無料ブログはココログ

« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »

2011年8月

2011年8月31日 (水)

理由

幸せひとつ こわすつもりじゃなかったが

幸せ もひとつ こわすつもりじゃなかったが

幸せ三つ四つと五つ こわすつもりじゃなかったが

みんな こわして 不幸にしたか それがおれには ワカラナイ

なんで こわれて 不幸にしたか それがまったくワカラナイ

これから先も 幸せ いくつ  こわしてしまって不幸にするか

ひとつ教えてもらいたい

罪など背負って あっちへいくより ひとつ幸せ残してくれたなら

神すら信じてよかったが

不幸を救ってくれるより ひとつ不幸をなくしてくれたなら

仏を信じて手を合わせたが

神も仏も怨みはせぬが 梯子はずれて 落ちるが前に 連れてきたなら助かったと

まるで 落語の世界じゃないか それがおれには腹がたつ

腹がたつから 悲しくて 今夜も 希望の酒を呑む

希なる望みの 酒を呑む

それが理由で 酒を呑む

SLOFT通信・22

演技者は不安を抱える。どれも誰も似たような不安だ。女2に稽古終了後、三つ質問を受ける。「後半の演技のテンポが悪いような気がする」「女3との最初のシーンでコンビネーションがぎこちない気がする」「・・・」三つめは忘れた。画家や作家ならば、目の前に作品があるので、これを観ながら修正なり、ナオシが出来る。演技者の場合は、自分自身が作品で(も)あるが、これは自分で観ることが出来ない。これが不安の要因だ。もちろん、演出家の要求(要望)がワカラナイという不安(これは不信に近い)をもつ演技者もあるだろうが、SLOFTでは、未だそういうのは聞かない。ああ、思い出した、三つめはこうだ。「決められた導線以外を動くとき、不安定な気がする」だ。要するに「気がする」のだ。三つとも納得がいくように(せめて理解できるように)答える。
女3に通し稽古前に、長ぜりふについて指導する。難しいコトバは使わない。感情は主に外に向かうだけだから(例・バカッ、何なのよッ、私の何処が悪いのよッ、いつか殺してやるッ)感情にのせたせりふを使わないこと(使っても不快なだけだ)。心情は内に向かうが(例・私の気持ちがどうして伝わらないのかしら、なんて可愛い猫だろう、これからどうやって生きていこう)。内に向かうものを外に向けねばならないという矛盾が、演劇であって、それを演じるのが演技だということ。この心情に向きと力(ベクトル)を与える。まず、観客に向けた心情を自らにもどすこと。一旦、観客を通して、それを内に(自分に)もどすこと。この「自分にもどす」というイメージと「自分にもどってきている」という実感がタイセツなのだ。この辺りはヘーゲル哲学なのだが、そういうコトバは使わない。
さらに、昨日指示した演出どおりに、ある行為を長丁場で続けてもらう。女4と女2の長ぜりふのシーンだ。このとき、女4にも、それに対応する演出を指導する。
「演出家、みんな集めてダメを出し」というコトバがあるが、私ゃ、稽古終了後にそういうのはやんない。通し稽古をしている最中に、それぞれの傍に行って、指示を出す。私はどっかとデdirector chairに座ってる、エライひとではナイからな。終わってからも、それぞれに小声で、あすこはこうしてネ子猫ちゃん、と、指示を出す。
ともかくも、一週間遅れの女3に演出はつけおえた。これで、スタートラインに並ぶことが出来る。今日は歌の稽古。明日はゲストのお姉様がやって来る。

2011年8月30日 (火)

満身(ではナイが)創痍

何度も悪い夢で朝方目が覚める。眠るとまた悪い夢。血圧異常ナシ。で、けっきょく足の痛みが原因だろうと、ふんとにまあいてえの。で、朝一番にタクシー呼んで、整形外科へ消炎鎮痛剤を頂戴に参る。ロキソニンは効かねえですから、というと、セレコックスというリウマチ、変形関節症、腱鞘炎などに効果のある新薬を出してくれる。多少、胃を荒らすらしく、胃薬も同時に。ともかく痛い。歩くと顔が歪む。ゆんべはいつも稽古終了後送ってくれる座員が、迎えに行きましょうかといってくれる。このクスリでダメなら、そうするしかナイだろう。なんしろ、山越えだからな。びっこを引いているので、左足全体がだるい。炎症なのだから、治るはずだと、考えて、帰ってから寝る。

SLOFT通信・21

照明の石原さん下見。冒頭の歌のシーンを舞台に出して、ホリゾントとの間隔をとり、パーテーションを下げる。こういうことは、プロにしかワカラナイ。舞台も三尺下がって奥行きが広くなる。
このアト、通し稽古。女3が一週間遅れて入ってきているぶん、基礎訓練(理論)にハンディがあるので、そのツケが出てくる。このツケは演出の責務なので、昨日は簡単に指導したが、今日、キチンと修正する。
ごく単純にいえば、せりふをいう場合、感情が介入するとベクトルが外へ外へと向かうので、観客とぶつかることになる。心情はこの逆で内へ内へと向かう。もちろん、演技では後者を使う。内に向かったベクトルをみせる(聞かせる)ことになる。テクニック(スキル)だけをいえば、相手(のココロ)を観て、それに同化させたイメージを使って、相手を引っ張りこむ。視線は半眼、開眼、どこも観ない、どこかを観る、という動きで、せりふに従う。長いせりふの場合は、/(スラッシュ・ブレス)を何処に入れ、何処でスパートをかけて、どこにクライマックスを用意して、終息をアップするかダウンさせるかを考える。
感情の記憶というメソッドを使うことはナイ。あれは正しくは感覚の記憶だろう。役への同化というのは、役の感情への同化と誤解されているが、そうして、おそらくこれがスタニスラフスキーが最も誤解されているところだろうが、役への異化(役に対する批評的な態度)というブレヒトの売り文句も、何れにせよ、客観化の問題でしかナイ。幾らか譲って、役との関係といってもいいが、のっけから、役など(一つの疎外として)重要視しない私は、素材(演技者)である実体(実態)を如何に使うかしか考えない。演技者がどうみえるかだけが問題なのだ。
女3は演技の上で不器用だ。しかし、演技が不器用だということと演技力がナイというこことは、まったくチガウ。不器用なら不器用をみせることも演技だということは、『役者論語』の「耳塵集 下巻19」における藤十郎と京右衛門の『高野山万灯』の狂言の逸話の中に出てくる。私の演出のたいていは、これに拠っている。女2は後半の長ぜりふで語尾のエネルギーダウンが気になるので注意。理由はワカラナイが、何も彼もに理由をつける必要はナイ。女4には、読み合わせのときの語調をそのままにしているので、音量が小さくないかと質問される。立ち稽古でキャラクターを創っているときは、キャラクター重視。音量などすぐにどうにでもなる。女1からは、ガートルードの前に拝跪している場合、ガートルードを観なくていいのかという質問。そういうことを考えながら演じていたのかと、こっちが驚く。「近う寄れ」「頭をあげい」の時代だからいいのだと答える。

2011年8月29日 (月)

SLOFT通信・20

昨日から本編出演者揃っての通し稽古。出演者と同劇団の演出家女史(名前忘れたよん、オッパイが大きかったしか記憶にねえ。たいてい忘れるんで、ゴメン)が、当日受付、スタッフの手配など、タカアキと相談。その後見学。見学は見て学ぶのだから、いろいろな演出の方法を実況で、教える。いつものごとくハッタリ入ってるけど。このハッタリの語源については賭博の「さあ、張った、張ったり」からや税金の徴収を「ハタる」といったことからやら諸説あるが、私と推察としては、「放屁」のこと。つまり屁を「放った」の「はなった」が「はった」と変化して「○○は屁をはったり」という古語がもっとも、その形態に近い。
さて、通し稽古から目算される上演時間は、1時間45分~50分。これならいいとこだろう。演出家はたいてい、出演者一同に向けてダメだしをするが、私は、そういうことがやれる集団であればやっちゃうが、今回は、そういうの、やんない。一人ひとりに小声で演出してまわる。ほんとはそういう手法を暴露したくはナイのだが、演出を学びに見学しているオッパイの、まあ、それはいいとして、その女史のために、マンツーマンの演出というものがどういうものかをやってみせたというワケ。もちろん、この場合、他の演技者は相手の演技がどのうように変化するのかはワカラナイ。だから、次の日(本日)の通し稽古がまた新鮮なものになる。
一同には、何故、何度も何度も稽古というものをするのか「稽古論」を少しだけ伝えておいた。女1には、何もいわない。この娘は、演技者としては、関西の女優、船戸と同相のところがある。

2011年8月28日 (日)

