鎮魂
また猛暑がもどってきた。9月も暑いらしいと、このあいだ利用したタクシーの運転手がいってた。息子が震災のボランティアに行ってるそうで、一カ月くらいなら放射能は大丈夫ですよね、と訊く。そんな危険な場所にボランティアを入れるワケがナイ、といおうとする寸前に、スラムに着いた。昨日ヒロシマ、9日ナガサキ、原爆の威力自体はナガサキのファットマン(プルトニウム型)のほうが大きく、ヒロシマでは8~12万人、ナガサキでは15万人が死亡。一瞬にして炭化した者、被曝で死亡した者、現在も被曝死亡は続いている。私はたしか『イエノムへ』という映画を観て、韓国人被爆者のことを知った。70年代の頃だ。その16ミリフィルムの映写機を回したのは私だ。
フクシマのことがあって、今年は、原爆、原発が錯綜して論調、流布、あるいは一人歩きしている。だが、フクシマは事故であり、ヒロシマ、ナガサキは戦争による犠牲だ。ヒバク、ヒバクというコトバが巷に溢れて、戦争を知らない若いひとたち、子供たちが、フクシマの被曝と、ヒロシマ、ナガサキの被曝とを同列に思い込むことを虞れる。
『寿歌』も発表当時、反核運動の列に並べられて、上演許可願いがきたこともある。私は面々のお計らいとしたが、ついでに署名をというのには、筆を持たなかった。もちろん、『寿歌』は反核とは全く何の関係もなかったからだ。『寿歌』は、私が私の人生を予言して書いた戯曲で、その予言どおりに私は生きている。普遍性があるのは、芸人の歩く道程の悲哀という部分かも知れない。私たちは故郷をもたない。ゲサクとキョウコの旅は、ただ「ゆくだけ」の旅だ。それを理解するためにこの戯曲は私の手によって15年間上演された。私の中では、私自身の生き方として『寿歌』は演じ続けられているが、私はこの戯曲を、私から切り離して、一つの鎮魂劇として、震災後の荒野で野外劇として演じられれば、と妄想している。あの多くの命を奪った海から、ゲサクの牽くリアカーが徐々に観客に向かって進んで来るのだ。魂が海からもどって来る。そのシーンを思い描くだけで、熱いココロの昂りを感じる。
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