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2011年9月

2011年9月30日 (金)

SLOFT・山河のサンガ(宿坊)

最近亡くなった名優、原田芳雄さんは、俳優やスタッフの誰からも「兄貴」と呼ばれて信頼されていたことでも有名だが、彼はある映画に出演して、その助監督が気に入ると、必ず「お前が監督に昇進して一作目を撮るときに俺が必要なら、タダで出てやるから、俺を呼べ」と励ましていた。この言は、ただの励ましではなく、ほんとうに原田さんは昇進した元助監督の作品に(都合で何作目になるかは難しかったが)タダで出演した。ノーギャラでの出演だから、原田さんは損をしているようにみえる。しかしそれは、経済原則を貨幣交換としてみた限りのことで、原田さんは、新監督に自身の仕事を「贈与」をしたことになる。贈与されたことによって、新監督が優れた映画を撮れば、映画業界にとっては増益になる。映画業界が増益になれば、原田さんもまた、自らが気に入った映画に出演することが出来て、何ら損をしていないということになる。これは、古くからある民族の間で、ポトラッチと呼ばれる制度として根付いていたものだ。この制度は、例えば、一方が瓶いっぱいの酒を棄てると、一方も同等のことをして、お互い損をすることで、面子をたてる慣習でもあった。従って、方向を間違うと、どちらも損害を大きくして、リスクの応酬で、両方ともが潰れてしまうということにもなった。しかし、これは、上手く用いれば、貨幣交換を直接行わない経済営為になる。SLOFTが、何故、チケットノルマもなく、団費もなく、指導料もとらず、おまけに弁当や交通費まで出して、加名員を遇しているのかは、この「贈与交換」に基づいているからだ。SLOFTのstaffは、(経費を除いて)加名員に対して自らの仕事の持ち分を「贈与」し、SLOFTの加名員の修練、鍛練、伝授とこれを「交換」している。プロデューサーは加名員の営為を「享受」するということで、同じように「贈与交換」している。SLOFTは劇団ではナイ。ワークショップでもナイ。ボランティアでもナイ。ただ、私たちが伝え残したいものを、私たちなりの方法で伝え残そうとしているだけだ。加名員は、べつにそれを意識して遂行する義務はナイし、私たちも、それを使命としているワケではナイ。私たちも加名員と同様、外で別の仕事をしながら、並行してSLOFTを実験しているだけだ。ただ、おそらくこれは、現代演劇世界(いわゆるギョーカイというやつネ)では唯一の試行錯誤だろう。もちろん試行には錯誤がつきものだということくらいは、私たちも半世紀を生きて心得ている。

SLOFT・朝の訓辞

かつて「自分さがしの演劇」というコトバが頻繁に使われていた時節があった。10年も前(それ以上前)になるのかな、それとも、ごく最近のことかな。ともかくそれらはいまなおワークショップという名に変わって続いているかのようだ。時を同じくして、か、ちょいと前か、演劇(演じられる劇)が「自己表現」だというふうにいわれていたこともあった。つづめていえば、何れもidentity(同一性・自分が自分自身そのものであって、他人とは異なる(証明・確証)のこと)にまつわることなんだが、私はこと演劇(演技者として)において、そんなことはやったことがナイので、そんなことをやってる連中がいったいナニがためにそんなことをしているのかが、よくワカラナカッタ。演劇は多くを奪っていくものだが、多くを与えてくれるものでもある。奪われていくものに別れを告げ、与えられるものに感謝してればそれでイイ。だいたい「自分さがし」なのになんで「自己表現」なのだ。おおよそ、演劇はその「役」を表現するものであって、それを自己表現というのは「自己が」演じているのではなく「自己に」演じさせているだけのことだ。じゃあ何が自己に、と問われれば、「世界が」としか答えようがナイ。その代わり、演じられたもの(表現されたもの)は、自己ではなく「世界」なのだ。新しくあなたの創った世界なのだ。自分みたいなチンケなもの表現しなくったっていいじゃないのさ。女3のメールに(公表してもイイとあったから書くが)「○○さんは何を演じても○○さんだね」というのが最高のほめ言葉だとあったが、ほんとうにほめ言葉だというふうに、女3が思っているかどうかはあやしいもんだと、姑根性の私などは穿つ。その文言は「けっきょくあんた、何を演じても○○でしかナイね」というコトバとダブルミーニングをなすからだ。こういうインフェリオリティーcomplexの「解消」ではなく「克服」を目指すのも、SLOFTの目標だ。(まあ、これくらいのハッタリはイイということにしよう)
ここんとこ知り合った札幌演劇財団の若き頭脳にして八つの珠の何れかを持つ者に、メールで、ふと、もらしたのが「最近は年がら年中、あちこちの劇団やプロデュースに出演している者が多いんですが、こりゃあ、常に演出家や他の出演者に、観られていたい、かまっていてもらいたい、いうことを聞いていたい、というある種の依存症か、社会的モラトリアムなんじゃねえでしょうかネ」。その返信が「札幌のことをいわれているのかと思いました」。何処もかしこも増えてんだなあ。中には掛け持ちでやってんのもいるんだが、それは余裕というのではなく、滅私だろう。SLOFTは、劇団ではナイので、スケジュールにおいて、そのあたりには配慮している。むしろ、他んところに出ていて、うまくいかないのをSLOFTで修正鍛練出来る、そんな道場にまでなれば、いいくらいだ。

2011年9月29日 (木)

蒼空きたれども

水割りの氷の音が風鈴のように聞こえていた夏も逝き、午睡の風もちょうど心地よくなってきた近頃、昨日、伊丹想流私塾卒塾生とアイホール館長、その他の有志諸氏による、電動アシスト自転車が届き、今日、乗ってみた。エネルギーはパワーモードより下のエコモードで、三段階切り換えも、中程の2で、いままでの坂が楽々登れるのには驚いた。まるで、自転車に乗るための練習で、後ろを誰かに押してもらっているあの感覚だ。グウンと進むので、最初はちょっと戸惑うほどだ。
左足の損傷もやっとまともになって、ちょうど治癒まで一カ月を要したが、未だに感覚的には妙ではあるが、なんとか普通に歩けるようになった。ロフトの稽古場までを20分かけて、痛みに耐えて、休み休み歩いていたのがウソのようだ。そこで行きつけの整体マッサージに行ってみたら、左足の筋肉は落ち、右足の筋肉が張っているとのことで、ひとのカラダというのは、一カ月でこうも変わるものなのかと理解した。
とはいえ、今日あたりから、鬱病あやしく、いずれは来るかなと思っていたが、何処にも外出というものがしたくなく、東京の維新派の芝居も、ヒマがあるのだが、出向く気力がナイ。流山児事務所の『ユーリンタウン』にいたっては、「これがオレタチのブロードウェイミュージカルだ!」というキャッチコピーが鼻について、きみたちにとって、ブロードウェイというのはそんなにナニかなのか、と、ただただ、complexしか感じないので、足が向かない。
毎日一首、書いていた短歌も、勝手な愚痴をいっていただけのように恥じて、急に筆が止まった。
いつものように主治医の元に血圧の定期検診を受けにいく。血圧は正常で、鼻血事件のさいにやった血液検査のほうも、1000単位をこえていた中性脂肪が半減して500そこそこになり(それでも正常値にはほど遠いが)、尿酸値もとっくに痛風が出ていても不思議ではない、前回の8,9から7,7に下がり、コレステロールは上限ギリギリでクリア。アルコールさへやめれば、真っ当な身体となるのだが、鬱病の予兆なのか、ただただ眠りたいという心的情況で、なおも、執拗に、SLOFTのとある女優の精神分析をやってみて、たぶん、そういうことかとひとり納得したりして、ため息をつく。

とはいえ、電動アシスト自転車の御礼を述べておきたい。
明日は、これでサイクリングでもしてみようか、などと嬉しがっているのだ。

SLOFT・午後の授業

「なぜ、芝居をやってるんですか」という質問に対して、一度だけ、ひじょうにオモシロイ応え方をした女優に逢ったことがある。彼女曰く「みんな辞めていくからです」。この奇妙な答に質問は続いた。「具体的にいうと、それは」、答えて彼女曰く「誤解しないでもらいたいのは、辞めた者が挫折して、しかし、私は未だに夢を追っているとかそういうようなことではナイんです」「辞めたひとは、結婚、妊娠、家族の都合、彼氏の意向、健康的理由、年齢的理由、さまざまです。そのさまざまは私にもありました。だからといってそれを乗り越えていく信仰のようなものが演劇にあったワケではありません。私が芝居を辞めない理由は、単なる確率だと思います。サイコロを振ると一から六まで、目が出る確率は六分の一です。しかも、ニュートン力学とかいうものによると、それはサイコロが投げられたときに決定しているということです。しかし、変な劇作家がいて、そのひとが、最初から決定しているものはナニもナイというんです。たとえば、そのサイコロに六が出る確率は八割かも知れない。それは最初はワカラナイ。何万回と振り続けて、やっと決まるものだ」「だから、私が女優を続けているのは、ただ、他のひとが辞めていくから続けていっているようにみえるだけで、私には、ただの確率としかいいようがナイんです」
話題転換。
演技者を単純に理解しようとすれば、数学を応用すると最も手っとり早い。演技者を複素数と置き換えればそれで済む。複素数は実数と虚数の二元数だ。簡単にいえば、関数とグラフというのを習ったことがあるだろうから、そのX軸とY軸をまず思い描いてくれればイイ。そのX軸を実数軸に、Y軸を虚数軸に変換する。そのとき生まれる平面が複素数平面だ。従って、演技者をこの複素数平面の座標だと思ってしまえばイイ。虚数は(i)で示されて、二乗してマイナスになるという、理論的にしか存在しない数だ。このi(虚数軸)に1をとり、実数軸に1をとれば、座標は(1,i)。この座標をaとして、aから直行して実数軸に降ろした、実数軸の1の点をbとする。そうすると三角関数が現れる。0から座標aまでの線分を絶対値と呼ぶ。実数軸0と、座標aによって生まれる絶対値の角度を偏角という。この偏角によって、実数軸の0~1はcosineθであり、座標aから実数軸はsineθだ。おそらくtangentは微分方程式の接線になるのだろうが、私の数学的知識ではワカラナイ。また、いま、それを持ち出す必要はナイ。これだけの情報があれば、その演技者が1+i、あるいはi+1から、演算は始められる。この右項と左項の違いはタイセツだ。要するに実数(実態)に虚数(虚構)を足したものなのか、その逆なのか、sineθは、cosineθは、それよによって生ずる偏角と絶対値は、と、演技を追いかけていけばイイ。虚数だけでも、便利だ。マイナス×マイナス=マイナスなら、否定の否定が肯定でなく、否定であるという、アドルノの「否定弁証法」となる。

おっと、昼間のビールが効いちゃって、何だか書いちゃったな。

SLOFT・幕間の授業

カラオケに行く。楽しかった。飲み会をやる。ああオモシロカッタ。これらは主に憂さ晴らしだ。憂さ晴らしである限りは、憂さを晴らせば、次にまたカラオケや飲み会に行くときまで、自分がどんな憂さを晴らしたか、覚えておく必要はナイ。ただ、「憂さ晴らし」では「憂さ晴らし」が出来るという経験則をだけ覚えておけばイイ。
およそ「技芸」は違う。たとえそれが趣味の範囲であろうとも、必然的に「上達」を欲するのは、それが技芸の持つ「悦び」であり、ある目標、目的に達するというのは「充足」だからだ。オヤジたちが、ゴルフのスコアに熱心になるのもそのためだ。少年たちがボードの技に熱心のあまり、ご近所と騒音トラブルを巻き起こすのも、それが原因だ。もちろん、茶道や華道においても同じことだ。「下手でもいいの楽しければ」というコトバは、こと技芸においては、通用しない。何故なら「下手では楽しくナイ」からだ。従って、何故、上手くなりたいかという理由、疑問に対する答は単純明快なものだ。「そのほうが楽しい」からだ。
演劇(演じられる劇)の持つ楽しさ、悦びは、演技が上達するということだけには依らない。私たちは私「自身」の身体(カラダ)を殆ど知らずにいる。それで生活は足りるからだ。しかし、表現に身体(カラダ)が移行すると、「えっ、これが私っ」という発見と驚きがやって来る。「これが私の声っ」「これが私の手っ」「これが私の足っ」「これが私の心臓っ」と驚きに枚挙は尽きない。(関西の劇団『態変』を観てみるとイイ。五体不満足なものが、運ばれるようにして舞台に[置かれる]。だが、ここにも「観る-観られる」の関係が成り立つとき、如何に演技者が自身を昇華していくのかに、震撼せずにはいられない。彼ら演技者は、ナニを発見するのか。私たちはナニを観ているのか)。
一足飛びに、量子力学から演技を考察する。量子力学のたてた設問のコトバを置換すればそれですむ。
・物理量(演技)と状態(situation)という概念に物理的(身体的)な意味があるのだろうか。
・このような物理量(演技)と状態(situation)が存在するといえるだろうか。
・対象(ココロ)が物理量(演技)を持つといえるだろうか。
・測定値(表現)は、観測(客観)が作り出しているのではないのか。
・だとすれば、物理量(演技)も観測(客観)が作り出しているのではないか。
・だとすれば、対象(ココロ)の存在自体も観測(客観)が作り出しているのではないだろうか。
(物理量とは、物質の持つ位置、速さ、方向をいう。状態とはそれが、現在どのようになっているのかということになる)
このようなことを、これほど難しくはナイが、常に演技者は潜在的に所有する。それは生身の生理であるといってもいいし、自然的だといってもイイ。
要するに、演劇(演じられる劇)は、カラオケや飲み会の憂さ晴らしではナイ、というのではなく、そうは「本質的になり得ない」のだ。