夢の帰郷

最近めっぽう酒に弱くなったと お父はいうよ

焼酎一杯でねむくなるってお父はいう

そのくせ朝は早く起きてしまうってお父はいう

畑仕事で食うには困らん ネンキン入るしなと お父はいう

わしもお父も おまいの書くもんはようわからんが

あんまり威張るでねえぞ 世の中ねたみにそねみだでな

おまいが ほんとはビンボウしとることは 知っとる

嫁に ぜんぶ なんもかもやって そん歳になって、銭が残らんとはな

しかし そんなもんだぞ 世の中ちゅうのは  そんなもんだ

怒ってもええが 恨んじゃいかん 表も裏もあるのが世間だで

胡瓜がよう漬かっとるで 出かける前に 茶漬けでも食ってけ

あんまり正直に生きるな ただのバカもんになるだけだ

ひとつ善いことをしたら ひとつは悪いことをせにゃいかん

どっちがほんとうに善いことになるのか わからんからの

ここには おまいを待ってる 川も野原も森も のうなった

ここには おまいすら もう おらんのやから しかたがない

どこぞ そこいらで 死んだら 道端に埋めてもらえ

水は天から もらい水 誰ぞ 歌うてくれるでな

2011年8月27日 (土)

SLOFT通信・19

上演の記録ビデオ(非売品)をSLOFT加盟座員に購入してもらってはどうかとの、私の提案。小林曰く、出演者は、その範疇に入らないのではないか、むしろ、出演者の今回の成果としてはどうか。SLOFTの方針としてはそこまでいかなくては。なるほど、なるほどと、私、同意。そのほうがたしかにスッキリ理に適っている。そこで、私、提案。出演者には、work1終了証書として、これを進呈しましょう。で、決定。『夕月』はlong runを予定して、来年秋から、月に一度の定期上演を企画。そのスケジュール調整と、他の作品とparallelに出来るかどうかを考えることにする。
本日、まだ劇王の戯曲を書き終えていないトヤマに、無理をいって来てもらう。帰りの車がナイのと(足が痛むので、行きも帰りも歩くのに一苦労なのだ。ほんとに整形外科医なんて屁の突っ張りにもならねえ)食料の買い出しがしたいので。その代わりに内緒で劇王原稿クチュクチュと、フライパンを進呈(うなぎフリカケも)。どうもコーティングフライパンは扱いにくいので、鉄製の中華鍋とおたまを購入したので、ひとつ余ったというワケ。
女3が休みのため、長ぜりふをアタル。トヤマいわく「女2はうまくなりましたね」。それはそうだが、女4との長ぜりふのやりとりでは、女4も真っ向から、実にShakespeare。女1は育ちがいいのかねえ、演技派でも実力派でもナイんですけど、魅力はありますな。うまく演出したつもりなので、観客の視線は、ある意味、ひょっとするとこの女1に集まるかも知れない。まあ、女2と女4が演じている最中、じっと、稽古場に現れたゴキブリに注目されてましたが。
殺陣は、どんどんカッコヨクなってきてますな。
こっちは楽になってきてます。観てるだけでよくなってきてます。

時事刻々

かつて歌謡界の興行は、その土地のヤクザが仕切っていた。まだヤクザが侠客といわれた時代だ。現在は、殆ど手を引いている。銭にならないからだ。ヤクザが暴力団と称されるようになってからの営業主力は「暴力」だ。暴力を商うから暴力団という。この暴力はさまざまな方法で営業される。中にはまだ、クスリと女は商売にしないという昔気質の暴力団もいるが、銭になることなら何でもとというのが現状だろう。
芸能界は興行、営業があり、また警察で解決のつかないトラブルも多いので、「顔」の効く暴力団の一声でこれを片づける。何かと「善意」で「あんたのファンやから俺にまかしとけ」といわれて行われて解決したことにでも、お礼はしなければならない。菓子折りの一つも要る。(菓子折りというのはお菓子が入っているワケではナイ。議員選挙のさいには、この菓子折りが候補者の所に届くことになっている。風呂敷を開けてみると、札束がドンと姿を現すという寸法だ)
私は、島田紳助氏の事件を聞いて(あるいは読んで)その後の詳細は知らないが、ふと、東日本震災における暴力団関係者の死者はどれくらいいるのだろうかと、思った。もし、私が、その組関連から(も)資金を調達して、『寿歌』を被災地の爪痕の荒れ地で野外演劇にしたならば、私はセーフだろうか、アウトだろうか。もちろんこれは架空の話だ。ただ、皆死ねば魂だ(仏とはいわぬ。仏になるには浄土での修行が要る)。ましてや東北は念仏衆(親鸞門徒)だ。善人なおもて、いわんや「悪人」をや、だ。さて、こういう事件が起こるといつも 「汝らのうち、まず罪なき者のみ、あの女を石もて打て」(ヨハネ伝福音書8章7節)が脳裏を過る。今度の伸助氏の事件もそれだけだ。

反原発から脱原発が一般大衆のあいだで声高にいわれ、それに反して次期総理候補は隔靴掻痒で、企業はいち早くエネルギーが豊富で法人税の安価な韓国へと転戦している。どうせ技術者をヘッドハンティングされるなら、企業ごと合法的に行っちゃえということだ。今度は低賃金雇用を目的ではナイ。韓国が儲かれば、金持ちケンカせず。竹島のことも、もう少し穏便に話が出来るようになるだろう。ところで、管総理は脱原発を目指すと公言したが、私は、この原発騒動はどこかで錯綜しているような気がしてならない。私の信条は「科学のことは科学でしか解決(乗り越えられ)出来ない」だ。原発自体の科学的検証を投げて、ただ、原発をやめるのなら、そんな脱原発には何の意味もナイ。また節電(エスカレーターが止まったために、手すりを必死に掴んでのぼる、東京地下鉄でのある老人の姿をみて、歯痒かった)や、自然(という名の心地よい命名の)エネルギーへの感性的な移行は、愚行でしかナイ。ここでも、自然エネルギーという科学が如何なるものかが問われねばならない。脱原発で気勢をあげるなら、今後、中国(あの高速鉄道すら制御出来ない国だぞ)に建設される10基以上の原発に対して、どう対応していくのか(事故なんか目にみえてるじゃないか)考えがあるのか。
私は、反原発でも、脱原発でも、推進派でも、ナイ。しかし、科学で解決するところを、銭かねばらまいて、周囲民衆を欺いてきたことの、政府や電力会社の罪は重い。今度の事故で、科学者もまた失墜した。科学も不信の底に沈んだ。ここをスルーして、ただ、無くしましょう、では、何の意味もナイ。

2011年8月26日 (金)

哀しき発明

黙示録の天使の喇叭は もう とうに吹かれているのだ

もちろんそれが聞こえるものは そう在りはしまい

「主」だか「如来」だかワカラヌが

おおせつかった「私」の 面倒くさい地上の任務も

やがて もう少しで終わるだろう

ともかくは「人間」をいま 滅ぼすべきではナイと

私は報告書に書き込んで ペンを置き

すうっと一息吸い込んで 深い眠りにつくだろう

それからそっちに還るのだ 「ミ・カ・エル-神の如く振舞う者は誰ぞや」

三軍九隊 天軍 万軍 ええいうるさい天使の翼の羽ばたきよ

私は眠りたいのだ 眠りたいから天使たちよ おまえたちに 人間の ほんとうのことをひとつだけ教えてやろう だから 静かに瞳を閉じよ

「ひとはウソをつく」 これだけは天使たちよ おまえたちには出来ぬわざだ だれがひとに教えたことでもナイ これだけが ひとの 哀しい発明なのだ

さあ あと少し 私はウソをつこう ひとであるうちに ただひとのために

 

SLOFT通信・18

SLOFT
静乃センセイの冒頭、歌のシーンの振り付けが入る。静乃センセイは制限時間を決めておかないと、ヒートアップ型だから、何時間でもやっちゃうんで、1時間ということにしておく。で、全体の流れ、注意点あって、終了。アト2回稽古に来てもらう。殺陣があったり、長ぜりふだったり、次第にテンパってくる頃だ。とはいえ、(半分くらいは)ホンを離して(かなり出鱈目にいってるところもあるが)きている。私はいついつまでにはホンを離せとはいわない。各自各様の脳があるんだから、その脳にあった能力でやってもらえばイイ。演技するのにホンを持っていることが邪魔になってくれば、己ずと離すようになる。最後の課題である女3の幾つかの部分を演出する。女3を如何にして緩急自在にすることが出来るか。SLOFTの場合に限り、こんなふうですよと「私がやってみせる」こともやってみせている。この場合は、演出家としてではなく、上手い役者としての演技のみせ方だ。殺陣もまた振り付けもまた、指導者はやってみせねばならない。演出家は演出家を離れて演技者として、振る舞わねばならないこともある。avecビーズではそういうことは一切ナイ。みんなオレより上手いからな。
で、女3に演出をつけて。懸案の部分は殆ど終了。土曜日からは通し稽古。
情報宣伝の遅れは、staffが一人もいないのだから、仕方ない。小林はSLOFTのためにかなりの仕事を入れて働いているので、なかなか手が回らない。昨日、やっと、スタッフをやってくれる同志が参上してくれたので、なんとか9月の頭には、チケットも出回ると思う。そういうことと見合わせてこの『夕月』は、SLOFTのlong run repertoryとして、考えに入れておく。

