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2011年8月30日 (火)

SLOFT通信・21

照明の石原さん下見。冒頭の歌のシーンを舞台に出して、ホリゾントとの間隔をとり、パーテーションを下げる。こういうことは、プロにしかワカラナイ。舞台も三尺下がって奥行きが広くなる。
このアト、通し稽古。女3が一週間遅れて入ってきているぶん、基礎訓練(理論)にハンディがあるので、そのツケが出てくる。このツケは演出の責務なので、昨日は簡単に指導したが、今日、キチンと修正する。
ごく単純にいえば、せりふをいう場合、感情が介入するとベクトルが外へ外へと向かうので、観客とぶつかることになる。心情はこの逆で内へ内へと向かう。もちろん、演技では後者を使う。内に向かったベクトルをみせる(聞かせる)ことになる。テクニック(スキル)だけをいえば、相手(のココロ)を観て、それに同化させたイメージを使って、相手を引っ張りこむ。視線は半眼、開眼、どこも観ない、どこかを観る、という動きで、せりふに従う。長いせりふの場合は、/(スラッシュ・ブレス)を何処に入れ、何処でスパートをかけて、どこにクライマックスを用意して、終息をアップするかダウンさせるかを考える。
感情の記憶というメソッドを使うことはナイ。あれは正しくは感覚の記憶だろう。役への同化というのは、役の感情への同化と誤解されているが、そうして、おそらくこれがスタニスラフスキーが最も誤解されているところだろうが、役への異化(役に対する批評的な態度)というブレヒトの売り文句も、何れにせよ、客観化の問題でしかナイ。幾らか譲って、役との関係といってもいいが、のっけから、役など(一つの疎外として)重要視しない私は、素材(演技者)である実体(実態)を如何に使うかしか考えない。演技者がどうみえるかだけが問題なのだ。
女3は演技の上で不器用だ。しかし、演技が不器用だということと演技力がナイというこことは、まったくチガウ。不器用なら不器用をみせることも演技だということは、『役者論語』の「耳塵集 下巻19」における藤十郎と京右衛門の『高野山万灯』の狂言の逸話の中に出てくる。私の演出のたいていは、これに拠っている。女2は後半の長ぜりふで語尾のエネルギーダウンが気になるので注意。理由はワカラナイが、何も彼もに理由をつける必要はナイ。女4には、読み合わせのときの語調をそのままにしているので、音量が小さくないかと質問される。立ち稽古でキャラクターを創っているときは、キャラクター重視。音量などすぐにどうにでもなる。女1からは、ガートルードの前に拝跪している場合、ガートルードを観なくていいのかという質問。そういうことを考えながら演じていたのかと、こっちが驚く。「近う寄れ」「頭をあげい」の時代だからいいのだと答える。

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