2011年9月28日 (水)

永い旅

これから 永い旅が始まる
ここからはじまって ここにいたる 永い旅 
往きつくところはあろうけれど それは還りつくここなのだ
道案内人は いなくなった きのう 姿を消してしまった
朝霧たちこめる 森のなかで 目をさました ぼくたちは
荷車にロープをかけ 幌馬車の車輪を 布で拭いて
水瓶にいっぱい水を汲み 革袋の新しい酒と パンと米を積み込んで
これから下っていく坂をみつめ 遠くにやがて登らねばならぬ山々をながめ
ある者は 二本の足で立ち ある者は一本の足で立ち
ある者は両腕を伸ばし ある者はなくした腕を撫でる

これから永い旅が始まる
どこへ行こうと どこでもない そこがどこなのか誰も知らない
ぼくたちは 死をこえる 命をもこえていく
この香りすらする 朝の気は 砂ぼこりの風になるだろう
柩を壊し 焚き火の薪のかわりにする夜も あるだろう
ぼくたちは沈黙し 静かに夜を語るだろう
不安なく始まるものなどはナイ 無事に終わることなども何ひとつナイ
無からはじまり無常を生きて やがてまた無にもどる それが掟だ
ある者は 両眼をみひらき ある者は片目を閉じる
ある者は 寂寞の音を聞き ある者は遠ざかる光の音を聞く

これから永い旅が始まる
何処かでtambourineの音がした
さあ、深呼吸だ

ゆっくりと吸い ゆっくりと吐け

2011年9月27日 (火)

SLOFT通信・女3への手紙・(終)

・たとえば、私の場合はどんな「役」をやっても、北村想「ガアル」と、北村想が演じている○○「デアル」は一緒です。つまり、私には演劇の現場においては「私」などというものはありませんから。(多くのみなさんが、そう思っているところの)北村想という、前述したもう一つの実態(素材)があるだけですから、役作りなど考えません。書いてあるせりふを正しく読むことを練習するだけです。(で、みなさんが、ああ北村想だなと思ってくれれば、それでいいんです)。
・そうすると、加東サユミのばあいも、素材(実態)としての加東サユミは「作為的」に変容・消去・削除され、これを突き詰めると、「ただ表現ガアル、表現デアル」になります。たぶん、エピソードの詩を語るところが好きだったというのは、それが、ナニモノが語っているのかという「役」などではなく、また実態(素材)もなく、「表現デアリ、表現ガアル」だけだったからなのではないかと思われます。
・いまのところ考えつく方法は以上です。「役」を創る前に、「作為体験」として、もう一つの実態(素材)を創り、実態(素材)をなくしてしまうという方法です。
・これを「形態」を崩すという方法と称しても構いません。ただし、これは実施してみないと教え方が難しいので、実践的にはここには書きません。要するに、カタチから入ってコトバ(せりふ)を転じココロを動かすという方法です。

では、また。

北村 想  拝                                 

SLOFT通信・女3への手紙・3

・身体論的に続けます。素材として考えれば、加東サユミは一つです。が、ここに疑問符を撃ち込むのです。乖離性同一障害ではありませんが、似たようなことです。
・私は以前「オレは外に出ると北村想をやってんだ」と話したことがありましたね。たしかに、私を北村想として既知している人々の前では、そうですが、ぶらっと旅して、誰一人、私のことなど知らないところに行けば、私は北村想でなくてもイイわけです。(ただし、何処へいっても私は私に対して北村想をやってる場合が多いですけど)
・演劇の演技というのは「作為」です。「創られたもの」です。では、何が創られるのでしょうか。「役」でしょうか。そのとおり「役」です。だからみなさん、役作りに励む。と、いうのが錯誤であるから、私は役作りを重要視しない。演劇という「作為体験」においては、まず、自身が「作為されたもの」に入り込んでいくことです。「役作り」そのものは間違ったことをしているというものではナイ。ただ、「役作り」というものが、自身のイメージと実態(素材)とを交換しているかのように思ってしまうところが、錯誤、間違っているのです。ここで「何が創られる」から思考を「何から創られる」に方向転換してみましょう。そうすると、それは戯曲(の台本化)であることは先述したとおりです。ホンを読み込むことによっての「作為体験」が「役」への導入です。
・そのとき、身体的にいえば、自分の身体は「そこ」にあるのに、意識としては、自分の身体には、何か自分以外のものが、自分以外の指示によって流れ込んでくるように感じます。これを「ガアル」から「デアル」への過程(process)だと思って下さい。
・加東サユミは、舞台において、その「作為(体験)」によって、加東サユミ「ガアル」から「役」の「○○デアル」になるワケですが、その前に、素材(実態)をもうひとつ創ってしまうのです。素材(実態)に手を加えて、「作為体験」の作業をする前に、素材(実態)自体を変容させてしまうのです。そうやってのち、違う、加東サユミ「ガアル」から加東サユミ「デアル」という素材を創るワケです。そんなことはもうやっているのなら、その作りかたに問題があります。あるいは弱すぎるのかも知れません。
・具体的に強く「作為(体験)」を以て加東サユミを創る。加東サユミ「ガアル」をまず創るのです。たとえば、片方の手の認知能力が劣っているという「作為」を施す。そうすることによって、片方の手の不自由なぶんだけ、時間識知が遅れます。何故なら、手は時間的感覚を多く持っているからです。数を数えるのも手です。料理の手際(まさに手という文字が肺っていますが)というのは料理に費やす時間のことです。料理は手でやります。ただし大袈裟に身障を創る必要はナイ。半ば「落せば」イイ。これは足にも適用できます。すると、そのぶん、足の場合は空間識知があやしくなる。そうすることによって、本来の元々の素材であった加東サユミ「ガアル」が少しずつ消えていきます。これは全消去も出来る。
・これは、自身の身体が自身の身体と「関係」を持つことです。と同時に、その身体の延長における全てと関係を持つことです。ですから、ちょっとちぐはぐな関係です。
・そこで、あなたはこう反論するに決まってます。~そういう特異なものが欲しいのではナイのだ、正統なる演技の上達を望んでいるのだ~、と。
・しかし、この「作為(体験)」は、異端な営為ではありません。胡桃の殻を破るには胡桃が必要なように、正統に至るための、正統な「作為」です。あなたにとっての胡桃の殻というのは、現状に認知されているあなたのcharacterではなく、あなたが、「正統な演技の上達を」と望んでいること、そのものだと、私には思えます。

SLOFT通信・女3への手紙・2

・そうなると、イメージした身体(脳髄)とカラダ(音声・動作)とのあいだに齟齬が生じます。「頭ではワカッテいるんだけど、出来ない」というよくあるやつです。
・ここを超えていくのが「演技」であり、超えた分の見返り、それによって新たに身につけられた、蓄えられた力を「演技力」というふうにいいます。(つまり「演技力」というのは演技の実力をいうのではありません。演技に生かせる蓄財、それによって、演技を高めることの生産力をいいます)
・このとき、演技者は役者となって、役のイメージに囚われます。漠然とした役のイメージに頼って、ホンのコトバ(せりふ)から離れていってしまう懸念があります。よって、私は「役」を重要視しないのです。
・さて、このあたりまでは一般論的なことも含めて述べてきました。ここから加東サユミ固有の演技者について、その希求するものと「壁」と、その突破口について、考えたことに入っていきます。これは、私自身演技者である場合の固有性も含んでいますから、どの程度の効力があるかはワカリマセン。
・あなたが、好きでないシーン(お絵描きの)はともかくとして、あなたが、好きであると述べたエピローグの詩のせりふと、最後まで苦慮して、けっきょくは興行的演出に終わってしまった長ぜりふのシーンを何度も読み返しました。そこで、何を欲して(望んで・求めて)何がデキナイのか、何故デキナイのかを、もちろん、デキルようにするためにはどうすればイイのか、を、(みかけほど頭の良くない)私なりに考えました。癪だったからです。SLOFTの意味がナイことが、悔しかったからです。
・結論からいってしまうほうが簡単だと思うのでそうします。
・[素材は表現に優先する]という命題に反証して[表現を素材に優先させる]方法論を考案すべきではないかというのが、私のいまのところの考えです。
[素材は表現に優先する]という命題は、実はヘーゲルの弁証法とマルクスの唯物論弁証法から導き出されたものです。そういうふうに書くとたぶん、ワカラナイと思うので、それらはコインの裏表だと思って下さい。
・身体論としていうとき、いまここにコップがあり、それを手にする。そうすると、そのコップは身体の延長になる、ということは猫の夜会で話しましたね。このとき、コップというものを単なるガラスの素材の容器であって、精神(意識)はそれをコップというふうに認識しようと、しまいと、それは「私」の意識の勝手な思い込みであるというのがヘーゲルの考えなら、マルクスの場合は、コップという「物」が在って、それを精神(意識)はガラスの素材で創られたある表現であると認識する。要するにいっていることは同じなんです。コップという「物」が先にあるか、意識が先にあるかという違いだけです。どっちも生ずるものは対象(その物)の、意識(観念)なんです。

SLOFT通信・女3への手紙・1

加東サユミ さま

『演技者の存在と演技の存在』
タイトルは難しいですが、その意味としての読み方は「演技者はどんなふうにアルのか、その演技者の成すところの演技というのは、どんなふうにアルのか」ということです。
出来るだけ詳細に順を追っていきます。
・演技者というのは舞台で何らかの役に就いて、演技をする者です。ですから「役者」というふうにいいます。私はあまり「役」を重視しないので、ふつう演技者と呼んでいますが、同じものです。私が「役」を重視しないのは、理由があります。そこから入っても辿り着くところは同じだと思われるので、そこから入りましょう。
・役者は役作りというものを「してしまいます」。
・何故なら、戯曲いろいろな「役」が書かれてあって、演技者はそのどれかの「役」を演ずることになるからです。
・このとき、戯曲というものは未だ「書かれた劇」です。
・この「書かれた劇」が演技者の手に渡るや否や、「演じられる劇」へと移行します。
・その後は、事情と都合で、戯曲には手を入れられ、書き込みや削除が行われます。これを戯曲の「台本化」といいます。
・この事情と都合の中には、演技者も含まれます。戯曲(「書かれた劇」)においては、「役」というものは「○○ガアル」という「在り方」で書かれています。(よく、昔話などで、~あるところに、お爺さんとお婆さんガアリマシタ~というのと同じです。これを~あるところにお爺さんとお婆さんデアリマシタ~とするとずいぶんと奇妙なことになります)
・演技者は「役」を手にして役者となるのですが、このときは、演じられる劇に移行するために、「○○デアル」という「在り方」になります。『夕月』で例示すると、加東サユミ「ガアル」から女3「デアル」に移るのです。
・このとき、演技者は「役」というものをイメージします。これは生理的、自然的なもので仕方ない営為です。加東サユミは、女3をイメージします。これが、加東サユミの脳の中で行われる戯曲の「台本化」です。ここにおいて加東サユミにとって、戯曲は書かれた劇ではなく「演じられる劇」へと移行しています。
・次に、加東サユミは、脳の中の「役」のイメージと、現実(素材)として存在する(加東サユミ「ガアル」加東サユミ)と、イメージである(女3「デアル」加東サユミ)を対応させていきます。このときに、[素材は表現に優先する]という命題に突き当たります。そこで、加東サユミの脳裏では、「ガアル」ものをどの程度まで「デアル」ものに変貌させることが出来るのか、自身の「演技」の力(「演技力」ではナイのでこう書いておきます)を計りながら、あるいは演出者の力量や相手役の力量を計りながら、想定し、「役」をイメージから実態へ移行すべき準備をします。
・しかし、ここが身体論の難しいところでもあるのですが、脳髄もまた身体の一作動にしか過ぎません。たとえば、走り高跳びの選手は、バーの高さをみて「飛べる」「飛べる可能性はある」「飛べるかも知れない」とは思いますが、「絶対に飛べない」高さには挑戦しません。(それは脳が現前のバーを観て判断します)同様に、演じられる劇においての「役」が「演技出来る」可能性を持っているから、それをイメージするのですが、演劇の場合、困ったことに、現前に現実のバーなどは、ナイのです。