2011年8月25日 (木)

擬制の涼風

いかにも涼しい風が吹いている。しかし、これを涼風というには湿度が高すぎる。現在、室内の湿度70%。ちょうど、現況世間はこんな感じなんじゃないのかと思う。ウソの涼風というワケだ。演劇の世界、業界もそんなところだ。昨日、ネットで演劇のワークショップとやらを検索してみたが、あるわあるわ、異常に出土品の多い地層を展開している。かつての「自己啓発セミナー」は企業向けに、やっていることは、旧帝国日本軍の精神教育と同じだったが、これは「みせる」ものではなかった。しかし、演劇のワークショップはアタリマエのごとく「みせる」「みる」の関係を前提としている。もちろん、「みせなくてもイイ」というのも中にはあるのだが。
先日は、七つ寺共同スタジオのディレクターズ・トレーニング・ラボvol.5でワークインプログレス公演に私の旧作『最後の淋しい猫』を課題戯曲とするというので、出かけてみたが、(ワークインプログレスというのは企業・経済用語が語源で、『試作品』を観て投資家が投資を考えるものだが、表現業界では「途上」作品とでも訳しておけばイイ)案の定の舞台で、上演後の合評会で司会する安住女史(もういい加減、名古屋の連中は、安住女史に頼るのをヤメタほうがイイ。というか、我こそはという、女性演劇評論家がど~して名古屋にいないの)に同情して、最低限にいうだけのことはいった。演出家は二人なのだが、ここにそのうちひとりの演出家の自己紹介文がある。[「いかにしてともに生きるか」をテーマに、法律や忘却などの手だてでは困難を感じる時に導入しうる能力(メカニクス)を引き出す。あらゆる生活局面をも劇ととらえ、いつでも誰でもが実装可能なフォームをパフォーマンスワークを通して制作する。それらのフォームは、心がけ・理念・教えの形態をしばしばとる。フォームにかなうモデルが走ることで成立する時間(例えばあることを心がけているだけで成立する時間)人間の能力の確認としての時間、の上演もおこない高い評価を得る]・・・これだけを読んで(たぶん、何のことかワカラナイのは私も同じなのだが)、おそらくこの若者は、幼少時代に、保育園の保母さんから「おたくの子供さんは、あまりみんなと馴染めないようで」といわれ、ママさんが「それはうちの子が他の子と違って能力が高いんですよ」というようなことがあったと推定(虚構)される。つまり、乳離れしていないのだ。舞台で制作した作品がどうであろうと、「ママ、僕、褒められた」「ママ、僕、ワカッテもらえない」と、いつでもママのところに逃げることか出来るというものだ。言語の共通規範どころではナイ。言語ゲームにもなり得ない。こういう手合いは、まず「生活の前に慄然せよ」。吉本さんは「大衆を繰り込めない思想はダメだ」といいきっているが、私ならいい方を換えて「演劇を行うべくは、まず生活の前に慄然せよ」という。これはプロレタリア・リアリズムとも、リアリズム演劇ともまったく何の関係もナイ。生活の前に慄然としたこともナイ者に、演劇など志向していく資格などあるものか。簡単にいえば「男は涙とともに酒を呑む。しかし、女は涙とともにパンを食う」だ。いままで、一度もひと(アイツ)を殺したいと思ったことのナイような者に役者など出来るワケがナイ。そこで、何故それを「思い止まったか」が、修羅と菩薩を生きることが出来る演劇への道に歩を向けさせる。チンタラこいてねえで、自死と格闘してみろ。愛するものの死を「そうか、これが生きるということか」と、諦念してみよ。
さて、俺は忙しいからな。疲弊した心身で、これだけのことをいってもらえたというだけでも、毎日、俺に手を合わせてろ。

SLOFT通信・17

昨日はハナから通して、全体の流れを観る。ついでにもちろん各自の演技、アンサンブルも観ていく。時計、上演時間の感触をあたる。ゲストのコーナー、後半の独白を含め、約1時間50分。2時間を切っているからヨロシイてなことにしておく。
今日は静乃センセイの振り付け。冒頭の歌のアクションだけなので、1時間で決めてもらう。残りは、昨日観て、あたろうと予定しているところを演出。それで、土曜日からは通し稽古が始まる。
課題は女3。これは難しい役どころで、演技指導では片づかない。上手く出来れば、おそらくある意味で(バイプレーヤーとしては)最も観客の目に止まる。だから、余計に難しい。されど天才はたじろがない。演技者の意気込みに応えて、天才は思考中。
女2・4は、せりふのクセも綺麗になおって、これは彼女たちにとっても収穫だろう。彼女たちの演技で、あたかもシェイクスピアをやっているようにみえるからオモシロイ。女1は、身体的にいまのアニメキャラのようで、硬軟自在(とまではいかないが)にやれるところまでいけると判断している。ゆっくりだが、このこも育つ。

2011年8月24日 (水)

SLOFT通信・16

昨日、一昨日と、殺陣師杉本(一昨日はその弟子も)の粘りの殺陣。女1・2は殆ど休憩もとらず、かなりのダイエット。女3・4はそういうのは初めて観るもんだから、熱心に観ている。(せりふをいれようなどという気にはならないようだ)殺陣というものは、攻守ともに大事になる。上手く受けないと上手く攻められない。これは、ダイアローグでの掛け合いに通ずる。二人での会話、対話の場合は、相手のせりふが出しやすいようにせりふをいうことを心がける。と、教えておく。稽古用の模擬木刀を使っての稽古だが、この木刀を軽く操ると、木刀が重くみえ、リアリティが出る。強く握って硬く持つと、木刀が軽いニセモノにみえる。これも、演技に応用出来る。重い演技でリアリティが出るとは限らない。重いせりふを軽くいうことでも、リアリティが増すのだ。
昨日は、中日新聞の三田村記者が、取材。かつてブログに書いた私の詩を持ってきて、何を訊かれたか、さてと、でも、いい詩だったな。
ともかくも、殺陣の流れの全体は出来上がる。女2は比較的重心が安定している。つまりは豪剣。女1は、みかけによらず上半身のブレがナイ。つまり、動きが綺麗にみえる。颯爽だな。本格的に殺陣を学んだら、けっこう香港映画のアクションくらいヤレルんじゃないかね。
今日は、初めて全体を通してみる。演技の善し悪しは置いておいて、全体の流れを観る。明日は、静乃センセイの振り付け。今回は冒頭の歌のアクション程度だから、そう難しいことはナイと思うけど。流れが滞ってなかったら、アトはずっと通し稽古。私はblockingなんてしないもんで。

鼻出血、診察

昨日は稽古終了後、鼻出血。しょうがねえなと、血液検査の結果はそれとして、今朝イチバンに、日赤病院耳鼻科へ。あたしゃ、病院好きなんですよ。みんな病人で、生きようと思っているひとたちと、助けようと思っているひとたちだから。
初めての病院だったが、たいへん清潔で合理的で(ちょっと年寄りは支払いなどのシステムにまごつくだろうけど)医師、看護師のマニュアルもよく、空気のイイ病院だなという感想。
で、さほど待つこともなく診察。
診察は、否定法になる。つまり、○○ではナイ、○○ではナイ、よってこうしましょう、だ。現在も瘡蓋状態で、いつ破れるかはワカラナイ(何の拍子で出血するかは不明)が、動脈が浮きでたり損傷しているワケではナイ。つまり何か重篤な状態ではナイ。で、鼻炎のクスリ(抗アレルギー剤)と、止血剤と、市販薬でもお馴染みのトランサミンを処方される。ともかくこれで一週間、ようすをみてというところ。
じゃあ、まあ、ようすをみるか。

いろいろご心配の電話、メール、感謝いたしております。ありがとうございました。独り暮らしの身には、心強いことでした。

2011年8月23日 (火)

今日も今日とて

本日も朝、7時55分、鼻出血。いつものごとく。20分ほどで止血。内科の血液検査の結果が出しだい、耳鼻科に行く予定。しかし、何か血管が破れて出血するのは、同部位の場合、そこがもろくなっているということだが、出血がどういうきっかけかが、ワカラナイ。またどういうふうなカタチで止血するのかもワカラナイ。本日は血圧は正常値だった。

2011年8月22日 (月)

