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2011年8月25日 (木)

擬制の涼風

いかにも涼しい風が吹いている。しかし、これを涼風というには湿度が高すぎる。現在、室内の湿度70%。ちょうど、現況世間はこんな感じなんじゃないのかと思う。ウソの涼風というワケだ。演劇の世界、業界もそんなところだ。昨日、ネットで演劇のワークショップとやらを検索してみたが、あるわあるわ、異常に出土品の多い地層を展開している。かつての「自己啓発セミナー」は企業向けに、やっていることは、旧帝国日本軍の精神教育と同じだったが、これは「みせる」ものではなかった。しかし、演劇のワークショップはアタリマエのごとく「みせる」「みる」の関係を前提としている。もちろん、「みせなくてもイイ」というのも中にはあるのだが。
先日は、七つ寺共同スタジオのディレクターズ・トレーニング・ラボvol.5でワークインプログレス公演に私の旧作『最後の淋しい猫』を課題戯曲とするというので、出かけてみたが、(ワークインプログレスというのは企業・経済用語が語源で、『試作品』を観て投資家が投資を考えるものだが、表現業界では「途上」作品とでも訳しておけばイイ)案の定の舞台で、上演後の合評会で司会する安住女史(もういい加減、名古屋の連中は、安住女史に頼るのをヤメタほうがイイ。というか、我こそはという、女性演劇評論家がど~して名古屋にいないの)に同情して、最低限にいうだけのことはいった。演出家は二人なのだが、ここにそのうちひとりの演出家の自己紹介文がある。[「いかにしてともに生きるか」をテーマに、法律や忘却などの手だてでは困難を感じる時に導入しうる能力(メカニクス)を引き出す。あらゆる生活局面をも劇ととらえ、いつでも誰でもが実装可能なフォームをパフォーマンスワークを通して制作する。それらのフォームは、心がけ・理念・教えの形態をしばしばとる。フォームにかなうモデルが走ることで成立する時間(例えばあることを心がけているだけで成立する時間)人間の能力の確認としての時間、の上演もおこない高い評価を得る]・・・これだけを読んで(たぶん、何のことかワカラナイのは私も同じなのだが)、おそらくこの若者は、幼少時代に、保育園の保母さんから「おたくの子供さんは、あまりみんなと馴染めないようで」といわれ、ママさんが「それはうちの子が他の子と違って能力が高いんですよ」というようなことがあったと推定(虚構)される。つまり、乳離れしていないのだ。舞台で制作した作品がどうであろうと、「ママ、僕、褒められた」「ママ、僕、ワカッテもらえない」と、いつでもママのところに逃げることか出来るというものだ。言語の共通規範どころではナイ。言語ゲームにもなり得ない。こういう手合いは、まず「生活の前に慄然せよ」。吉本さんは「大衆を繰り込めない思想はダメだ」といいきっているが、私ならいい方を換えて「演劇を行うべくは、まず生活の前に慄然せよ」という。これはプロレタリア・リアリズムとも、リアリズム演劇ともまったく何の関係もナイ。生活の前に慄然としたこともナイ者に、演劇など志向していく資格などあるものか。簡単にいえば「男は涙とともに酒を呑む。しかし、女は涙とともにパンを食う」だ。いままで、一度もひと(アイツ)を殺したいと思ったことのナイような者に役者など出来るワケがナイ。そこで、何故それを「思い止まったか」が、修羅と菩薩を生きることが出来る演劇への道に歩を向けさせる。チンタラこいてねえで、自死と格闘してみろ。愛するものの死を「そうか、これが生きるということか」と、諦念してみよ。
さて、俺は忙しいからな。疲弊した心身で、これだけのことをいってもらえたというだけでも、毎日、俺に手を合わせてろ。

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