SLOFT通信・女3への手紙・序

これは女3を演じた加東サユミに直接渡すはずだったものだ。しかし、「渡したいものがある」と電話したら「今度近くにいった時、寄ります」という漠然とした返事だったので、郵送するのも面倒だし、普遍性もあることからSLOFT通信に全文を掲載することにした。別の公演の稽古が始まるから、役に立つかな(立たないだろうけど)と思ったが、今度近くに、では、いつになることやら知れぬので、まあ、読めりゃいいやというところだ。
これは、もちろん、あの猫の夜会からの続きだ。こっちは無い知恵しぼって、書き上げるのに夕刻5時までかかった。で、電話したアト、さすがに馬鹿馬鹿しくなって、くだらねえ1日だったなと、丸めて棄てた。
しかし、それでは私の労苦も報われまい。今度はさらに資料を読み直し、晩飯食ってから書き直して、書き終わったら11時だった。さすがに、風呂につかりながら、オレのやっていることはほんとうに、正しいことなのかと反問かつ煩悶した。しかし、この世には、「正しさ」というものはナイ。もちろん「悪い」もナイ。それらがあるならば、この世界の中に、その概念を求めねばならない。そんな概念など差し出せぬ。「善悪の彼岸」とはうまいこといったもんだ。そう述べたニーチェは、善悪を決定するものは時の権力だともいってのけた。おみごととしかいいようがナイ。
浮いた恋の好いた惚れたではナイ。私はひたむきに格闘している者が好きなのだ。そういう意味では『夕月』のSLOFT4人もみなそうだった。そう思えば、これは、その4人に向けて掲出して構わないはずだ。で、そうする。
「今度近くを通っても、寄らなくていい」

2011年9月26日 (月)

SLOFT・猫の夜会(続)

SLOFT                                
戯曲のコトバというのは書きコトバだ。しかし、ジャック・デリダが懸念、疑義するほどのものではナイ。(だいだい、デリダの書きコトバへの疑義こそを私は疑義する)戯曲のせりふは「語られる(パロール)」ために「書かれて(エクリチュール)」ある。ここにすでに矛盾が存在する。演技者は、書かれたコトバを語るべき者が語るようにして語らねばならない。これを演じられる劇といい、演技という。
そこで、また女3にもどる。女3にたいする私の仕事は、女3の希求どおり、書かれたコトバを語るべき者が語るようにして語ることを、女3と女3を観るものが納得するべく指導する、と、簡潔にいえばそれだけのことだ。
夜会は続く。女2の質疑に対して、カラダ(身体)の固有性をいう。砕いていえば、「カラダというのはこれよ」と、女2は自分のカラダを示してしまえば、コトは終わる。しかし、ひとのカラダというのは、それとは別に普遍性を持っている(これをフォイエルバッハの哲学でいえば「類」という概念になる)。ひとは固有の存在であるが、類的存在なのだ。これは何を意味するかといえば、「類的」といった場合、ひとは他者のカラダを固有性と同様なカタチで了解出来ないということだ。フーテンの寅さんのせりふを借りれば「オレが芋食って、おまえが屁するか?」ということだ。
それでどうなのか、それはワカラナイが、ここまでは理解、了承、しておいたほうがイイよう気がする。個人は固有のカラダ(身体)を意識出来るが、それはあくまで固有性としての存在確認であって、類的にそうであるためには、他者による確証を要する。これを演技に転化していうならば、演技する演技者は固有性であるが、その演技(これは類的な表現に該る)は、観客(類的な身体)によって、「かくもそうであるように」認識され得なければならない。そうして、「かくもそうである」ように「類的」に認識された表現は、固有の演技者へともどって来ることになる。そのことによって、固有の演技者は、「かくもそうである」ことにたいする納得と、了解と、いうなれば「溜飲の下がる」ことを意識する。女3の希求を巡っていえば、そういうことになる。女3は、自身の殻が破りたいのだ。そこで、たとえば、目の前に胡桃があるとする。胡桃の殻を破ることはいろいろな作業や工夫で成されるだろう。しかし、そこに胡桃がなければ、どうしても殻を破ることは出来ない。胡桃がナイんだから。胡桃の殻を破るには胡桃が必要なのだ。女3にとって胡桃とはナンなのか。禅問答だな、こりゃ。
さて、演技においてカラダ(身体)というとき、演劇の演技における身体(カラダ)というものは、身につけているものすべて(たとえば女3のハイヒール・女1、2の剣)をいう。それらを、「身体の延長」と考える。もちろん、衣装もそうである。さらには、石段や壁、そうして、劇場全てが演技者の身体の延長に在ると考えるべきなのだ。なぜなら、それは身体における脳髄の活動範囲だからだ。「脳は脳の活動しやすい(自身の脳に合わせて)実環境をつくる」(『唯脳論』養老孟司)。およそ、身体性(カラダ)をいうとき、たとえば演劇、演技でそういうコトバを用いるとき、この程度のことは学んでおくべきなのだ、ワークショップの指導者のアホたちは。ただ、自身の経験(という非・学的なこと)と、輸入学問とで何も知らない素人相手に錢儲けが出来るのもいまのうちだ。SLOFTは、迷える小羊は基督教に任せて、まよえる小犬や子猫を導いて往く。(温泉にも行きたいけど)

SLOFT・猫の夜会

SLOFTwork1『夕月』の最後を飾るかのようにして、その猫の夜会は始まった。もとはといえば、喫煙場所にいる女3を口説きに(いや、もう、そんなことはどうでもイイ)女4が加わったあたりで、私は女4に「あなたはスタイルで演技が出来るひとだから、そのスタイルはテレビ・映画で使うことは構わないが、抽斗のひとつとして、スタイルを拠り所とせず、常にSLOFTにおいては試行していくこと。それもあなたに出来ることなのだから」と、総評めいたことを述べた。女4はハナからにそれがすんなり理解出来たワケではナイ。いくつかの質疑の往来があって、女4はそれを納得する。そこで、女3に、あなたは『夕月』において自身のどのシーンが好きであったかを問う。女3は私への遠慮もあって躊躇う。私は「あのお絵描きのシーンは好きですよ」とコトバをむけた。女4も諸手で「あのシーン良かった」と賛意するが、女3はそこで、重い口をやっと開く。「アノシーンは好きではナイのです。私が好きなシーンはエピローグの詩を口ずさむところです」その理由として、「自分はお絵描きのシーンなら簡単に出来るんです。カラダも小さいし、声もこんなのだから、いままでやってきたから。でも、私は、最後の詩のシーン、あのシーンが出来るようになりたい」
エピローグの詩のシーンは、私が一週間ほど、入院したときにベッドから窓を観ていて創った詩だ。既に述べたように、演出助手トヤマも、オガワアサミ女史も、他の多くのひとが、あのシーンにはヤラれているようで、まあ、それはホンがいいから仕方がナイ。ただ女3の希求が問題なのだ。お絵描きのシーンは、女3の身体性を利用して、演出された観客向けのシーンでしかない、といってしまえばそれまでのシーンだ。しかし、彼女の求めている身体はそうではナイ。そんなことは私にはたいていはワカッテいたのだが、打つ手がなかった。というより、いろいろ打ってみたが、失敗した。これはもう、壱からやるしかナイ。次回は基礎から徹底して試行錯誤する。
このあたりで、女1・2が加わって来る。というか、いつからいたのか、私は気がつかないでいた。女2は女3の希求にも触れつつ、あるワークショップで「演技はカラダでやるものでしょ」といわれたのだが、じぶんには溜飲が下がるということはなかった。で、おめえ、どう考えるんだよとニャーと私に向かって鳴いてみる。ここから身体論へと入っていく様相をみせる。身体論は難しいのだ。その理由は、身体には「脳髄」も含まれる。ということは「観念」「意識」「精神」も当然、含まれることになる。脳がどれだけ心的領域を持っているのかはワカラナイが、「思考」は脳の専売特許であることは疑いを挟む余地はナイ。
とりあえず、そこでの女2への答だけを述べておくと、おおよそ、現在流布されているワークショップは、身体を扱う。これはスタニスラフスキー、リトラスバーグ、の支流、亜流、枝葉、新開発、修正、の何れかだ。(ブレヒトを含めてもよいが、あいにく私は彼の理論はよく知らない。異化効果というものも、私の知っている限りでは、さほど大袈裟にいうほどのものではナイ)。これらの演技術には、常に欠落しているものがある。「戯曲とは何か」という本質との関係性だ。それに最初に異論を発したのは、岸田国士(『演劇講和』)だ。彼は劇作家という立場から、演劇現場における戯曲の軽視に対して警鐘を鳴らしたワケだ。
(つづく)

2011年9月25日 (日)

SLOFT通信・39

SLOFTwork1『夕月』は幕を降ろした。集客目標300人で実数290人だから、そういう点ではヨシといえる。が、SLOFTは劇団ではナイので、集客増員はハナから問題ではナイ。とはいえ、公演という興行であるので、観客に向けての演出も必要になってくる。このあたりの使い分けが、私自身の課題となって残る。ともかく、演技者はそれなりに成長したと考えて大きく間違ってはイナイ。ささやかな打ち上げの宴ももたれた。
喫煙場所に女3がひとりでいたので、口説きにいこうと近寄ったのだが、話はすぐに演技論になった。こうなると主目的など吹っ飛んで、私の頭はすぐに切り替わるから始末が悪い。女3はともかく浮かない顔が多かった。深刻そうな表情が多かった。理由を訪ねると「お腹がすいてるだけです」などと、役者にしては、下手なウソをいうときもあった。そのあたりを話し始めると、いつの間にか女4が座っている。女4を交えて演技論が続く。と、まるで猫の集会のように、女1・2も周囲にいる。コトは「身体論」へと進む。これは女3が問題にしていた演技とも大きく関係する。身体論は難しいのだと断った上で、女3に施した演出、何度も変更した演出を踏まえながら、女2が「演技はカラダだといわれた」ということについての、私の考えを述べる。演劇において、身体とは何かという本質論に及ぶ。女3の悩みが何であったのか、が、明らかになってくる。ここで、先述した興行的に観客に向けた演出と、女3の望んでいたSLOFT(というより、私に対する要求)のズレが鮮明になってくる。小一時間の質疑応答がもたれる。で、総員ともかく、なあるほどと、それぞれがとりあえずは納得してお開きとなる。女3を口説くのは次回に持ち越されることになる。次次回かも知れない。終にやって来ないかも知れない。まず、女3の目標にそった修練が先だ。こっちもそのほうがやり甲斐がある。必ず目的を遂げさせてみせる。期待ハズレの稽古、ヘボな演出では終わらせない。口説くのはいつでも出来る(ワケがナイのだけど)オガワアサミちゃんとの温泉もいつだってイケル(ワケがナイのだけど)。天才は、ともかくも、何があっても一歩進むのだ。
帰りの車で演出助手トヤマ曰く「SLOFTっていいですね」。たしかにイイ。いまこれほど真摯に若い人と談論がもたれるところはナイだろう。
次回の『この夜の果てへ』は難しい戯曲だ。されど、狭き門より入ることを辞さない。

本日、楽日

なるほどねえ、落合解任の理由は、中日新聞の売れ行き激減で、賃金が払えなくなったという錢の問題だったのか。売れ行きが減っているのは、中日だけではナイと推測するが。だって、どの新聞も似たりよったり転んだりだもんね。
マチネだけだったので、トヤマと大池を誘って、晩飯。東京からテツが来ていたが、他の連中と飯(飲むことネ)の約束があるので、私ゃそっちには流れなかった。ともかく大勢はイヤ。大池はどちらにも誘われていたようだが、テツのほうにはアトから合流ということにして、こっちで飯(こっちは食うだけだから)そのあと、ミスドでコーヒーしながらテツに電話すると、ご盛況のようで、こっちは三人でカラオケ。といっても歌ったのは私だけ。1時間して退出時に、テツから電話、いま飲み会が終わったのでそっちでカラオケがやりたいとのこと。こっちはへとへとだから、もう帰って寝たい。トヤマも疲れていて帰したいので、足の関係もあって、テツは放っておいて帰宅。他の連中とたっぷり話も出来ただろうからそれでイイのよ。私ャ東京に出向くコトも多いからネ。
さて、今日は楽日。朝は、たっぷりと寝たので(夜中一度も起きていない)体調ヨシ。私の仕事は打ち上げの料理三種。資金は、差し入れで金一封頂戴しているのでそれで賄う。まさに賄い。たいしたものは出来ないが、たいしたものでナイもなら出来るので、まあ、お楽しみに。

2011年9月24日 (土)