壊れども壊れども

ともかくいつもの喫茶店でモーニングのアト、まず、主治医の医院へ。ここで、事情を説明して、尿検査と血液検査。血液検査の結果は後日だが、尿検査の結果は、尿に血液成分は含まれておらず、内臓系統の故障ではナイだろうという診断。で、耳鼻科に行く紹介状を書いてもらう。次は、いつものクリニック。ここでも、報告をしておいて、さらについでに整形外科に足を伸ばす。伸ばす足が痛いからだ。レントゲンの結果は、軟骨は充分にあって異常ナシ。いわゆる炎症ということで、シップをもらう。注射は遠慮する。ありゃ効かなかった記憶があるからな。消炎剤はロキソニンに一日一錠服用しているので(寝る前に首の痛みで起きないように)シップだけ、三週間ぶん。メールやら、電話で、様子を心配して流山児や坂手、中村賢司などから)
女性は血になれてるからね、とは、一昨日病院まで迎えに来てもらった知人にいわれた。
なるほど。しかし、掌に溜まる血が滴って台所の床を濡らすのは、あまり経験したくないことだ。
満身創痍なら南部麒六、傷だらけの天使ならショーケン(だったか)。アト、1年で年金の支払いが終わる。年金基金も終わる。65才まで待てば(もてばの話だが)、年金生活というワケで、何十年も払い続けた銭を無駄にしたくない、という欲もあるのだ。
生きてしやまん、この演劇の崩壊が始まっている現代に、せめて、SLOFTのバトンだけは手渡したい。

再度鼻出血

今朝、5時25分、再度けっこうな量の鼻出血あり。今度は慌てず騒がず、喉に降りてきた血は台所の流しに吐きつつ、ティッシュをあて、10分ほどで止血。その間、血圧をみるが、さほど高くなく、10分ほどで正常値に治まってしまう。台所の流しを洗い、昼飯のおかずの支度の鶏肉を煮込んで、まず、かかりつけの杉浦医院を訪れることにする。ちょうど、今日はクリニックの診察日。カラダはだるい。午前中、医者をすましたら、夜の稽古まで寝ころんでいる予定。
ちょいと、今夏は踏ん張り過ぎた。膝と、どこだか、二カ所損傷というところだ。

2011年8月21日 (日)

夜の一騒ぎ

いつものように夜、10時頃、ウイスキーの水割りを飲み始めて、ふと、「演出について」をブログに書き留めておきたくなり、(本日の共同スタジオ・ワークインプログレスの準備として)それを書き、二杯目の水割りを作ったところで、ツーッと、左鼻孔から鼻血が垂れた。それからまるで、水道の栓を開いたようにドンドン出てくる。量や出方が尋常ではナイ。最初は止まるまでティッシュでと思っていたが、追いつかない。ともかく台所に行って、口の中の血を吐く。その間も、鼻孔からの血は流れ続けている。どうすべきかを考える。一応救急車も勘定に入れてはおいたが、まず血圧を計ると、177-99、かなり高いのだが、下はいつも100を目安にしているので、上の177がこの時間にしては初めての高さだ。降圧剤を服用。とはいえ、鼻出血は続く。10分ほど経過したあたりで、救急車を呼ぶことを決める。その間、意識はしっかりしているし、頭のふらつきもナイ。ただ、白いTシャツは血飛沫で赤くなり、部屋のあちこちに血が落ちていて、殺人現場かよ、と思う。妙なことにその情況が信じられずに、他人事のように思える。どっかで被曝したかな、とも思ってしまう。このまま、出血多量で死んだら、まあそれでもいいかとも思う。無念の死、非業の死、たいていひとの死なんてのはそういうもんだ。わりと覚悟が出来ているのに、自分でも驚く。とはいえ、現実は、生きねばならぬ。救急車との連絡をつけて、大急ぎで、ズボンを履き、クスリ手帳を準備し、ペットボトルまで用意して、さらに尿意があるので、トイレに行っておく。この間、ずっと血は流れッ放し。喉に溜まった血を台所に吐き捨てる。3~5分で救急車が来る。自分で歩いて乗車。血圧を搬送先の病院まで3度測定。病院についた時は正常値になっている。血も止まっている。従って、特に処置はなし。様子をみてみるか、耳鼻科への診察をすすめられる。
原因は、たぶん、この熱暑の中、一夏、熱中症に注意しながら、という環境で仕事してきたこと、二時間たっぷりのSLOFTの稽古(だいたい、終わってからビールが美味いなんて稽古はここうん十年やったことがナイ)。現在は、売り込み用の、売れるアテもナイ小説を一本と、賞金稼ぎのつもりで、戯曲を一曲パラレルに書いている。食料の買い出し以外には、外に出ることはナイ。朝、疲労感が残っている。こういうのが重なっての、カタストロフなんだろうが、まあ、ほどほどに仕事するのにこしたことはナイ。それが出来ればの話だが、幾ら銭かねがあっても、私には無理な話だ。帰宅は深夜2時。床の血を拭いて、寝る。朝起きてみて、昨夜は酷い夢をみたなと思い、いやあれは現実だったかと、苦笑する。

2011年8月20日 (土)

演出について

演出家それ自体は表現者ではナイ。よって演出それ自体も表現ではナイ。これを勘違いしていというか、演出というものが何なのかを知らない演出家が山のようにいるから、演劇全般がその悪しき影響のもと、旧態依然にして進歩ナシという情況なのだ。
簡単にいってみると、ここに役者(演技者)がひとりいる。彼(彼女)は語り、動き、踊り、歌い、と、表現することが出来る。では、ここに演出家がひとりいる。彼(彼女)にいったい何が出来るのか。何も出来やしない。そういうことだ。演出家自らが動き、語りと、そういうことをするのなら、それは役者であって演出家ではナイ。演出家は同時に役者をやることは出来ない。たとえ、舞台の上に演出家が立とうとも、演出家か役者か、何れかのカテゴリーに入らねばならない。これも、簡単にいうとこういうことだ。いまあるレストランのコックさんがいる。彼はコックであると同時にその店の客になることは出来ない。しかし、他店に出かければ立派な客だ。客である以上、その店のコックになるということは出来ない。私はこの命題をマルクスの『資本論』の「貨幣」から導いた。私は資本論全てを読んだワケではナイが、「貨幣」のところだけは、貨幣というのが何なのか知りたくて読んだ。この中の価値のカテゴリー、「相対的価値形態」と「等価形態」から、演出とは何かをブログに書いたし、日本演出者協会の編集のなんだったか、書籍にもかなり割愛してだが書いた。そこでの発見は「演出とは交換価値」だということだ。この「交換価値」を「貨幣」にしても差し支えない。
演出家が演技者に対して、「右に一歩進んでください」と演出する。演技者はその通りに表現する。ここで、演技者の価値と演出の価値が「交換」されることになる。この交換されたものが、演出家の表現というものだ。つまり、演出の価値は、何かと交換しなければ成立しない。コトバを換えれば、演出家の表現というのは、何かと交換された表現だということになる。
おそらく、それがワカッテいる演出者というのは、日本にほんの数人しかいないだろう。アトは、演出家の椅子に踏ん反り返って、役者を叱り飛ばすか、帰りに口説くかしているのだ。私は劇作家だが、演出家ではナイ。自分の作品は演出するが、他人の作品を演出したのは、たったの4曲だけだ。で、やってみて、成功した例はナイ。演出家にならないで良かったと思っている。

お報せ

しばし、開店休業しておりますが、SLOFTも今週はお休み(ナビロフトにて別劇団公演のため)ですので、来週からまた。『現実と虚構』についてはSLOFT通信や、「実践編」で、今後も続行していきます。忘れてるワケじゃナシ、放りっぱなしのワケではありませぬ。

2011年8月17日 (水)

SLOFT通信・15

杉本さんが来週だということで、昨日は、他をあたる。女2の動き、せりふを点検していく。もちろん、当方のいう通りに動いているかなどということを重視するのではナイ。基本(土台)が出来れば、そこから自らの演技へと移るのは、演技者の生理のようなものだから、己ずとactionが付けられていく。SLOFTは、演技指導に重きを置くので、avecビーズなどではまずやらない細かい指導も入れる。ドリンク休憩のアト、余談を一つ。こういう芝居の稽古をしていると、必ず「お芝居なんて楽しくやれればいいじゃん」という反論めいたコトバを聞くことになる。そりゃあ、guaranteeもナイ芝居だ。仲良し芝居で楽しくやってるぶんには、けっこうだと思う。ただし、当方もその反批判だけは用意してある。先程の反論のいい方を換えれば「人殺しなんて楽しくやれればいいじゃん」と同相なのだ。この辺りを語ると、お嬢さんたちは虚沌とする。芝居というものは、世間が思うよりも恐ろしいものだ。諸刃の剣でもある。最も危険な遊戯だ。それがワカッテくるには、いましばらく年月を要するだろうが、今日死のうと思っている者が、たまたま芝居を観て、こんなものが世の中にあるのか、よし、明日一日くらいは生きてみるか。という芝居を創るのが私の妄想だ。情操教育もコミュニケーション教育もへったくれもあるものか。

