヒトを含めてもよいが、あいにく私は彼の理論はよく知らない。異化効果というものも、私の知っている限りでは、さほど大袈裟にいうほどのものではナイ)。これらの演技術には、常に欠落しているものがある。「戯曲とは何か」という本質との関係性だ。それに最初に異論を発したのは、岸田国士(『演劇講和』)だ。彼は劇作家という立場から、演劇現場における戯曲の軽視に対して警鐘を鳴らしたワケだ。
(つづく)

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