SLOFT・38

SLOFT
演出研修(から格上げで、今日から演出助手になった)トヤマにいわせると、本日のマチネの女2はいままで最高の出来だったそうだ。(とはいえ、トヤマは幕裏から聞いていただけなのだが、彼くらいの力量でも、それくらいは判断出来る)。ところで、私は本日の芝居はとてもつまらなく思えた。客席は50、満席だ。演技者は客席を巡って、本番中も自身の演技を構築する。観客は舞台を観ている。私はその観客と演技者の舞台を観ている。1時間前後して、客の反応が散漫になっているのがワカッタ。もう、殆どの観客は芝居についてきていない。しかし、舞台の出来は、60点を下回っているということはナイ。こういうことはよくあることだ。(よくあっては困るのだが)。終演後、上演台本は一冊も売れなかった。昨日の夜は38人の客数で10冊ほど売れたのに。
重要なのは、客の数ではナイ。舞台と観客のcycleなのだが、本日のマチネの客は損をしたなと思う。客が損をしたなと思うのだ。2000円のチケット代金を支払ったなら、せめて2000円分は、観なくては。何でもかんでも与えてくれると思うなよ。そういうふうに育ったきみたち観客の損なのだ。たとえアンケートに「つまらん、2000円返せ」と書いても、錢はもどって来ない。否定的に幾らでも元はとれるのだ。私がつまらなく思えたのは、ほんとうは本日の観客のほうだ。「0からわかる数学」とか「超訳ニーチェ」なんて読んで、楽ばかりしようとしている、いまの若いひとを、エピローグで皮肉ったのも、たぶん気がつかなかったろう。曰く「猫に小判」。とはいえ、私は、本日の舞台を1敗とした。私たちは、そこまで後退、転戦しながら、挑まねばならないからだ。

SLOFT通信・37

昨日はマチネ・ソワレとも村崎さんのカメラが入る。彼のカメラは固定1台と作動1台、これで5人のクルー分以上の仕事をする。まるでマジックだ。
マチネは女2が、せりふを一つ飛ばして、それ修復するために今度は10行ばかり飛ばして、また忘れて、と、書いてみるとエライことになっているようだが、観ているほうにはワカンナイのよそういうことは。だいたい語っているのが乖離性同一障害についての難解(らしい)せりふだからね、興味のナイひとは寝てるから。私がこの小論をせりふにしたのは、Shakespeareそのままの邦訳を意訳したんじゃつまんねえから、長いせりふをこしらえたの。でと、終演後、女2にああいうときの切り抜け方を教える。SLOFTではそういうことも教えるのだ。
ソワレまでの休憩時間、血圧がエラク上がってカラダがきつかったので、オガワアサミ女史と演劇の話をする。適当に喋ってカラダを誤魔化していたワケです。ごめんねアサミちゃん。今度、温泉行こうネ。で、いまひとり、誰だったか受け付けボランティアの娘さんが挙手して質問してきたので聞く。「おまえの演技はフィクションが鼻につくとあるワークショップでいわれました」と始まって、1分ほどの間に様々な語彙が入る。で、私は応える。「いっぱい、コトバが出てきましたが、キチンと概念がワカッテ喋っているのが少ないような気がします。たとえば、[演技]ということが何であるのか、私なりに学びとるまでに、何年もかかってんのよ」。以下について教えて欲しければSLOFTにいらっしゃい。(ほんとにSLOFTに加名した)。誰のワークショップにいってたのかつうと、30年ばかり前東京帰りを売りにしていたマの字だ。なんだ女房に食わせてもらってるあやつか。
ソワレは「カッコイイ芝居にしましょう」という目標に依って、90点。トヤマが帰りの送りの車の中でボソっという「今夜の芝居は最高の出来でしたね」。トヤマ、観る目あるなあ。書く戯曲はツマンナイけど。しかし、それだけ観る目があれば書く手も出来てくるでしょう。

2011年9月23日 (金)

バカヤロウ

いわゆるディレクター チェアーなどナイから、あっても座っているより動いているほうが多いのだろうが、時折、黙って座って稽古を観るときは、いつも中日、落合監督の気分にココロ重ねてしまう。勝手な思い込みだけなのだが、じっと動かず試合の情況を分析している眼鏡の奥に、如何にこの試合に勝つかという演算の静かな音を聞く。最近の中日の試合は観たことはナイが(テレビを観ないので)、相も変わらずだったろう。毎朝、ネットで昨日の結果を観る。僅か1点差勝利が多いということに大袈裟にいえば感無量な心境になる。ともかく相手より1点多くとれば勝ち。1点少なければ負けの世界だ。大量得点など(試合はオモシロクなるだろうが)私にはどうでもイイ。
かつて巨人の江川投手が、味方に3点差があれば、相手には2点とらせてもイイというピッチングをすると発言して、多くのファンに傲慢不遜と嫌われたことがあったが、私はこのピッチャーが、そのときから好きになった。
で、落合監督は来期は退任してやんないそうで、理由は、客が入らないからだそうだ。つまり、ゲームとしてオモシロクないというファンが多いんだそうだ。愛想がないのがイカンのだそうだ。憮然がアカンのだそうだ。
ま、いいや、私ゃそれでも稽古を観るときは、落合ふうに(「オレ流」とはいわないが)私流で観る。そこに在るときだけは、あらゆる面倒なことは排除する。私と演技者との恋愛があるだけだ。 チェッ、バカヤロウ。その炭素が石炭なのか金剛石(ダイアモンド)なのか、どこでどういう判断をしたのか知らないが、くだらねえことに拘泥して、落合ひとり守れないなんて。

2011年9月22日 (木)

SLOFT通信・36

あんまり学がナイので、大きなことはいえないが、エクリチュール(書かれたコトバ)に対しては、ポスト構造主義の旗手でもあった、ジャック・デリダほどには憂慮していないのだ。何故なら、単純に戯曲というのは「語られる(パロール)ため」に書かれたもの、エクリチュールであるから、のっけから、デ・コンストラクション(脱構築)していると解釈しているからだ。それがいくら固有にズレていっても、演じられる劇においては、問題になるのは、演技者のコトバ(せりふ)の表現だけだからだ。私たちにとっては音声言語(パロール)も書きコトバ(エクリチュール)も、そこにおいてのみの葛藤と苦吟であって、いってしまえば、おんなじなのだ。従って、私たちはパロールかエクリチュールかという二項対立よりも、「誰が」そのコトバを「如何に」発するかを問題にするというワケで、コトはアリストテレスからプラトンまで一気に飛んでしまう。プラトンによれば、物事を善悪で分けようとするならば、物事より前に善悪それ自体が存在しなければならない。これをイデアというが、それは実体を持たないから、問題はアリストテレスの、材料(素材)という概念になる。素材は実体だから面倒なのだ。というのも、演技者というのは素材という実態で、これをイメージ化しようと、虚構化しようと、そもそもそこに身体と精神として存在するのだから、いわば背丈をもう10㎝伸ばしてくれ(くらいは靴でなんとかなるだろうけど)、背中に羽根を生やして天使のように飛んでくれ、とは、いえないのだ。
この間、女1・2・3・4の素材(実態)と向き合ってきて、その固有の演技者に、どのような演出(mission)を向けるのが適切であるのか、それはまさにアリストテレス哲学との闘いだった。ところが、ひょんなことから、とある打ち合わせで、私の戯曲を仕事の上で幾つか読んだ演劇関係者から「北村想を最初読んだときは、コイツ巫山戯てんじゃないのか、と思いました。でも別役実さんを読んだときもそう思いましたけど」と、(たぶん、唐さんの戯曲を読んだって彼はそう思うに違いないのだが)まさに、私の戯曲の本質を突いたコトバを聞いて、そうそう、私の戯曲はフザケてんだよなあ(演出も)。と、妙に得心して、本日のrehearsalは、その本質によってみんごとアリストテレス哲学の素材(実態)優先を破砕してやってみた。たぶん、正解だと思う。
公演途中で、演出を変えるということはしないのだが、これがSLOFTではやれることなんだろうと思う。演技者も、私のかくなる演出によく付いてきてくれるよ。

2011年9月20日 (火)

黄昏の浜辺にて

さあ もう泣かなくていい 大きく息を吸って吐きなさい
悪かったのは私たちなのだ いや私たちとて そんなに悪くはない
私たちは この浜辺で、火を焚いて 笛を吹き 太鼓を叩いて ギターを鳴らした
舞い踊り 詩を吟じ 歌をうたって せりふを語った
きみたち幼い兄妹は それを最後まで観ていてくれた
きみたち幼い兄妹が 私たちに差し出した 代価の 貝殻は
この浜辺で きみたちが拾ったものだということは 私たちはみんな知っている
大男の役者が怒ったのも無理はナイ 彼は空腹だったのだ
ずいぶんと 空腹だったのだ
私たちのすべてが空腹だった 誰も彼もが 腹を減らしていた
だから すっかり忘れてしまっていたのだ
私たちの拙い芸を 最後まで観ていてくれたのが、きみたち二人だけであったのを
ごらん あの大男は海に投げ捨てた きみたちの代価を捜して 海の波をかき分けている あれが あの大男に出来る 精一杯の きみたちへの償いだ
笛吹は 筒を磨き 太鼓叩きは皮をなめし ギター弾きは弦の張りを直している
詩を吟じた者は湯を沸かし お芝居をしたものは 汗を拭いている
私たちは今夜ここにいるが 明日はもういないだろう
きみたちは 私たちについてくるつもりだったろうが 私たちはもういないのだ
私たちがいなくなったからといって また泣いたりしないでおくれ
さあ 涙をぬぐいなさい 幼い兄妹
私たちは忘れないでおこう きみたちが私たちの芸を観ていてくれたことを
私たちとともに 私たちの芸もまた消えてゆくのかも知れないが
きみたち幼い兄妹の瞳に残ったその影は ちょうどきみたちが そう
きみたちが おとなというものになって 私たちに差し出した貝殻に変えて
貨幣というものを手にするまでは 残るに違いない
私たちの命も きみたちの命も 時の流れは惜しみなく奪うだろう
だから 惜しみなく与えればいい
さあ 帰りなさい さようなら さようなら さよう なら
もう一度だけ いっておく あの大男は悪くはナイのだ
ただ 空腹だったのだ
この世の中で もっとも怖いもの それが空腹だと おぼえておきなさい
そうして くうふくは こうふく と一文字チガウだけだということも

2011年9月19日 (月)

向かえば虚構

パソコン(かつては原稿用紙)に向かえば是れ即ち虚構
物に向かえば是れ即ち虚構
他者に向かえば是れ即ち虚構
自身に向かえば是れ即ち虚構
カラダに向かえば是れ即ち虚構
ココロに向かえば是れ即ち虚構
コトバに向かえば是れ即ち虚構
自然に向かえば是れ即ち虚構
現在、過去、未来、時に向かえば是れ即ち虚構
森羅万象に向かえば是れ即ち虚構
およそ向かうところ万事全皆是れ即ち虚構
虚構に向かうも叉是れ即ち虚構
よって虚に往きて 虚に還る

2011年9月18日 (日)

SLOFT通信・35

SLOFTwork1『夕月』一週目終了。50名限定に申し合わせたように1stage45人ずつ、3stage。ただし、現在のチケット売り上げ情況は、175枚だから、二週目までにどれだけ口コミが効くかというところ。
戦績は二勝1分け。1分けの理由は、今日、急遽、拘泥していた女3のシーンのせりふをみんな変更したための波及。女3は昼飯抜きで稽古。この原稿も、小屋についてから、タカアキに打鍵、プリントしてもらう。というのも、午前中どうしても答えが出せず、仕方なくスラムを出て、坂を降りるところで、アッそうかと気付いたから。演技者にはホンに還れといっておきながら、自身がホンに還らなかったのがマチガイだった。稽古終了後、演出研修のトヤマとタカアキに「良くなったとおもうがどうだろう」と感想を求めると、両者ともに肯定。女3は、未だ自らを知らず。というか、自らの素材の使い方を知らないでいる。34歳だが、遅咲きなんだと思う。必ず咲くと思う。努力はひとのためならず、というところだ。本人が見切りをつけて結婚とかになれば、それはそれで構わない。そういう逸材の損失は過去に幾つも経験していることだから。今回の4人は未熟なれど、みな逸材だ。石炭に終わるか金剛石になるか、同じ炭素でも、今後を期待。
『夕月』は、私が小劇場演劇を始めた当初のように創作してある。競泳水着でのコーラスで始まり、詩的なエピローグに終わる。ほんとうは、何も目新しいことはナイのだ。私は私のやってきたことだけを、伝え続けていけばイイと考えているからだ。擬制罷り通るいまの演劇情況に、一石を投じる程度ではナイ。これは貧者の一灯だ。もとより、貧者の一灯とは、貧しきものが、釈尊の説法の際に、富裕の者が灯した灯油の火の中に混じってただ一つ燃えていたものではナイ。逸話によれば、この説法のとき、野外に在りて突風が吹いたが、ただひとつ消えずに残った灯をいう。
SLOFTを目標5年とか、なんとか3年とかとは云わぬ。残った命はくれてやる。と、頭の半分は考えている。アト半分は、女と温泉に行きたいなと考えている。