演出を勉強に来ているトヤマが、執筆活動に入るというので、帰りは、女3の車で送ってもらう。車だとほんの2~3分なのだが、坂道をえっちらおっちら、痛めた足で疲労困憊に歩くと20分近くかかるんだから、車は便利だなあと思う。「よう、ちょいと寄ってかないか」というと「えっでも」、「まあ、いいじゃないか、シャワーでも浴びていきなよ」、「じゃあ、ちょっとだけ」ちょっとだけで済むワケがナイ。「あっ、ナニをなさるの」、「ナニをってナニに決まって」と、演出家なんかは、女優を食っちゃうんだろうなあ。ブレヒトなんて食い散らかしたみたいだし。まだ二十歳の若い頃、東京の某老舗劇団に行ったときも、「お○んこするつもりで来ればいいから」と、いまは亡き演出家にいわれたもんだ。
ただ、スラムとはいえ、私のsanctuaryには、誰も入れない。帰り道に迷わぬよう、注意して「どうもありがとう」
女2の次に女4にあたる。ともかく話術のクセの矯正と、カラダに如何にtensionを持たせるか。それをやりつつ、女3とのコンビネーションを創っていく。女3には、咽頭発声に鼻音発声をもっと混ぜること、女1は殆ど出番がナイsceneなので、見学。繰り返し繰り返し同じところをあたる。もともと演出の才などナイから、粘るしかしょうがナイ。

2011年8月16日 (火)

SLOFT通信・14

昨日も一昨日のつづき、ノノヤマが来てくれたので、音楽との合わせ稽古。アトは細かい部分の演出。ここはチガウなと思っても、解決案のナイものは、急がないで置いておく。こっちだって神様ではナイ。すぐに適当なことでお茶を濁しても仕方ない。私もムズムズしているところは多々あるのだが、少しずつ少しずつネ。今日は殺陣が入るはずだから、それでちょいと様子を観る。杉本センセイが来るのだが、女1には手を焼きそう。とはいえ、そういうのをナンとでもしちゃうのがプロ。杉本さんは、その辺が実に上手い。また、殺陣をつけているときの顔つきが、日頃の温和なオッサンからガラリと変わったキビシイ形相となる。殺陣は事故が多いから、緊迫感がみなぎるんだな。女1はおっとりしているのだが、そのおっとりを「押っ取り刀」にするのが殺陣なんだろうな。
これから、いわゆる[劇的]なものへと演出は徐々に変わっていく。ここまでは抑制(control)を利かせるための、単純な感性によるお芝居的抑揚を排斥する作業。ここからは「劇」を演じる作業に入る。これをやるのとやらないのとでは、劇の緊張感がチガウ。
女4に対して指導。彼女は話術がいいので、どうしても、話術に頼る。これは声のいい者が声に頼るのと同じ。ところで、この女4の話術は、女4のカラダまで届いていない。女4のカラダがゆるいのはそのためだ。そこで、カラダに緊張感を持たせることにする。この場合に用いる矯正はココロの緊張をいう。断っておくが、日常における身体、心、言葉と、演劇におけるカラダ、ココロ、コトバとは、類を異なうものだ。この辺りを多くの演劇に携わる若い諸君はおそらく誤解している。一方を等価形態とすれば、一方は相対的価値形態としなければならない。同じ「コップ」でも、同時にその両方に位置することは出来ない。換言すれば、一方が「現実」なら一方は「虚構」ということも出来る。ある一つの概念が現実でもあり虚構でもあるということは出来ない。
女2のサングラス場合にも書いたが、ココロに緊張感を持たせよと指導した場合、演出家は、そのココロが何処に在るのかをいえなくてはならない。単に意識やイメージや感性では演技者と演出家とでは固有するものが異なるので、意味がナイ。私の場合は、呼吸器(と、その呼吸)を指す。吸って吐く、この呼吸に意識を向ける。日常では何気ないことなのだが、吸って吐くことを意識下に置くことで、カラダに緊張感を与える。この緊張感は、油断の除去だ。どこから斬りかかられてもいいようにする構えだ。「息を飲む」「息を殺す」「息を凝らす」「息を抜く」「息詰まる」「息を潜める」・・・およそココロの動きは呼吸器に現れる。逆にいえば、呼吸器の動きでココロを制す。ここは、進化論的に、魚類が鰓呼吸から、両生類に、さらに肺呼吸の爬虫類になって、水中から陸上へと進んだ、生物史上、もっとも苦しい層に該っている。母体の胎児も、その辺りを胎内で経過するときに心を芽生えさせる。

2011年8月15日 (月)

夢の話

今朝の夢はまいった。登場人物が、みな知ってる者ばかりで、そういうのは初めてだ。
で、みなさん、私を批難しに来る。けっきょく私は「じゃあ、俺が死ねばそれでいいんだろ」というと、声を揃えて、そうだという。「俺は、よかれと思って援助をした。恨まれることは何一つナイのに」といいつつ(それを捨てぜりふに)去っていく。まあ、夢の話だから、そいだけ。

SLOFT通信・13

導線と立ち位置を決めるということが、まるで演技者をロボットのように動かすことみたいだと誤解している同業者がいるはずだが、簡単にいえば、startlineとgoallineを決めなければ、走者は動けない。これだけのこどだ。演技者は、演出における絶対静止画像以外では、適当に演る。また、ふいにハズした導線がイイ場合は、そっちを採用する。何度もいうが、演出家というのは、表現者それ自体ではナイ。表現を交換するものだ。演出家に「そこで号泣せよ」といわれても「お前のためになんか泣けるか」と、演技者にはいう権利がある。「僕のためでなく、芸術表現としてだ」と、演出家にも食い下がる義務がある。「つまんねえ芸術表現だな」と、拒否する権利が演技者にはある。こういうことが起きないようにするためには、「説得力と納得」の関係が演出家と演技者のあいだに必要なだけだ。コトバを換えれば「説法と信頼」だ。もしくは、ハッタリと、まあ、それはそれ。
音響、作曲のノノヤマが、早速、音楽を持ってきてくれる。仕事が早いのは、私と同じ。遅いことなら豚でも出来る。全曲聞く。こちらからの訂正要求は一切ナシ。ホンを読めば、ここでこんな曲(これしかナイ)、というのは、ワカルのだ。照明は演技者の目にはみえないが、音楽は聞こえるので、感性に作用する。従って、音楽を早めに要求するのは、私の方法論だ。音楽の作用で、せりふの口調が変化したりすることも多いので。
女4は休みだったが、早速、音を入れてハナからあたってみる。女1はたいてい3度ばかりいうと出来るようになる。多少スイッチが入るのが遅いのだが、出来ればそれでイイ。女2はすでにcharacterをほぼ創り得ているので、細かい注文を出していく。この場合のダメだしは、ダメを出すというよりも、囲碁のヨセでいえば、反目得な部分を指定するようもので、常にせりふに対しての緊張感を保つために行う。女3は、仕事が休日らしく、早くから来て、練習している。こういうときに特別に何か助言するということはナイ。練習は練習、稽古は稽古。髪形のボサボサには注意しておいて、耳を出すように指導。こういうことだけでも、演技にチガイが出てくる。ノノヤマが来ているので、ラストシーン近くのウィスパーをマイクを通して稽古。うまくいかないので、ヒントになる口調の、ある指導をしてみる。それで女3は理解する。ハイ、上出来。

2011年8月14日 (日)

