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2011年9月15日 (木)

無常に対する疑問・続

ところでこの「無常」というのは、東欧的思想(仏教)なのだが、西欧ではコウイウものはドウイウふうになってるのだろうか。西欧であるのだから、いわずと知れたキリスト教ということになる。西欧哲学の場合、おおまかにいえば、その始祖的存在であるプラトンから、あんまり変わっていない、というか、西欧哲学はその脚注と展開、補完、継続・・・なのだ。要するにプラトンのいったことはたった二つだ。「イデア」と「対話術」。プラトンは、のっけから、この世界の外(としかいいようがナイのだが)に「イデア」という、この世界の理想的な設計図が存在するとした。(ほんとにそう思ったのか、仮にそうしたほうが物事が考え易いと思ったのかは知らんけど)。設計図があるのなら、その通りに如何にこの世界を造形していくか、だけが問題になるだけだ。そこで、それを「対話術」(これは後に弁証法となる)として、相談しましょう、ということにした。実に単純明快な哲学だ。ここから哲学はは、アリストテレスからデカルト、カント、ヘーゲル、マルクスと連綿と受け継がれていく。現行のポスト構造主義もまた、その下流に在るに過ぎない。さらに、アリストテレス哲学は、キリスト教神学のスコラ哲学へと取り入れられる。これは二千年続くのだからエライもんだ。「無常」が、とどまるところのナイ、儚き移ろいであるならば、キリスト教の天国は、絶対静止系だ。仏教では、天界の住人にすら衰退がみられ、地獄に落ちることになっている。つまるところ、西欧哲学はキリスト教によって、「動き」を止められている。何故なら、天国というのはこの世の外に在るが、それはこの世の連続に過ぎないから、この世界の時間も速度(運動)もそれ自体としては意味をなくす。西欧哲学世界のひとびとは、この世では、時間の矢による物理学で、やがては滅するが、天国に生まれ変わって、「永遠」という途方もないところで暮らすことになる。
しかし「無常」は違う。この世のことだ。仏教にも、もちろん、念仏衆においては「極楽浄土」があるにはあるが、ここでは、天国や極楽について、あるのかナイのかワカランものについては言及しないことにする。
問題は「無常」という「運動-動いているもの」だ。「無常」を①②と矛盾なく存在識知するには、「恒常」がどうしても必要になる。でなければ「無常」を否定せねばならぬ。しかし、「無常」は在るのだ。
かくして、天才は思案熟考の末、小悟を得る。
「無」、これが「絶対静止系」だ。「無常」の存在を求めて、「無」とは何かを悟る。
「無常」という運動、「動いている」ものに対して「静止している」ものは「無」以外には存在しない。例えていえば、数学の関数グラフを考える。縦軸と横軸の中心、交わるところに在って、静止しているものは「0」即ち「無」。「無」とは「何もナイ」ということではナイ。そういってしまうと「何もナイものが在る」ことの矛盾にはまるだけだ。
「無」とは「動か[無]い」ということだ。コトバを換えていえば「無常」と二項対立するものは「無」ということだ。「無常」、動くもの全てに対して、即ち森羅万象、この世界に対して「動か無い」ものとして「無」が存在する。「無常」に対しての我が疑問は、解決に至る。喝っ。

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