SLOFT通信・34

初日。1時間半前に、舞台隅に出演者を集めてコソコソお話。観客論について大雑把に解説。観客論をやるより前に「度胸論」をやれといったのは、唐さんだったなあ。締めくくりに「ほんとうは、遠足に行くような気持ちでやれればいいんです」。そうはいかないだろうけどな。
結果、危なっかしいところは数カ所あったが、稽古時を70点でやってきたとして、75点とする。「良くできました」。今日は二日目、マチネ、ソワレ、60点くらいの引き分け勝負でなんとかいきたいね。
観客は45名。50人制限だから、まず満席。観客、気楽なもんだぜ。こういうことをブログで書くと、傲慢不遜、増長ととられるが、実際、観客は気楽なんだからその通りではないか。何か切羽詰まった事情があって、芝居など観に来る者ありや。ただ、曰く、何かしら、何だか惑わしい日常、煩わしい生活、嫌気さす毎日、少し芝居でも観て、気分を変えようかなら、観て悪くはナイ。このひとたちはナンデこんなことを一所懸命やっているんだろう。なんの話だかワカラナイし、長ぜりふも耳に入ってこないけど、ずっと喋っている。何故、こんなことに一所懸命になれるんだろう。そんなにオモシロイ芝居じゃなかったけど、テレビを観ているのとは、全然違った。・・・・という客。
SLOFT、なんだよ、古臭い芝居だなあ。いまさらなんでハムレットなんだよ。乖離性同一障碍なんてわかんないし。チケット買ったからしょうがねえけど。・・・という客。
あんたが物識りなのはもうわかった。蘊蓄はいい加減にしてくれないかなあ。たしかにシェイクスピアはせりふが溢れているから、そういう真似をしたんだろうけど、聞いてて疲れたよ。眠くなって寝ちゃった。・・・という客
SLOFTねえ、道場ねえ、んで、この加名員さんというのは、これで、何か上手くというか、上達と いうか、したの。演出もいまいちだったしなあ。・・・という客。
いっておくが、如何なる観客であるにせよ、私は、観客のために芝居を創ったなどということは一度もナイ。(賃仕事は除きますがネ。ありゃ、ちょいと騙くらかして、やっちゃいますから)。で、例えていえば、神(造物主)は人間のためにこの世界を創ったのではナイのと同じ。(私が神だといってんじゃナイよ)。
本日もまた、演技者(加名員)は自らのために舞台にたてばイイ。演劇は観客との共同幻想ではナイ。観客の固有の幻想はまったく拒みはしないが、固有の幻想の僕になることは拒否する。私たちは天使が徒党を組んで悪を成すがごとく、舞台に舞い降りるだけだ。(裏では汗かいて走り回ってんだけどネ)。

2011年9月17日 (土)

SLOFT通信・33

ゲネプロ。見学者多し。出来を一昨日の最後のrehearsalを70点とすると30点。上演時間が1分半短くなっているのは、良くない。特に女2、4はトチリ、間違い多し。これは「ホンに還る」しか方法はナイ。女2は28点だが、ともかくもそこで必死に持ち堪えたことは褒めておく。rehearsalから比べて、せりふの音調が上擦って、落ち着きがナイことを、本人は気がついていなかったらしく、出、のシーンを演出しなおす。奏効あり。テイク2にて、ヨシとする。女1は最も若い24歳なのだが、あの演技勘はどこから学んだのか、ワカラナイ。天性のものとしかいいようがナイ。天才ではないが、天性ではある。
微妙な点を直して、本日本番まで稽古なし。女4の下降は、何が要因なのかワカラナイ。私にだってワカラナイことはワカラナイのだ。かんがえられることは、「ホンに還れ」ということで、ホンを読み、その正確さに拘るあまり、実態が後退したかだが、つまり、ホンにココロを置いてきちゃったかな、というところ。もどしてこい。もどしてこなければ、ホンに還っている意味がなくなる。
スタッフのオガワ・アサミ(私たちの世代にとっては懐かしい名前でしょ)に、演出について(彼女は某劇団の演出家)レクチャー。特別サービス。とくべつさーびす。とくべつ(下心あり)さーびす。

2011年9月16日 (金)

『無門関 禅箴』の公案に答えて 

『無門関 禅箴』
「規則に従い矩を守るは自縄自縛
自由奔放に生きれば外道悪魔
心を澄ませて沈めるのみは沈黙の邪禅
傍若無人に振る舞えば深き谷間に転落す
常によく目覚めんとすれば自分の首に枷を嵌めるようなもの
善いの悪いのと思惑するのは地獄天国の迷いの世界
仏や法を有り難がるは二重の鉄山
念起りこれを自覚するは、霊魂を弄するにほかならぬ
ただ座ればひとりよがりの穴ぐら住まい。
進めば法を見失い、
退けば宗に背く
進まず退かずは、死人も同然
いえ、如何に禅を実践すべきか
生きているうちに答えを出さねば 
憂いを永久に留めるぞ」

想子 答えて曰く
「倫理あれど規則なきて 我が身を縛る縄なし  
外道悪魔は同志朋輩なりて、自由奔放
心を澄まし沈めて沈黙するを邪禅といわば 禅なるは邪に過ぎず
傍若無人に振る舞いて 深き谷間より這い上がるも遊戯
居眠りばかりで首の枷など気にとめず
我が身は善悪の彼岸にありて 迷いなし
仏も法も未だ眼前に観ずして これを頼らず
念起こり自覚すれど 霊魂の有無は語らず
座らず 横になりてアパート住まい
進む 退く は我が意にあらず ただ無常の動くのみ
無常の道を進むも退くも 無にとどまる証より他になし」

SLOFT通信・32

昨日は最後のrehearsal。本日、夜、ゲネプロをもって、稽古は終了。昼稽古はなし。というか、悪あがきしても仕方ない。rehearsalでは、昨日より数は減ったがトチリ、せりふ間違い多し。拠って「ホンに還れ」。けだし当初の目標であった「カッコイイ芝居にしましょう」は達成されたりと思える。「交通事故に気をつけるように」「生ものを食べるのは避けるように」と指導。本番当日の弁当スタッフにも、刺身や揚げ物の多いものは出来るだけなくして、煮物の多いものでと注文。「役者はなんでも食えるくらいタフでナイと」というウソや見栄はつかない、張らない。劇団第三舞台(third stage)の鴻上尚史は、本番公演中の役者の飲酒も禁止したそうだが、それは正しいと思う。その程度の禊があってもいいではないか。「米飯だけ食ってりゃイイんだ」と指導?。握り飯がほんとうはイチバンいいのかも知れない。赤穂浪士討ち入りの際、まるまる一晩に渡る死闘で、摂った食事は握り飯と水のみ。(交替で飯は食ったところはスゴイね)。
人事を尽くして天命を待つ、てなことは私は信じていない。都合のいいときだけ「天命」などといってはイケナイ。人事を尽くしてダメなときもある。さらに人事を尽くすべく努めればいいだけだ。よって、演技者には「勝負の世界ですから、勝ったり負けたりはあります。出来のイイ日、悪い日もあります。SLOFTにおいては、負けるがよろしい。そのための道場です。何故、負けたかを考えるほうがイイんです」ダメなときでも60点、引き分けに持ち込みたいというところ、はむかしと変わらない。

2011年9月15日 (木)

無常に対する疑問・続

ところでこの「無常」というのは、東欧的思想(仏教)なのだが、西欧ではコウイウものはドウイウふうになってるのだろうか。西欧であるのだから、いわずと知れたキリスト教ということになる。西欧哲学の場合、おおまかにいえば、その始祖的存在であるプラトンから、あんまり変わっていない、というか、西欧哲学はその脚注と展開、補完、継続・・・なのだ。要するにプラトンのいったことはたった二つだ。「イデア」と「対話術」。プラトンは、のっけから、この世界の外(としかいいようがナイのだが)に「イデア」という、この世界の理想的な設計図が存在するとした。(ほんとにそう思ったのか、仮にそうしたほうが物事が考え易いと思ったのかは知らんけど)。設計図があるのなら、その通りに如何にこの世界を造形していくか、だけが問題になるだけだ。そこで、それを「対話術」(これは後に弁証法となる)として、相談しましょう、ということにした。実に単純明快な哲学だ。ここから哲学はは、アリストテレスからデカルト、カント、ヘーゲル、マルクスと連綿と受け継がれていく。現行のポスト構造主義もまた、その下流に在るに過ぎない。さらに、アリストテレス哲学は、キリスト教神学のスコラ哲学へと取り入れられる。これは二千年続くのだからエライもんだ。「無常」が、とどまるところのナイ、儚き移ろいであるならば、キリスト教の天国は、絶対静止系だ。仏教では、天界の住人にすら衰退がみられ、地獄に落ちることになっている。つまるところ、西欧哲学はキリスト教によって、「動き」を止められている。何故なら、天国というのはこの世の外に在るが、それはこの世の連続に過ぎないから、この世界の時間も速度(運動)もそれ自体としては意味をなくす。西欧哲学世界のひとびとは、この世では、時間の矢による物理学で、やがては滅するが、天国に生まれ変わって、「永遠」という途方もないところで暮らすことになる。
しかし「無常」は違う。この世のことだ。仏教にも、もちろん、念仏衆においては「極楽浄土」があるにはあるが、ここでは、天国や極楽について、あるのかナイのかワカランものについては言及しないことにする。
問題は「無常」という「運動-動いているもの」だ。「無常」を①②と矛盾なく存在識知するには、「恒常」がどうしても必要になる。でなければ「無常」を否定せねばならぬ。しかし、「無常」は在るのだ。
かくして、天才は思案熟考の末、小悟を得る。
「無」、これが「絶対静止系」だ。「無常」の存在を求めて、「無」とは何かを悟る。
「無常」という運動、「動いている」ものに対して「静止している」ものは「無」以外には存在しない。例えていえば、数学の関数グラフを考える。縦軸と横軸の中心、交わるところに在って、静止しているものは「0」即ち「無」。「無」とは「何もナイ」ということではナイ。そういってしまうと「何もナイものが在る」ことの矛盾にはまるだけだ。
「無」とは「動か[無]い」ということだ。コトバを換えていえば「無常」と二項対立するものは「無」ということだ。「無常」、動くもの全てに対して、即ち森羅万象、この世界に対して「動か無い」ものとして「無」が存在する。「無常」に対しての我が疑問は、解決に至る。喝っ。

無常に対する疑問

何かが「動いている」という事象については、二つ条件が必要だ。一つめは、「動いている」モノを観察している者が存在する。一つは、観察している者は静止していなくてはならない。もちろん、地球はスゴイ速さで自転していて、誰もそれを観察などしてはいないのだから、前者は不要だといわれそうだが、自転しているという事象をいうには、観測する以外に手だてはナイ。また、これを観察(観測)する場合、同じ速度で動いていては、けっきょく同じスピードで走っている電車が二台あって、どっちもが動いていないように感じるのと同じだ。アインシュタインの相対性理論においても、静止している観測者から観て、動いているモノは、逆に動いているほうから観ると、静止している観測者が動いているようにみえるという相対性をいう。(ここから例のウラシマ効果が出てくるのだか、それはここでは取り上げない)
ともかく、私のいいたいのは以下の2点だ。
①動いているというのは、動いていることを観察しているものが必要になる。
②動いているものを観察しているものは、静止していなくてはならない。
①の場合再度述べるが、天体などの運動は宇宙時間にして135憶年前からなので、観察する者(人類)とは無関係なのではないかという、反論必至だろうが、この反論については、単に「現在はそうである」と示せばそれでイイ。②についても、単純にこう書き換えてもイイ。[動いているということは、何かが止まっていなければ成立しない概念だ]

さて、ここから本題の疑問に転ずる。仏教でいう「無常」とは常ならむことであって、ものごとに恒常的なものはなく、すべては、移り変わっていく、ということだ。鴨長明のかの『方丈記』も「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし・・・」と、物事の移り変わりを水の流れに例えている。ところで、この「移り変わり」というのは「動いている」ということだ。つまり「無常」もまた「動いている」ということをいっている。それは、森羅万象(世界すべてが)そうだといっていることになる。ところが、この「無常」を先の①②の命題に当てはめてみると、おかしなことになってくる。「無常」という場合、「無常」であることを証明するために、①②を満足させるモノが必要になる。しかし、それを存在させると、「無常」は「無常」でなくなってしまう。何故なら、「無常」というのは先述したように世界全体の事象をいうのだから、①②を認めると、①②はこの事象から外のものになってしまう。外のものが在るのかどうかは別にして、問題は内部なのだから、外のものの干渉は受けない。
まとめていいなおしてみると、こういうことになる。「無常」を認めるとすれば、「無常」という「動き」を動きとして存在させるためには、「ナニか」が止まっていなければならない。かつ、「無常」というものが、人間における発明であるならば、「無常」という動きを止まって観察(観測)している者が存在しなくてはならない。
卑近にいってみよう。誰しも「年をとったなあ」と思うときがある。そのとき、「年をとった」という「動き」を認識している存在は誰なのか。他ならぬ自分だ。では、自分のどの部分がそういわせしめているのか。ここでも、自分の中にある「静止点」が必要になってくる。「子供の頃に比べると、青年の頃に比べると」と、自分の「現在」がいわせているのなら、自分の「現在」は「静止点」か。そんな矛盾はナイ。何故なら、自分の「現在」が「年をとった」それ自体なのだから。・・・・(つづく)