SLOFT通信・12

進行予定では(てなものあるのかナイのかほんとはテキトーなんだけど)日曜日までに、導線と立ち位置が決まればイイということだったが、その作業は昨日で終えた。当方が100%決めたワケではナイ。演技者のほうでも、ここかな、こう動くかなと、動くべきシーンでは、それなりに動く。そうすると、当方は、その動きのスピードと方向、停止位置を修正することで足りる。例えば、映画のバストショットが、相手に語りかけるか、何かを観ながらせりふをいうかするとき、基本的には、役者の向いている方向に広く空間がとられる。つまり、役者は右寄りにか左寄りにかになるのだが、役者の向いている逆に空間が広くとられるということは殆どナイ。構図の面でそのほうが観やすいからだ。しかし、こいつを見事に打ち砕く映像を創る監督もいる。堤幸彦監督などがそうだ。構築された既成の概念をデ・コンストラクションするという寸法だ。こういうマジックは、撮影しているその場で編集までやってしまう堤さんくらいにしかやれない。逆にいえば、それが出来るからこそ、可能な演出なのだ。
女2がサングラスをとって振り向きせりふをいうシーンがある。カッコヨクいきましょうと、そうするが、まだ、お笑いにしかならない。女2はサングラスをとるというmotion、カタチをカッコヨクしようと、カタチに囚われることになる。そこで、一旦、カタチをカッコヨクする場合は、ココロからと、カッコヨサをカタチからココロに切り換える。とはいえ、ココロでとは、どういうことなのか。ココロのある場所を指定する。呼吸器、息にだけ集中せよというmissionを出す。まだうまくいかない。稽古なんだからうまくいかなくてイイ。どうしてうまくいかないのかが、ワカルまで、このシーンは今日も当たれれば当たる。
予定が早く終了したので、残りの30分ばかりを今日からの立ち稽古に向けての質疑応答にする。最初は逡巡、躊躇していたお嬢さんたちだが、ひとり手を挙げるや、次々と幾つかの質問が来る。スムーズに答えられるものは答える。うまく答えられていないなと、感じるところのある部分は、立ち稽古で再度確認することに(勝手に自分で決める。急にいわれてもなあってのもあるんだ。文学的な表現について、何故といわれても、そうはたやすく返答出来ないノヨ)
出演はしないが、見学のオカモトからも、質問が。「カボチャで肉じゃがは出来ないとありますが、カボチャで肉じゃがを創るのが演技というものなんでしょうか」「違います。それは素材(実体・演技者)は表現に優先するということです。演技とは、あくまで、演じる技術(skill)のことです。演じることは子供でもおばはんでも出来ます。しかし、舞台で○○を演じる場合には、それなりの技術が要ります。コトバを換えていえば技芸です。兵法、剣法にそれぞれの技、流儀があるのと同じです。演技力というのは、ここで話すと時間がかかりますから、稽古途上で、レクチャーを入れます」
帰宅途上、演出の勉強に来ているトヤマにスーパーによってもらって(11:00までやってるところが近所にあるので)食材を仕入れる。「ぼくは、昨日、ミョウガで素麺を食べました」とトヤマ。「いいですね。私は大葉や生姜を入れたりします」「護摩なんかもいいですよね」「いいですいいです」
クーラーを入れずに稽古をしているので、水分の補給はしているというものの、帰宅してからのビールが美味い。

2011年8月12日 (金)

映画感想『アンフェアthe answer』

完璧に「ネタバレ」してますから、本編を観るひとは読まないほうがよろしい。
チラシには、俳優より小さく、脚本・監督:佐藤嗣麻子とある。しかし、いまこの監督は映像感覚と、ストーリーテラーとして、他のいかなるoriginalの追随も許さない才覚と力量の持ち主だ。ただ、それが災いする。この作品においても、その力業はハリウッド映画に勝るとも劣らない。しかし、これは日本版ハリウッド映画でしかナイのだ。エンターティンメントとしての面白さは同列なのだ。同列だから、かつて観たハリウッド映画を日本映画にリメイクしてみせられているような気になる。この映画でもテーマは、巨悪だ。政治的にか、社会的にか、腐敗した権力機構だ。しかし、それはもうずいぶんとすでに、多くの映画でヤラレタものだ。主人公雪平刑事と元元旦那以外は、たいていが敵というオチになる、そのたたみこみは抜群の切れ味のあるシナリオなのだが、残念ながらこれはもうハナからみえている。何の驚きもナイ。驚かせているというのは監督の錯誤に過ぎない。私たちがほんとうに観たいのは、彼らが何故、巨悪の犬であるのかだ。そこに突っ込んでいかないと、もうこの手の映画は古いとしかいいようがナイ。サイコ・キラーの登場も、何度アメリカ映画でみせられたことか。男性の描き方がステロタイプなのは、監督が女性であるからなのではなく、単に男性というものに無知なだけだ。それは私が女性に無知なのとまったく同じことだ。せりふの甘さも、いまの観客には、この程度が楽でいいのかも知れないが、私は頭を抱え込む。こういうウソのせりふはイケナイ。みな映画用、ドラマ用のせりふだ。ストーリーやプロットにおける格闘があっても、このシナリオは、せりふにあまりに無神経だ。それが、せっかくの物語を安っぽくさせている。せりふ対せりふの緊迫がまったくナイのだ。演劇の戯曲においては致命的な欠陥になる。せりふは、ストーリーを運ぶ道具ではナイ。この映画の原作は読むに耐えないシロモノだが、よくぞ、その原作を、ここまでテレビ→映画と持ってきたと感心する。それは、シナリオライターとしての佐藤監督あってこそだった。篠原涼子の衰えをメイキャップでカバーするくらいなら彼女に、せりふを与えよ。

補足

「導線」と「立ち位置」を決めることを新劇などでは「交通整理」といって蔑む風潮が残っている。「あの演出家は交通整理しか出来ない」てなこといってバカにするのだ。私は実際、ある有名な演出家からそのコトバを直截聞いたこともある。しかし、「立ち位置」というのは、何を中心にして、どういうふうに近傍をとっていくかという、これも位相幾何学(トポロジー)で、「導線」はそういうふうに数学的に表現するなら、微分方程式ということになる。舞台全体との接線を考えているからだ。
ずっとチームを組んでいる音響・作曲家は、元々は画家だったが、彼にいわせると、私の舞台構図は「これしかナイ」というくらい厳密だそうだ。威張っておく。
「あそこの芝居を観ると、自分の演技が否定されているようで、それで観ないの」という女優のコトバも聞いたことがある。彼、彼女らはいうそうだ。「何で動かないの」。
演出を表現であると勘違いしている演出家は、その舞台(作品)をあたかも自身の表現であるかのように錯覚する。もし、演出家の権力というものが発生するとすれば、この座標からしかナイ。演出というのは、商品でたとえると貨幣のようなものだ。その辺りの演出論はこのブログの『貨幣と演劇』に展開されている。演出家は、演技者や他のスタッフと価値を交換することが出来る。演出家の表現というのはこれに該る。これは、他の演技者やスタッフには原則的に許されていない。つまり、演出家の持つ権利だ。これをあえて物象化というふうに理解する。本来、「物象化」を定義すれば、人と人との関係が商品と商品との関係として現れることをいう(『資本論』・マルクス)。演劇においては、この人と人との関係が、表現と表現との関係として現れる。この表現と表現の価値を交換出来るのが演出家だということだ。
ものすごくくだいていうと演出家は演技者に「きみの演技は100円だな。せめて500円にしてくれないと売れないな」ということが出来る。そこで、演出家と演技者が550円まで演技を創り上げたとする。演出家がこれを400円で観客に売れば、150円の利益が生ずる。50円を演技者に支払うと、100円の余剰が出る。この余剰価値が、演出家の表現と称される。経済学的にいえばそういうことになる。

2011年8月11日 (木)

SLOFT通信・11

昨日からのつづきで、導線と立ち位置を決めていく。このときは、せりふに対しては何もいわない。一どきに二つのことをやるべきではナイ。出来るだけ、その導線、立ち位置がどういう理に適っているかを述べていく。無闇矢鱈にやってるのではナイからだ。立ち位置は構図を、導線は動きの切れ目がナイように。
同じ立ち位置で、長い芝居がつづくこともある。私の演出にはそれが特に多い。それをこう説明する。私たちが絵画、ムンクやセザンヌやルノワールを観るとき、絵が動くということはナイ。しかし、私たちは、その絵の前に何十分も釘付けになることもある。演劇にそれがあってもいいじゃないか。動かぬときのせりふは、語って聞かせてはならない。語ってみせることを意識するように。せりふを観るの逆ベクトルだ。
私の芝居に同業者の客が少ないのは、たいていは、この動かぬ演技をみせられると、自分の演技を全否定されるのが怖いからだ。
継いで、女2には、軽やかに動くことを演出する。動かない女4に対する差異化を創るためだ。
昨日、一昨日と、冷房を入れたが、お嬢さんたちの「汗をかいて稽古したい」という要望で、本日からは冷房ナシ。私は、日中スラムで、クーラーを入れても30度から下がらぬ仕事場で原稿を書いているので、特に辛くはナイ。しかし、胃には堪えるなあ仕事場は。胃へのダメージは強い。この暑さだもん。外は35度を上回っている。
一応、稽古に出かける前に、シャワーでカラダは洗っていき、帰ってからは、38度のぬるい湯にゆっくり使って自律神経を安定させる。ガス代も水道代もへったくれもねえ。
明日死ぬかも知れないのに、今日の心配をしてどうする。
で、明日は稽古休み。今週で、立ち位置、導線を決めて、一度それに沿って荒通しをしてから、細部への演出が始まる。振り付け、殺陣、お姉様たちとのご一緒稽古、SLOFTは往く。

