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2011年8月 9日 (火)

魔の戯言

悪魔というのは堕天使であり、ゆえに、悪魔と天使は本質的には同じものだ。神(ここではキリスト教の)が、何故、天使の軍団などを持つのか知らないが(そりゃまあ、ニンゲンが作った話だからしょうがないが)、ルシフェルはその軍団の長だった。天使の数がどれくらいで、軍のシステムがどうなっているのかには諸説あるだろうが(だってニンゲンの作った話だから)、何度も述べるように「有神論」も「無神論」も論理的には破綻している。神学というのは、アリストテレスの哲学と融合したスコラ哲学だが、ならば、アリストテレス2000年の長きを誇った哲学とともに滅んだかというと、どっこい、やはりアリストテレス哲学にもどらねばならない部分が演劇にだってあるのだ。
ところで、棄教(信仰を棄てたもの)に対して、神はどうするのだろうか。本来、棄教などというものは、これも存在しない。ニンゲンが神を選ぶのではなく、神がニンゲンを選ぶのだからだ。神を選ぶなどという行為がニンゲンに許されるワケがナイ。「有神論」も「無神論」もその中に神というものに対する命題がある限り、ニンゲンの側の論理であって、神とは無関係の単なるニンゲンの論理でしかナイ。所詮、ニンゲンが神に対して出来ることは唯一「信仰」のみだ。で、この「信仰」を棄てたところで、神の側がそれを認めなければ、前述してきたことと、同様のことだ。つまり、神の前においてニンゲンには自由がナイのだ。ルシフェルはこれを問題にした。ルシフェルの神に対しての提案は、ただ一つだった。「ニンゲンを自由にしてみたらどうですか」・・・今日、我々が「自由」と称しているものは、悪魔の提案によってもたらされたものだ。現在の世界は、その承認された「自由」というものの、顛末に過ぎない。現今、私たちは悪魔からも神からも自由だということになっている。これは裏をかえせば、何をやっても意味がナイということになる。これがnihilismというものだ。そこで私たちは、「自由」から「自由」になるという否定の否定という反抗を企てる他はナイ。神と悪魔から与えられた「自由」から「自由」になる、ということだ。これは先程のいい方でいうと、何をやっても意味がある、ということになる。ここにnihilismから脱する、反抗のcairnを打ち立てる山脈がある。如何にしてその険しき道なき道を往くのか、さて、それを考えに、今日もお仕事。その前に湯漬を一杯食って、シャワーでも浴びよう。

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