SLOFT通信・31

rehearsal。立ち位置をややずらしたりで、照明の作業あり。演技においては、演出からの指導以外に、演技者は工夫し始めている。合わせ練習で自分たちで工夫したものらしいが、こういうことに、不満や中には怒る演出家がいるが、演技者が互いに演技を工夫しながら演技を創っていくのはアタリマエだ。ひどくなってりゃ注意も入れるが、良くなっているので、そうそう、そういうふうに自分らでやれることはやってネ、と思う。
細かく二点ばかり「こうしたほうがいい」という。こういうとき「こうしたらダメだ」というふうに否定的にいわないことは演出の配慮というものだ。出来れば、何故、そうしたほうがイイのかをいえればもっとイイ。トチリやせりふ抜け、間違いが30カ所ばかりある。「ホンに還りなさい」と指導。この時期、まだ台本を持つのかという演出家もありそうだか、私の場合は、たとえ本番においても、必ずホンを読み直せと指導する。空文句でせふの確認なんかしていてもダメよ。ホンというのは、離せばイイというものではナイ。常にホンを味方にすること。
出番における「上がり」「緊張」についての私なりの緩和方法を述べておいた。要するにrelaxするのではなく「緊張」を「集中」に変容させればイイのだ。つまりバイタルサイン(脈拍、呼吸、体温、血圧)の積極的干渉だ。脈拍を上げる。呼吸に意識的になる。すべて「闘い」の準備へと向けていく。いつ攻撃されてもイイように、いつでも攻撃出来るように。
女2から、「演技途中で、集中力が散漫になり、相手役のせりふが聞けなくなくなったりすることについて」という質問。「相手役のせりふなんか聞かなくてイイ。聞いてるふりしてりゃイイの。自分の演技だけを思え」と答える。「その自分の演技に集中力が落ちてしまったら」と再度質問。「それは演技に問題があるのではなく、外的要因が強いと思われる。頭痛や腹痛、尿意、生理痛でもそうなるし、客席にヤな客がいる場合もある。常に万全の態勢では闘えないもんヨ」「客は意識せよ、かつ気にするな」

2011年9月14日 (水)

泣いているよな昼の月

月曜日は伊丹で塾。ここでは、ヘーゲル哲学を応用して、「書けない」ということについてのレクチャー。塾では、毎度、課題が出て、400字5枚の小戯曲(plot)を書かねばならない。このとき、すんなり書ける者などいない。しかし「書けない」ということは、タイセツなことで、これは野球の打者が「打てない」、数学者が数式を「解けない」科学者が事象を「説明出来ない」、医者が「治せない」のと同じ。こういうとき、ひとは「考える」ものになっている。これを学的という。で、考え方のヒントを出す。課題に対して(そのときの課題は「走る」)ヘーゲルでは[物]が多く事象として存在するとき、これを[多]といい、この[多]に対する主体(自分)を[一]とする。主体(自分)[一]は多くの物を、[多]を考えることになる。「走る」において、ひとが走っているのが風が走っているのか、噂が走っているのか。さらに細かく、マラソンということにするならば、誰が走っているのか、オリンピックで走っているのか、走法はどうか。マラソンの歴史はどうだったか。あるいは文学で走らせるなら、メロスなのか。つぎに立場を逆にして自らを[多]、[物]を[一]とする。つまりどういう自分が、その物(事象)をみつめているのかだ。さまざまな自分(主体)を想定し、その自分が[一]の物を考える。ここまではヘーゲル。ここから歩を進めて、自分も[一]、物も[一]の場合、自分も物も[多]の場合があると想定する。これを二進法(コンピュータの演算方法)で考える。そうすると(1・0)(0・1)(1・1)(0・0)のビット数が得られることになる。(この場合の0は何も無いということではなく限定無しということだ)。およそ、考えるというのは、この組み合わせの数だけあるということだ。これが「書けない」に対する、対処の仕方ということだ。
SLOFTのこともあるので、その日は、いつものホテルで宿泊。久しぶりに師範たちと飲む。と、師範から、「塾長の足が心配なので、卒塾生有志で、電気自転車をお贈りしたいと思っているのですが、お受け取りいただけますか」
ところ変われど変わらぬものは ひとの情と袖時雨れ(『越後獅子の歌』)

2011年9月11日 (日)

SLOFT通信・30

昨夜はdress rehearsal.舞台の仕込みもほぼ終了し、照明の吊り込みも終わっている。
来週からは、照明、音響を入れての本番通りの通し稽古に入る。つまり毎日ゲネプロ同然ということだ。(ついでに書くと、ゲネプロというのは観客を入れての公開稽古のこと)小屋があるとこういう利点がある。エアコンも入れる。なんしろ、衣装を着ていると女優たちはスゴイ汗だ。衣装は毎日cleaningなんてことにはいかないので、ファブリーズで、ともかく一週目までは切り抜ける予定。エアコンを入れても、涼しくなるのは観客席だけで、舞台は照明が灯るので、そうはいかない。ただし、ナビロフトは、天井が高いので、照明器具との距離があるから、まだイイ。座員においては、ゲネプロまでは観るのは無料。ただし、本番を観る場合は観劇料金は支払わねばならない。本番を観るのは、あくまで観客だからだ。
「これでいいのだろうか」という不安感は、この時期、演技者にも演出にもやってくる。しかし、その不安感がなければ、必ず、策を弄したことにおぼれて、蟻の一穴を忘れる。今日からアトは、デキ得る限りの失敗をしておいたほうがイイ。本番にhappeningやaccidentはつきもので、思わぬことが起こり得る。せりふをトチろうが、導線を間違えようが構わない。注意すべきは、機転でナイ限り、稽古でやったことのナイことはしないということだけだ。今日は「アガル」「緊張する」「せりふを全部忘れたような気になる」ことについて時間があれば、指導する。日曜日なので(といってもトヨタ系列は違うのだが)、6時半集合で、メイク指導あり。

震災未だ終わらず

タカアキが米を研いでいる。後ろ姿しかみえないが、シャカシャキという音でワカル。私も米を研ぐ。私の場合は炊飯器の容量が3合半なので、それだけ全部炊いて、みな冷凍にする。タッパと冷凍庫と電子レンジ、三種の神器。私の場合は中華鍋と中華おたま(これは少々安物を買ったので、錆びが出てきたが、まあ、鉄分を摂っていると思えば)アトは厚手の炊飯可能な鍋。これは煮物に便利だ。余熱でけっこう本格的に出来る。一昨日は大根を煮た。まだ少し冷蔵庫に残っている。独居というのは、こういう場合、食べきるというのが難しい。今日は食料の買い出しに行かねばならない。そろそろ独りで飯を食うのも飽きてきた。メニューも面倒なので、同じようなものの繰り返しになる。かといって、自炊を始めると、店屋物や、コンビニ弁当はもう食えない。近くの大手スーパーが改装中でこの秋、新装開店らしいが、そうなると、自転車でスイッと行けるから便利になる。私は出無精、閉じ籠もりなので、アウトドアもへったくれもナイ。
書き上げた賞金狙いの戯曲は11月末応募〆切なので、もう少し寝かせておいて、プリントしてから、赤入れをする。そうすると、新しい気分で読めるからだ。SLOFTの『デザートはあなたと』は、『この夜の果てへ』を観つつ、plot、castを考えながら書く。スキームは、以前書いたものと同じだが、プロットは全て変えるつもりだ。
シス・カンパニーの『寿歌』チラシが送られてきた。スタイリッシュでかっちょいい。こういう『寿歌』があってもいいんじゃないかな、と思う。というか、私ならこのメンバーなら、うんとスタイリッシュにやるぞ。
少しずつだが、『寿歌』の上演申請が増えてきた。震災以降だ。収益は義援金にするという。義援金にしてもらっても、みんなで飯食ってもらっても、当方はいっこうに関知しない。『寿歌』と東日本震災とは、何の関係もナイ。シス・カンパニーの上演も、震災前に決まっていたことだ(震災は、私が社長の北村女史と会って、数日後に起こった)。劇中に放射能、荒野などが在るからといって、シス・カンパニーがそれをアテコンだなどということは全くナイことは、書いておく。別に義理はナイけど、事実だからだ。
義援金にするとて、著作権料は規定どおり頂く。30年前にも、反核運動に利用されたりしたが、まあ、面々のお計らいでけっこう。震災は復興の時期に入っていると思ったら大間違いだということだけは、肝に銘じたほうがイイ。震災は未だ終わらず。ほんとうなら、私たちのような演劇ものがしゃしゃり出る情況ではナイのだ。しかし、私たちがマレビトであるのは宿命だ。何処から来りなん、何処へと去り行かん。
ところで『寿歌』の戯曲原本は現在、ナイ。そこで、当時のままに(『不・思・議・想・時・記』のママ)タイトルを『寿歌』として復刊の企画をしている。30余年前の天才の仕事をみよ。

2011年9月10日 (土)

恋愛的演劇論[実践編]・20

即自、対自、対他、という用語は弁証法に現れる存在概念だが、私はこれらを演劇において演繹的に取り出してきたのであって(演繹的というのは、「鳥というのは羽根があって空を飛ぶ」という命題があるとすると、じゃあ、カラスもそうだ、鳩もそうだ、燕もそうだ、というふうに情報が増えていく論理展開のことをいう)哲学学徒の諸氏には誤謬に過ぎないと一笑に付されるかも知れないが、サルトルのいうように即自とは、石のような存在だとは思っていないし、類人猿に即自(自意識)があるかどうかなどは、まったく問題にしていない。
即自、対自、対他、(ここに即他も含む場合もある)というのは、主体と情況(或いは対象)との関係と、その了解のことだ。即自と対自の分別は、即自は演技者そのものなのだが、ワカリヤスクいうと、この場合の演技者はコップをひとつ手にしているとする。ここで、演技者は「自分はコップをひとつ手にしている」という、コップと自身との情況を判断する。それ以上の情況判断、コップとの関係、了解はナイ(演技者それ自体だ、というよりも、こっちのほうがわかりイイはずだ)。次に対自に進む。演技者は「何故、自分がコップを持っているのか」「このコップは自分にとって何か意味があるものなのか」と問いかける。このとき、演技者(主体)はコップ(対象)との情況、関係、了解へとステップアップしたことになる。ただし、それ以上の情況との関係は成さない。換言すれば、演技者はコップを持っている自分とだけ、対面していることになる。対他とはは、[コップを持ち、「このコップは自分にとって何か意味があるのか」と問う演技者(主体)]をさらにみつめる情況との、関係、了解になる。これを具体的にいうと、ここに観客の視線が含まれることになる。つまり演技者の意識は、観客視線を取り込むことになる。これが観客視線に対する演技者の演技だということになる。ここにおいて、演技者は[コップを持ち、「このコップは自分にとって何か意味があるのか」と問う演技者(主体)]を観客からみつめられている(対他)という情況を通して、コップとの関係を演じ、それを観客に了解せしめることになる。それはまた、同時に演技者自体にreturnしてきて、即自、対自、対他(何れかをすっ飛ばしてもいいのだが)と、この反復が「運動」として続行されることになる。
もっと簡単にいってしまうと、即自は、自分が自分のことだけを了解しているので、情況やその他のものと関係しない状態。対自は、自分だけを対象としているが、即自とは違って、自分を対象として、情況との連関から(積極的に)独立して、自分に対しては運動している状態。対他は自分と自分以外のものを対象としながら、それを取り込んで自分にもどってくる状態。
この用語を用いて演出をしたのは『ゴーシュの夜の夜』だけだが、いずれSLOFTにおいても、それくらいのことが出来るようになればと望んでいる。

2011年9月 9日 (金)