SLOFT通信・10

昨日のSLOFTは、振り付けの静乃さんと、衣装の大池さんが、見学。今回の振り付けは最初の歌の部分の小さなactionなのだが、衣装が決まらないと付けられない。よって、私を含めて三人でお話し合い。で決まる。女3泣く(といってもほんとうに泣いたワケではナイのだが)。女4「私、下半身の肉付きが」・・・そういうの無視。凛として、プロローグを開くことになる。
女3にとっては最初の立ち稽古になる。ここでも、アタリマエの指導。顔で芝居をしないこと。首を座らせること(固定させること)、表情を一定に保つこと、といえど、どうしてもひとは顔で演技を創る。この場合、「眼」で演じるという心構えで。観客は一人を除いて全て敵だ。その敵と真剣勝負をしているのだ。油断をしたら斬られる。しかし、観客席に、ひとり、味方を置きなさい。自分という味方を。その味方に向かって演じなさい。多くの観客に向かって「私を観てっ」なんて芝居は、やんない。そういうの、私は大嫌いです。演技にとって美とは、そのひとつは「謙譲」です。醜態とは「押しつけ」です。観客に対する闘いとは「忍耐」です。忍耐は屈従ではありません。
稽古終わって、静乃さんから、「みなさん、姿勢が悪い」と喝っ。で、さっそく静乃さんの領分、思い立ったら授業が15分ばかり。姿勢を良くする方法について。SLOFT加盟者は、これ、無料よ。ノルマ、授業料ナシ。たぶん、振り付け稽古当日は、もっといろんなこと教えちゃうんだろうなあ。
予定として、今週中に、立ち位置と導線を決められれば、順調。ともかく一歩前進。天才は如何なる事態においても必ず一歩前に進む。SLOFTは天才教育である。ありゃ、何だか流山児の大本営発表(彼のブログ)みたいな語調になってきな。

2011年8月10日 (水)

SLOFT通信・9

一昨日は私のミスで、稽古が流れたので、昨日はサービスに、都市伝説「山小屋の怪談」の謎解きをしてみせる。ちょうど出演者も4人。そのアト、この解き方の位相幾何学(トポロジー)というものが、どういうふうに演劇現場で活用出来るかをレクチャー。
そのアトは、読み合わせ。基礎、基本をしっかりやったので土台が出来ているから、すらすら進む。女3も、すぐに追いついた。これで、読み合わせは終了。今日からは立ち稽古になる。私は新しい南蛮渡来の学問など何も教えていない。私が学んできたことだけを、教えているだけだ。その方針は、戯曲の塾(想流私塾)とまったく変わらない。
さて、女3。追いついたといえ、一週間遅れての参加だから仕方がナイ。読み合わせ途中で、ちょいとstop。演出家が演技者に対して「それはチガウ」という場合、(確かに女3はチガウんだけど)、いったいチガウというのはどういうことをいっているのか、と、他の演技者に問いかける。女3の役づくりだろうか→役など重要なものではナイ、と否定して教えてある。イメージだろうか→イメージなど漠然として、頼りにならない。演出家と演技者のイメージのチガイも同様のことだ。おまけにイメージどころか女3は、そこに実体として存在するのだから、イメージなど何をどうしたって、実体には叶わない。これを素材は表現に優先すると教えた。ここはアリストテレス哲学の部分だ。このあたりは、感性で処理してはならない。演出家は間違っても「俺の感性とチガウんだ」などとのたまってはイケナイ。そんなものは、演出家の言語限界を露呈しているだけだ(ヴィトゲンシュタイン前期ふうにいえばね)。そこで、女3のその読み方(語り方)は「女3という演技者に似合わない」のではないか、という暫定的な答を一応出してみる。実体とのズレを問題にしてみる。しかし、これも感性に依る。そこで、では「よく似合う」というのは何を根拠にしていっているのかと、論理をもう一歩踏み込んでみる。これは例で考えると、今度こそイメージが鮮明になる。とある反物を扱う大店の店先。反物がある、時代劇によく出てくるシーン。「よくお似合いですよ」と、商人が勧める。この「よくお似合い」というのは、どういうことをいっているのか。それを着るひとが「美しくみえる」「粋にみえる」「可愛くみえる」と「・・・にみえる」いうことではナイのか。ここまで、論理を詰めていけば、ここからは演劇という美学の問題だ。もう感性に飛んでもイイ。女3はどうみえればいいのか。これが手続きというものだ。
女3が稽古終わりにいう。「私は想さんの戯曲は、読むのが楽しいんです」。プロデューサーの小林が、女3が去ってから「読むのに辛い戯曲なんて芝居にしてどうすんだろね」とうそぶく。そういえば、4人の選に漏れた女優が「私はラストシーンのこのせりふが読みたくて語りたくてたまらなかった」と、切々というたもんや。新進の劇作家諸君、数多の若手劇作家諸氏、そういうホンを書いてみたら、どうだ。私は唐十郎さんの戯曲を読むのがすきだったし、佐藤信さんの戯曲の出だしなんて、声に出して何度も独り言いってるぞ。「然りといえども、外は雪だ」(『キネマと怪人』)だったか。
流山児が大本営発表(彼のブログ)で、岸田國士を読んで「このヘンタイ」といってるが、さすがに、彼らしい読み方だ。岸田→中井英夫→寺山修司と、山脈は連なっているからだ。

2011年8月 9日 (火)

魔の戯言

悪魔というのは堕天使であり、ゆえに、悪魔と天使は本質的には同じものだ。神(ここではキリスト教の)が、何故、天使の軍団などを持つのか知らないが(そりゃまあ、ニンゲンが作った話だからしょうがないが)、ルシフェルはその軍団の長だった。天使の数がどれくらいで、軍のシステムがどうなっているのかには諸説あるだろうが(だってニンゲンの作った話だから)、何度も述べるように「有神論」も「無神論」も論理的には破綻している。神学というのは、アリストテレスの哲学と融合したスコラ哲学だが、ならば、アリストテレス2000年の長きを誇った哲学とともに滅んだかというと、どっこい、やはりアリストテレス哲学にもどらねばならない部分が演劇にだってあるのだ。
ところで、棄教(信仰を棄てたもの)に対して、神はどうするのだろうか。本来、棄教などというものは、これも存在しない。ニンゲンが神を選ぶのではなく、神がニンゲンを選ぶのだからだ。神を選ぶなどという行為がニンゲンに許されるワケがナイ。「有神論」も「無神論」もその中に神というものに対する命題がある限り、ニンゲンの側の論理であって、神とは無関係の単なるニンゲンの論理でしかナイ。所詮、ニンゲンが神に対して出来ることは唯一「信仰」のみだ。で、この「信仰」を棄てたところで、神の側がそれを認めなければ、前述してきたことと、同様のことだ。つまり、神の前においてニンゲンには自由がナイのだ。ルシフェルはこれを問題にした。ルシフェルの神に対しての提案は、ただ一つだった。「ニンゲンを自由にしてみたらどうですか」・・・今日、我々が「自由」と称しているものは、悪魔の提案によってもたらされたものだ。現在の世界は、その承認された「自由」というものの、顛末に過ぎない。現今、私たちは悪魔からも神からも自由だということになっている。これは裏をかえせば、何をやっても意味がナイということになる。これがnihilismというものだ。そこで私たちは、「自由」から「自由」になるという否定の否定という反抗を企てる他はナイ。神と悪魔から与えられた「自由」から「自由」になる、ということだ。これは先程のいい方でいうと、何をやっても意味がある、ということになる。ここにnihilismから脱する、反抗のcairnを打ち立てる山脈がある。如何にしてその険しき道なき道を往くのか、さて、それを考えに、今日もお仕事。その前に湯漬を一杯食って、シャワーでも浴びよう。

貸したものは返してもらう

また、やっちまったかという、苦いバッティングで、昨日は伊丹の塾(普通コース)だったのだが、SLOFTに休みを伝えていなかった失策で、SLOFTの連中にはえらく心配をかけてしまった。倒れているのではないかと、部屋まで探索しに来てくれたというから、ほんとうに申し訳ナイことをした。
昨日の想流私塾は、『夕べに死す』(58分)の鑑賞(これも、avecビーズにひとこと、ことわらねばならなかったなと、アトから気がつくのだから、始末が悪い。申し訳ない)をして、役者というのは、ここまでヤルんだから、劇作家であるきみたちが楽をしてはイカンと、倫理。それから戯曲の上でやってはイケナイことを二つ。「思ってもいないことを書くな」「ワカラナイことを書くな(ただし、間違っていても、自分なりにワカッテいるというところでなら例外)」と、倫理。前者はウソだからだ。戯曲というのは、けして「作り話」ではナイ。粉骨砕身、身斬りだ。「斬れば血が出るような」ホンを書かねばならない。書いたコトバはすべて、己れに還って来るものなのだ。
にしても、『夕べに死す』の役者連中は、みな、ふーん、上手いじゃないかと、いまになってディスク・ビデオを観ながら思うのだった。こんなのが創れたのだから、私は、もうヤルことはヤッちゃったなとも。来年には新作がやれそうだから、当方もそれなりに、ホンを書く。もう、ナニを書いても、出来るだろう。

