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2011年9月26日 (月)

SLOFT・猫の夜会(続)

SLOFT                                
戯曲のコトバというのは書きコトバだ。しかし、ジャック・デリダが懸念、疑義するほどのものではナイ。(だいだい、デリダの書きコトバへの疑義こそを私は疑義する)戯曲のせりふは「語られる(パロール)」ために「書かれて(エクリチュール)」ある。ここにすでに矛盾が存在する。演技者は、書かれたコトバを語るべき者が語るようにして語らねばならない。これを演じられる劇といい、演技という。
そこで、また女3にもどる。女3にたいする私の仕事は、女3の希求どおり、書かれたコトバを語るべき者が語るようにして語ることを、女3と女3を観るものが納得するべく指導する、と、簡潔にいえばそれだけのことだ。
夜会は続く。女2の質疑に対して、カラダ(身体)の固有性をいう。砕いていえば、「カラダというのはこれよ」と、女2は自分のカラダを示してしまえば、コトは終わる。しかし、ひとのカラダというのは、それとは別に普遍性を持っている(これをフォイエルバッハの哲学でいえば「類」という概念になる)。ひとは固有の存在であるが、類的存在なのだ。これは何を意味するかといえば、「類的」といった場合、ひとは他者のカラダを固有性と同様なカタチで了解出来ないということだ。フーテンの寅さんのせりふを借りれば「オレが芋食って、おまえが屁するか?」ということだ。
それでどうなのか、それはワカラナイが、ここまでは理解、了承、しておいたほうがイイよう気がする。個人は固有のカラダ(身体)を意識出来るが、それはあくまで固有性としての存在確認であって、類的にそうであるためには、他者による確証を要する。これを演技に転化していうならば、演技する演技者は固有性であるが、その演技(これは類的な表現に該る)は、観客(類的な身体)によって、「かくもそうであるように」認識され得なければならない。そうして、「かくもそうである」ように「類的」に認識された表現は、固有の演技者へともどって来ることになる。そのことによって、固有の演技者は、「かくもそうである」ことにたいする納得と、了解と、いうなれば「溜飲の下がる」ことを意識する。女3の希求を巡っていえば、そういうことになる。女3は、自身の殻が破りたいのだ。そこで、たとえば、目の前に胡桃があるとする。胡桃の殻を破ることはいろいろな作業や工夫で成されるだろう。しかし、そこに胡桃がなければ、どうしても殻を破ることは出来ない。胡桃がナイんだから。胡桃の殻を破るには胡桃が必要なのだ。女3にとって胡桃とはナンなのか。禅問答だな、こりゃ。
さて、演技においてカラダ(身体)というとき、演劇の演技における身体(カラダ)というものは、身につけているものすべて(たとえば女3のハイヒール・女1、2の剣)をいう。それらを、「身体の延長」と考える。もちろん、衣装もそうである。さらには、石段や壁、そうして、劇場全てが演技者の身体の延長に在ると考えるべきなのだ。なぜなら、それは身体における脳髄の活動範囲だからだ。「脳は脳の活動しやすい(自身の脳に合わせて)実環境をつくる」(『唯脳論』養老孟司)。およそ、身体性(カラダ)をいうとき、たとえば演劇、演技でそういうコトバを用いるとき、この程度のことは学んでおくべきなのだ、ワークショップの指導者のアホたちは。ただ、自身の経験(という非・学的なこと)と、輸入学問とで何も知らない素人相手に錢儲けが出来るのもいまのうちだ。SLOFTは、迷える小羊は基督教に任せて、まよえる小犬や子猫を導いて往く。(温泉にも行きたいけど)

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