DVD感想『ばかもの』・・・その他

ひとは哀しい。と、ひとことで終わっても良かったが、如何にも気障なので、ちょっと書く。原作は芥川賞作家の絲山秋子。例によって私は文学には興味がナイので、原作は読んでいない。監督の金子修介は、なんだか少女映画ばかり撮るひとというイメージがあったのだが、さすがにこの映画は、原作の強さに支えられて金子修介の美学がよく出ている。ストーリーはご都合的といってしまえばそれまでなのだが、創作物というのはどんなものでもご都合的なのだ。都合よくいかないのは現実だけで、虚構というのは都合よく出来ているいるその出来不出来で優劣を判定するしかナイものだ。キャスティングは地味だ。主人公に 成宮寛貴と内田有紀。が、しかし、この二人がプロトタイプにぎりぎりなのだが良く出来ている。地獄をみたものにしか地獄はワカラナイ。最も巧みだったのは脚本の高橋美幸かも知れない。この脚本は、いわば勝ちきりの囲碁を観ているといったふうだ。曰く、緩着、失着がナイ。綺麗にヨセキッテの勝ちだ。
現実は、こううまくはいかない。私の父は勝手に生きて勝手に死んだ。実に我が儘な人生だったが、眠りながらの大往生だった。母は、私とのミッシングリンクの40年を取り返すべく、母になろうと努力しているが、おそらく私はそのひとの死に、悲しみこそすれ、和解することはナイだろう。私も弟も家を棄てた。従って私には帰るべくところはもうナイ。弟としても同様に違いない。祖母より前の家系のワカラヌ不思議な家は、かくて、私と弟の代で終焉する。
どうも今夜は蒸し暑い。湿度計の針は高くはナイのだが、残暑のせいだろう。
今夜は、希死念慮との闘いもあった。ひさしぶりのことだ。これを短歌五首を書くことで切り抜けられたのは、新しい発見だ。つまり、対他的に対処したことになる。いつもそんなふうにうまくはイカナイだろうが、まあ、いいんじゃねえのだ。足の痛みは、昨日から少しずつだが、軽減してきている。やっと消炎剤の効果が出てきたというところか。
まったく、毎日が命懸けなんだから、ナ。

暗き歌

なんとなく死にたい夜はあるもんだ生きる理由はなきにあらずも

父、母よ汝ら誰の父、母か悪夢にのみぞ現れ出でて

なんとなく泣きたい夜もあるもんだ悲しきことのみつからぬまま

感謝する奇蹟の神にも仏にも望みもせずに生まれきたゆえ

なんとなく飲みたいときがあるもんだ脳を保存のアルコールがため

暗き歌書きたしときは真摯にて私が私と向かい合うのみ

2011年9月 8日 (木)

SLOFT通信・29

今日は衣装合わせ。衣装を観るための部分稽古をしてみる。こういうとき以外には部分稽古はまずやらない。部分であたるため演技者たちは、やはりタイミングがぎこちない。それはこういう抜き稽古のためだからと念を押しておく。もちろん、こういう稽古を否定しているワケではナイ。演出家や劇団によっては有効な場合は多々ある。ただ、私の場合は、基本的に通し稽古の流れの中でしか演技者が掴めないだけだ。
女3には泣いてもらった。といって、泣く演技をしてもらっただけなのだが、懸案の場面をもう少し深く印象づけたかったためだ。泣く演技をするには、泣くことを堪える演技をすればイイと指導する。エーンと泣くのではナイ。泣くのを堪えて泣く、とするのだ。これはparadoxの応用だ。ここから女3の転換をdramaticにして、ラストシーンに突入する。takeを三回。女3は、けして上手い役者ではナイが、特権的肉体としての固有性はかけがえのないものだ。つまり、characterの演出をうまくチョイス出来れば、他の役者には出来ないことがやれる。この舞台でもそういうシーンがあるが、懸案の部分はstraight playだ。もう少し私に演出の才があれば、もっと早くに上手く出来たろうが、ただ、私のような演出に門外漢の者は、粘るのと煉瓦を積むようにして少しずつ価値を上げていくしか方法がナイのだ。
衣装は本格的なものを創ってきてくれた。さらにそれを幾つか手直しするという。馬子にも衣装だ。短い期間で、賃仕事でもナイのに、その労力には感謝するしか他ナイ。
稽古終わりになって、殺陣師杉本が、サーベルを作成したものを急遽、届けに駆けつけてくれた。この熱意にも、ただただ感謝するしかない。いずれにも、本番の舞台の成果で応える他はナイ。
faxで、照明の吊りこみ図面も送られてきた。私の観た限りでも極めて緻密な照明プランのようだ。オペレーター少女はガンバって、やってね。
明日は休みだが、土曜日は、冒頭のシーンの照明下見がある。冒頭のシーンは、ハイレグの競泳用水着speedを身につけての歌と振り付けだ。黛ジュンの『夕月』とspeedの水着のmissmatchに乞ご期待だ。

なあ

いわんこっちゃなく、昨日は、神経科クリニックの予約(を忘れて再度予約した)のを忘れてしまう。なんとか頼んで、午後に放り込んでもらう。足がダメなのでタクシーを使うから(迎車料金がなくなったので安くなったが)、まったく要らぬ銭が消えていく。今日は比較的マシだが、昨日は稽古場まで10分そこそこのところを休み休み、痛えもんで、顔が歪む。地下鉄に乗っても、立っているのが辛いから、席が空くと座る、と、そこが降りる駅だったりして、アルツハイマーにでもなったかと思う。
宝島ムックで買い求めた、萬屋錦之助版『子連れ狼』を観て、最終話二回に、昼間っから号泣してしまう。ほんとにカラダが震えたもんな。独り暮らしで良かった。これ、ボックスでだと、1シーズン4万円で、3シーズンだからなあ。いくらなんでも買えません。ツタヤレンタルだと、半端に1シーズンのが4枚出てるだけなんだなあ。
『グリーン・ホーネット』を観るが、まあ、こういう作りもあるだろうがと思うだけで、アトは、キャメロン・ディアスが老けたなあとため息。こないだ、トム・クルーズとの共演『ナイト&デイ』でも、老けたなあと思ったが、まあ、16歳で業界入りしてんだからなあ、いつまでも『メリーに首ったけ』じゃあるまいし。『チャーリーズ・エンジェル』の頃が旬だったかなあ。いっとき演技派に転換か、といわれたけど、なあ。なあ。まあ、人間、みな年とりますから。ショーン・コネリーや、クリント・イーストウッドみたいにいきたいけど、日本じゃ緒方拳さんや原田芳雄さんみたいなのも、もう亡くなっておしまいになって、俳優で観たくなる映画が少なくなってきたなあ。

SLOFT通信・28

昨日。お姉様たちと合わせての稽古。エピローグの演出をつける。語り方については各自に任せる。一番手女2には、深呼吸を二つしてから登場と指示。要するにエピソードは本編を終わっているので、ただ、肩の力を抜いて月を観ていればいいことになる。
女3の例のラストシーン、はまだ問題が隠されているような気がするので、寸暇を惜しんで(というほどではないが)考える。つまり、演技において上手い下手とは何かという簡単でいてアポリアな問題。簡単にいうならば、上手い演技とは、書かれた劇=戯曲を演じる劇として転換し、如何に観客に伝えるかの能力が優れたものをいう。いってみればそれだけだ。下手な演技とはその逆であるのはいうまでもナイ。しからば、上手な演技をする者の普遍性をのみ取り出し、特殊性(固有性)を捨象すればイイ、と、ここで、スタニスラフスキーやリー・ストラスバーグ、あるいはその流派は間違ったと思える。もちろん、それに連なるあらゆる「使用価値主義」の演技派も同じことだ。それらについては[実践編]で記す。

さて、この伝でいうと、女4はそれを器用に演じ、女2はたまに自身のせりふの高揚感に逆手をとられることがあっても、エッジの鮮明な強いベクトルで演じられる。女1には天性のものがある。天性のものとは時分の花であるから、解読の仕様がない。女3の不器用さについてのみ、演技の課題を持つべきだと思う。
いわゆる演技とは技量だから、能力の問題に帰することが出来る。そこで終われば事は簡単で、女3は演技の能力に劣るといえばイイ。しかし、演技の技量は、技芸の技量においてでも、まったくチガウものを含んでいる。それは私が35年間感じてきたものだ。下手な落語は耳障りだし、演技の場合、下手な芝居は早く引っ込めだが、いわゆる大根役者と称される役者ではナイ、ある特有のエネルギーを持つ役者が存在する(演技の場合、エネルギーというのは、観客への伝達力をいう)。これを魅力と述べてもいいが、特権的肉体と称してもイイ。(特権的肉体についても[実践編]に記す)。女3は常識的演技に拘泥しているので(それは誰しもそうなのだが)、自身の素材に殆ど気付いていない(自身の声、カラダ、動き、表情、et cetera)。従って、一連の演技のうちで、せりふに意識すれば、カラダが緩み、導線に意識すれば、カラダが緩む。何ものにも集中してはイケナイ、というのは矛盾しているようだが、演技のコツなのだ。まず、汝自身(の魅力・エネルギーを知ること)だが、これを誘導するのは演出力だ。演出の価値が女3の価値とうまく交換できねばならない。女3の演技の使用価値は、女1・2・4に比べて、劣ることは否めない。しかし、アホな経済学者が述べているように、使用価値が「価値」などというのは、大嘘だ。ほんとうの価値は「交換価値」に在る。それを女3は有する。と、まあ難しいことはこの辺りまでで、女3は、私に質問してくるときの表情が苦悶しているみたいで、何か苦しいことでもあるのかと、逆に聞きたくなる。まず、芝居の話など、笑って出来るようになることだ。女3は、笑顔がいいのに、もったいないではナイか。(女2が、執拗に女3さんは美人なんです。と私に主張していたけど、ナンデかな。劇中で顔がペチャンコなどと書いてあるせいでかな)でと、今日は、通し稽古にもあきてきたので(飽き性だからな)女3にはちょっと泣いてもらう。

2011年9月 7日 (水)

日々是忙日

朝は布団にしばらく沈んでいた。7時過ぎでまだ起きるのには早いのだが、背中にどうっと疲れが重い。それからまたうつらとして、8時過ぎに起床、昨夜作って半分食べ残した炒飯を温めて、「毎日骨太」くんとともに朝食。昼は茄子を煮てみようかと、灰汁抜き。バランス感覚がいいほうなので、ひょいひょいと歩いているが、時折、ビキッと膝に痛みが走って「ウッ」という声が出る。歩くということが一苦労なのは、身に沁みて知った。今後の身体論に役立つかも知れない。かつ、障碍者諸氏のきつさも何分の一かは理解できた。これはかなり疲れる。
疲れは、パソコンのワープロ打鍵の打ち損ないが多くなることでワカル。賞金稼ぎのために書いている戯曲『幽霊船』の初稿が上がる。今日はラストシーンのアラを手直し。泉鏡花戯曲賞だから、鏡花の作品を本歌にするか、金沢を舞台にしなければならない。鏡花から二曲参考に、アトはオリジナルの、舞台を能登半島にした宝探しだ。ネタ元は新諸国物語の『七つの誓い』だ。同時進行で書いていたミステリ小説は、先行きがハッキリするまで、ちょっとお休み。再来年を来年と勘違いして書きかけた、avecビーズ『あの屋上のひと』もお休み。頭ん中ではSLOFTの三作目『デザートはあなたと~at sloft』のストーリーを書いている。これは、次作の『この世の果てへ』の演者を観つつ、characterを考えて、plotを創る。
なんだか、いろんな予定を忘れて失敗ばかりしている。私と何か予定のあるひとは、確認を。それと、メールの返事を書く余裕がいまはナイのでどうかご容赦を。

2011年9月 6日 (火)

SLOFT通信・27

女3の演出をつけ終えた。昨日つけたのをやめにして、今日、inspirationといっても、考え続けなければそんなものはやってこないのだが、なんだ、そうか、あそこか、と、天才は99%の努力です。その一カ所を変えた。やっと出来たと安心したら、急に血圧が上昇して、三度、事務所に血圧を計測しにいって、下がらないので、降圧剤を服用。膝の痛みにしているサポーターがきついのかなと脱いでみたが、関係ねえな。
中日新聞三田村記者、私の連載の写真撮りに来る。通し稽古終わって「見違えました、すごく良くなってます。本番が楽しみです」だとさ。だから、自信を持て、ただし、油断するな。本番は、勝負だ。負けたら死するものだ。帰りは、食料の買い出しにまで、女3をつきあわせて、世話になった。変な噂や嫉妬なんかがあっても気にせずに、彼氏を大事にしてやれ。膝さへ治れば問題ナイのだが、整形外科は、みんな藪医者だ。明日も生きよう。

SLOFT通信・26

ラストシーンの女3、ここはいままで道化だった女3が豹変してみせるところ。点は出来るのだが、線がつなげない。これは女3の演技をいっているのではナイ。私の演出技量の問題なのは百も承知だ。演出は専門外なので、などといってる場合でもナイ。映画のようにカットで割って確認していく方法をとってみるが、正直、それでいいのかワカラナイ。しかし、けしてイイワケでなくいわせてもらえば、「ワカラナイ」ということは演技者にとってもタイセツなことだと思う。何故なら「ワカラナイ」ので「考える」からだ。「考える」から「ワカラナイ」という壁にぶちあたるのだ。この壁を越える者、越えてきた者を「プロ」という。アマチュアとの違いは、食えるかどうかの問題ではナイ。安物のドラマのように禅僧なんかが、「何も考えるな。無心になれ」などとアホなことをアドバイスするのを、まんま信じているさらなるアホもいるにはいるが、それは、ただのアホ。さらに、いうならば、「ワカッタように思ってしまう」、経験論的誘導制ワークショップと大きくチガウところだ。さて、それでも、これでいいはずなのだが、とは思いつつ、いつもより多くの動作を付加したことにまだ納得出来ないでいる。これは、私のものではないなと、その不満、屈託が拭いきれない。ここはラストシーンに該るので、女3には悪いが、もう少し粘るつもりだ。
殺陣師杉本、師匠と弟子で来てくれる。渡りに船。昨日は振り付けの静乃センセイだけだとばかり思っていたので、両者に時間を分けて、指導願う。振り付けは新しい部分がひとつ入る。これが思いの外効果を上げている。殺陣は、殺陣師杉本が賞賛するほど進歩している。なおかつ女1・2からのさまざまな質問が殺陣師杉本に飛ぶ。それに応えつつ、熱心な殺陣師杉本。成果あって、みごとな緊張感が出てきた。稽古終了後も、まだ、殺陣だけ稽古している。

2011年9月 5日 (月)

時、としての

どうもたっぷり眠ったらしい。夜、二度ほどヨタつく足でトイレに行った記憶があるが、就寝は12時前、起きて時計をみると8時25分、しまったと、資源回収の場所をみたがもう終わっている。そう多くはナイが、ビンは次週への持ち越しとなる。
未だに空間的に住処が把握できていない。といって2DKのスラムアパートだから、廊下を歩くなどということはナイ。(廊下なんてナイからな)夜間、ふと尿意をもよおしてもトイレまでの感覚がワカラナイ。すぐ隣なんだけど。朝目覚めて、家の間取り、方角がワカルまでに時間(数秒だが)がかかる。おそらく、私は、いまの住居で空間的には生活していないと思われる。とすれば、時間的に生きていることになる。7時~8時に起床。本来なら行きつけの喫茶店にモーニングなのだが、足の痛みがあるので近所(といっても、足の痛みでこいつが遠い)のコンビニのパンとコーヒーで間に合わせる。ついでにビールと足膝の炎症に側面攻撃をするつもりで、「毎日骨太」を買う。この「毎日骨太」を「まいにちほねた」と読んでいた劇団員女優がいたことを憶い出す。いまでは二児の母親だ。世話になった。彼女がいなければ、劇団の終わりは5年早まったろう。
11時までパソコンに向かう。そこからさて、今日の惣菜はと、なにを昼にして、なにを夜にするか。冷蔵庫を開ける。作って、食ったら、2時まて寝る。パソコンに向かったりDVDを観たり。本を読んだり、資料をみたり。5時、夕食の支度、食って、シャワー。6時前に稽古場へ。この坂が足を攻める。時折、顔を歪める。消炎鎮痛剤のどこが効いてるんだろ。稽古前はぼんやりしている。ぼんやりとはこのことかなとぼんやりしている。稽古は楽しい。終わって帰ると、ぬるい湯につかる。ビールを一缶、スコッチの水割り、ジャズ、頭の半分は芝居のことを考え、半分は女のことを考え(「健康的じゃん」と大池にいわれた)、そうして、泣く。去来するままに泣く。涙一粒ほど泣く。酒は涙かため息か。私の場合、ため息はつかない。ため息はアルコールと一緒に飲み込む。

SLOFT通信・25

予想通りに、予想通り。音響ノノヤマか来たので、タカアキはpromptにまわる。せりふが飛んだりテレコになったり、落ちたり、止まったりの予想通り。女1が珍しくせりふを三つトチル。女1にとっては初めてのこと。冒頭のシーンで、せりふの前に軽いアクションが入るのだが、それがなかったので理由を訊きにいく。こういうのを、見逃さないようにすることはタイセツなことだ。「ただなんとなく」という答。(演出指示ではないアクションだったので)「どっちでもいいですが」と答えておく。しかし、これはヤルかなとおもっていたら、案の定だ。「ただなんとなく」はあまりいいことではナイ。カラダの記憶は、せりふに影響する。「ただなんとなく」影響する。そこで、(演出指示ではナイので)どちらか決めておいたほうがイイと指導。コトバ(せりふ)を操っているようにみえても、演技者はコトバ(せりふ)に操られてしまうものなのだ。女3が一昨日質問してきたシーンに、一応の答を出しておいたが、その通りやってみて、これはクリア。ただ、新しくつけた演出を、通し稽古の最中で、ドン忘れ。忘れたことに気付いたのだろうが、そのまま、以前のパターンで最期まで続ける。それはそのほうがイイ。やり抜くというのはタイセツなのだ。不埒に不躾な演技者などの中には「すいません、ちょっとストップ、やり直していいですか」などと、勝手に稽古を中断するものがいる。何が起ころうとも、演出が「止めます」というまでは続けねばならない。映画においては、監督のカットの声がかかるまで、演技者は演技をつづけねばならないのと同じ。女3の演出は、その日変更したものだから、通し終了後、段取りをやって、一度やっておく。
殺陣は難しい。一カ所だけ、どうしても目立つNGがあるのだが、そこが何度やっても上手くいかない。いちいち、ああすればこうすればといい、当人たちも、足の位置とか向きとか、しゃがむtimingとか、いろいろいうのだが、決まらない。こればかりは、素人の私にはよくワカラナイ。
女3からせりふをいうとき、前に出過ぎててはいないかという質問。これは舞台をやっていると必ずやって来る、判子でも捺したような決まりの質問。このとき、女3には、架空の観客がみえているのだから、その距離をいっている。この場合演出は曖昧なことをいってはイケナイ。断定して答えるべきだ。ウソをつけといっているのではナイ。現状ではワカラヌこともあるのだ。舞台は何も出来上がっていない、照明のシーリングがどこまでかもワカラナイ。最前列の客に、オタクとか、気色の悪いのが座るかも知れない。しかし、現状においての判断を断定して述べるべきだ。「どうかなあ」ではイケナイ。「現状維持でイイ。情況によって変動す」でいいのだ。
女2のメリハリの演技がようやく出来上がってくる。餡ころ餅に餡子が入ったというふうになった。女4の抑制の利いた演技とのコンビネーションがよくなった。女1に気押されなくなった。
三歩前進一歩後退、一歩は横に。

2011年9月 4日 (日)

SLOFT通信・24

いくつかの問題は生じてくる。最大の問題は、イメージという化け物と闘うことだ。演出の脳裏には、「最高の舞台」という、在りもせぬイメージがやって来る。成果向上、努力目標程度に扱うのならいいのだが、そこに実態が在りながら、このイメージはその実態を切り離してしまう。いわく、現実は現実として絶対静止系とするのなら、イメージは虚構として、光速のspeedで無限や永遠をも含んでしまう。要するに「現実-実態」しかナイことを肝に銘ずるべきなのだ。そこからしか「虚構-表現」は出てこない。演出のイメージそれ自体からは何も生まれない。演出のイメージは表現ではナイ。
台本を離して2回目なので、せりふを落したあたりで、演技が乱れる。この辺りはもどかしいところなのだが、(演技者にとっても演出にとっても)、この一週間はそういったことが続くだろう。しかし、通し稽古のスタイルは崩さない。流れの中での表現でなければblockingなど何の意味もナイ。何が起こってもやり抜かねばならない。これが、演劇のキツイところだ。
昨日は、照明二回目の下見。お姉様たちと最後まで通す。ラストシーンの演出をつける。上演時間1時間40分。いいtimeだと思う。

2011年9月 2日 (金)

SLOFT通信・23

昨日は、舞台美術、殺陣、衣装、がどどっと押し寄せて、そこへ、お姉様たちとの稽古合わせがあるので、稽古場ごった返し。これを手際よく片づけつつ、まず、お姉様抜きで通し。みなさん、台本は持っていない。それは当方の指示ではなく、お姉様ゲストを前にして台本持っての稽古は失礼だと思ったんだろうな。礼儀と意気込みだネ。
で、女2が、いままで一度もなかった部分で、高揚した演技をやっちゃったので、(稽古進行の最中に)「「どちたの」と聞くと「テンポをつけようとハリを入れてみたんですけど」という。ああ、そうか、そういうことじゃねえんだが、そういえば、この劇のドラマツルギーについて解説してなかったなと、こっちが反省。終了後、「心配しなくとも、テンポはあるんだ」そうなのよ、ただ、いつもの演技とは違ったtoneで表現させているから、テンポがナイのかもと、不安になったワケだ。「あるコトバに、一つ、二つ、ハリを持たせるのは、イイ。だが、高揚感としては、ここまで(と、台本を示し)待ったほうがイイんだ。ここまで辛抱して、一気にいくんだ。(と、ドラマツルギーの説明)」。女4には今日初めての演出だったので、あるシーン(plot)を指導。女3のせりふにつける動きも今日が初めて、これは、演出を先送り。すぐ出来る程度のもの。それとは別に再々、指導のところをもう一度。どうも、実質ワカッテいなかったようで、確認。終了後、具合がワルそうだったので、現場は殺陣の稽古だったが、先にあがるようにいう。劇団を長くやってきたが、女性には、演劇以前に、女性としてのサイクルがあるから難しいことは充分承知している。キツイのになると、痛みで動けなくなったり、貧血起こして倒れたり、もし、本番当日につかまってしまったら、甘めの紅茶を準備しておくこと。
さて、お姉様たちとの稽古。とにかく合わせただけ。位相と導線を決めただけ。アトの演出は、後日。本日は休み。明日は照明石原さん二度目。照明下見はいつも二度ある。
10時すぎなっても殺陣がつづいているので、電車の時間もあるから、殺陣師杉本さんには、とってもらって、おつかれさま。
合間合間に、衣装との打ち合わせ、舞台美術は具体的に図面を観て、作戦会議。舞台美術は、私が簡単なコンテは描くが、松本氏が丁寧に図面をひいてくれる。むかし、舞台のアルバイトをしていたので、舞台図面は観られるから、助かる。
さて、今後の課題。「好事、魔多し」

2011年9月 1日 (木)

恋愛的演劇論[実践編]・19

私たちはひとを恋するとき、どこで間違うのか。いうまでもなく、相手のことを自らの思うがままに勝手にイメージとして創り上げるところでだ。「あんたがそんな男だったとは思わなかった」「おまえがそんな女だとは知らなかった」というところで破局を迎えるのはそのためだ。ところで、これを対幻想の領域だとすると、演劇もまたその領域に含まれる。何故なら、演劇は、どれだけの人数の観客がいても、一対一対応だからだ。かといって、観客の側の、あるいは仕手の側の個的幻想ではナイ。何故なら、つねに、仕手においても、観手においても、「対手」が設定されるからだ。
稽古のとき、たとえば演出家が「そこんところはちょっとイメージと違う」と演技者に注意を促しても、演技者は、これを聞き流してイイ。「書かれた劇」である戯曲を台本化しての稽古の場合、そこに演技者はイメージとしてではなく、「実態」として存在するからだ。実態として存在する者にイメージを述べても意味がナイ。そのとき演技者は「現実」であり、演技が「虚構」であることはいうまでもナイ。すると、イメージをいいぶんとする領域があるように存在してもよさそうなものだが、「虚構」は、対幻想として、演出家の創り出したものであって、要するに「思い込み」でしかナイ。あくまでも演出家は、「現実」としての演技者に対してコトバを発せねばならない。そこから「虚構」を紡ぎだす以外、方法はナイ。「10㎝ほど背をのばしてくれるかな、それがぼくの中の役のイメージなんだけど」と「現実」に要求しても、出来るワケがナイ。この「現実」を「素材」に「虚構」を「表現」に置き換えてみればイイ。素材が表現に優先するように、常に現実は虚構に優先する。これは、敗れ去った思想、サルトルの実存主義で、充分納得がいっているはずのことだ。ただ、ハイデガーのほんものの実存主義は違う。カボチャで肉じゃがは作れないが、カボチャが肉じゃがに「なる」ことは可能だ。カボチャで「ある」ことを「現実」即ち「素材」とするならば、肉じゃがを「虚構」、「表現」であるとすればイイ。カボチャは「肉じゃがとなった」と、宣言すればイイ。中身がいくらカボチャでも、それは「肉じゃが」なのだ。カボチャをみて「ああ、肉じゃがだ」と恋するのと同じことだ。「虚構」はここにおいて積極的誤謬を含む。あたかも、シンデレラが美しき淑女であったのが12時までのように、だ。薄汚い女中は12時まで、城で王子と踊れたのだ。それは「虚構」だ。ただし、積極的誤謬なるものだ。女中をシンデレラ姫に変えること、演出とはそのことをいう。

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