伊沢勉が、また『審判』をやるそうで、この恩知らずの礼も義もナイ野郎は、私が、いちいち『審判』をやるに際して、演出作業は面倒だから、「勝手に演んなさい」といったのをいいことに、勝手に演るのだが、私の名前を「演出」と出していながら、ひとことの報告も挨拶もナイ。今度も人伝てに聞いて、へーえ、そうなのかいと驚いただけだ。前述したように私もウッカリ派だから、大きなことはいえないが、不愉快極まりない。「勝手にやるんだから、勝手にやってイイが、私の名前は今後、演出から外すこと」そういうのを勝手にやるというのだ。私の名前を演出と入れるのを常識と考えてのことだろうが、そういう場合は、勝手にやるが、そうしてもいいのか、相談くらいしに来なさい。それを常識というのだ(きみには常識も通用しないだろうけど。きみは、度重なる、きみへの助成に対して、一度も私へ「ありがとう」の一言をいったことすらナイ。恩義に悖るとはこのことだ)
演出といえば、私の作品を自分の勤める某タレント事務所で上演するに際して、私の演出を無断でそっくりコピーして、演出を伊沢勉とすることに平然であったのは、厚顔無恥以外ナニモノでもナイ(きんばらなんか憤懣やるかたナシだったぞ)。おまけに、某新聞社の文化サロンで戯曲を教える教科書に、私の書籍をこれも無断で使ったことなどや、当時の劇団員のマスコミマネージメントを「勝手に」(こういうことは勝手にしてはイケナイ)すすめて、危うく私の管轄する劇団員をマネージメントされそうだったことや、劇団に戯曲を書くようになってからは、劇団員にハラスメント行為があったことや(いうことをきかないと次の作品に出してやんないとかだ)、貴君の勤めるタレント養成所に、不法な誘い(うちに来ないと他にも行けないようにするぞ、だ。これには、私のところに抗議、忠告が来ている)をしたり、など、いままで大目にみてやったのは、きみの無知蒙昧による行為として許容してだけではナイ。貸しはいいときに返してもらおうと考えていたからだ。私も先のみえる年齢になってきた。そろそろ容赦はしない。適宜、貸しは返してもらうので、そのつもりで。私は、みかけほど、ココロの広い紳士ではナイ。覚悟だけはしていてもらいたい。

2011年8月 7日 (日)

鎮魂

また猛暑がもどってきた。9月も暑いらしいと、このあいだ利用したタクシーの運転手がいってた。息子が震災のボランティアに行ってるそうで、一カ月くらいなら放射能は大丈夫ですよね、と訊く。そんな危険な場所にボランティアを入れるワケがナイ、といおうとする寸前に、スラムに着いた。昨日ヒロシマ、9日ナガサキ、原爆の威力自体はナガサキのファットマン(プルトニウム型)のほうが大きく、ヒロシマでは8~12万人、ナガサキでは15万人が死亡。一瞬にして炭化した者、被曝で死亡した者、現在も被曝死亡は続いている。私はたしか『イエノムへ』という映画を観て、韓国人被爆者のことを知った。70年代の頃だ。その16ミリフィルムの映写機を回したのは私だ。
フクシマのことがあって、今年は、原爆、原発が錯綜して論調、流布、あるいは一人歩きしている。だが、フクシマは事故であり、ヒロシマ、ナガサキは戦争による犠牲だ。ヒバク、ヒバクというコトバが巷に溢れて、戦争を知らない若いひとたち、子供たちが、フクシマの被曝と、ヒロシマ、ナガサキの被曝とを同列に思い込むことを虞れる。
『寿歌』も発表当時、反核運動の列に並べられて、上演許可願いがきたこともある。私は面々のお計らいとしたが、ついでに署名をというのには、筆を持たなかった。もちろん、『寿歌』は反核とは全く何の関係もなかったからだ。『寿歌』は、私が私の人生を予言して書いた戯曲で、その予言どおりに私は生きている。普遍性があるのは、芸人の歩く道程の悲哀という部分かも知れない。私たちは故郷をもたない。ゲサクとキョウコの旅は、ただ「ゆくだけ」の旅だ。それを理解するためにこの戯曲は私の手によって15年間上演された。私の中では、私自身の生き方として『寿歌』は演じ続けられているが、私はこの戯曲を、私から切り離して、一つの鎮魂劇として、震災後の荒野で野外劇として演じられれば、と妄想している。あの多くの命を奪った海から、ゲサクの牽くリアカーが徐々に観客に向かって進んで来るのだ。魂が海からもどって来る。そのシーンを思い描くだけで、熱いココロの昂りを感じる。

2011年8月 6日 (土)

雨宿り

喫茶店を出て、しばらく(自転車で)走ったところでザッときた。スラムを出るときに空が暗かったが、こういきなり来るとは思ってもいなかった。膝の筋肉を痛めてから、かなり迂回して、出来るだけ坂道を昇らないですむようにしている。そうまでして、その喫茶店に拘るのは、ともかくコーヒーが美味いからなのだが(戦後、進駐軍に納入していた会社のチェーン店)、お馴染みさんがいつもの席に座っているのを観るのも一興だ。(数多い)常連さんとはとくにコトバを交わすワケではないが、偶(ぐう)に揃って然りとコーヒーを飲むというのは気持ちがイイものだ。このひとびとそれぞれに、人生の喜怒哀楽がある。まったく固有の私史がある。その8万余名を一瞬にして消滅させた、今日ヒロシマの日。私は原発の問題と、原爆の問題をいっしょくたにしている現在の論調に、ひどく異和感をおぼえるが、高速鉄道の脱線事故を報道規制してまで葬ろうとしている中国が、今後数多の原発を建造、運転することに、技術的な危機感は持っている。かつ、声高に脱原発、反原発を唱和する連中が、中国の原発にどう対峙、対処、対応していくのかにも興味がある。高みの見物、野次馬、日和見、冗談いうんじゃねえ、当方だって命懸けさ。
雨は当初シャワーのように降っていたが、次第に強くなり、道の途中のマンションのガレージで雨宿りすることにした。同様に二組3人がその軒下に入って、空をみつめた。ガレージだからまだゆるされるのかも知れないな、これが、マンションの玄関内だと、警備員に追い出されるということになるんだろうな。「雨宿り」というヤマトコトバの独特の意味合いを思いつつ、現在ということも同時に感じた。荻生徂徠は遠くなりにしだが、もはや、彼の愛した国などはナイ。

2011年8月 4日 (木)

昨日、今日

昨日は、想流私塾のマスターコース(長編のクラス)で、年度に一回のレクチャー。べつにサボっているのではないが、『ヴァイアス』(2006年・avecビーズ公演、於・中村小劇場)100分を観てもらう。最初にこの演劇のドラマツルギーを解説してから。順序の構造を層構造として、縦に積んだ展開。とはいえ、一編のミステリとして成立はさせている。そのアト、飲み会。近所の極安寿司屋。とはいえ、私は生中一杯で1700円。どうしても、宴席では飲めないし、食えない。すぐに悪酔いするから。塾生も全員参加、飲まないぶん、いろいろと語る。『エリゼのために』『屋上のひと』が、如何に劇作家、役者に影響を与えたか。あの頃の私の戦略は、ビートルズ型で、次々と発表する作品の傾向を変えていく方法。北村想のイメージの定着を嫌っていたのだが、その後は、パブリの問題もあって、しょうがなく宮沢賢治を始める。皮肉にも、その中の一本で、紀伊国屋演劇賞を受賞する。11時半、お開き。ホテルに帰って、ひとりで2時まで飲む。こういう時間がどうしても必要なのだ。酒の肴は、テレビNHKスペシャル。何か、新しくアメリカでみつかったヒロシマ、ナガサキの原爆の記録。原爆投下後、多くの医師が現地に派遣されたが、それは治療のためでなく、調査のためであった。ヒロシマ一発8万人。多くの子供たち。無辜の民。それぞれの人生の一斉壊滅。「もし神が全知全能ならば、神はその全知全能を証明できない」ヒロシマ、ナガサキの名において。

本日午後は、東京朝日新聞の鈴木記者のインタビュー。まず、絵に描いたようなヒゲ面のカメラマン氏による撮影。これは栄オアシスで。その後、ヒルトンホテルで、二時間近く『寿歌』について語る。この芝居を上演するのが難しいのは、櫛やアマガツ(ヒトガタ)に、あるいはゲサクが生き返ることに意味を付けてしまうからだ。もちろん、キョウコの役は至難の技だろう。なにしろ、子供なのか大人なのかもワカラナイ。ゲサクとの関係も不明。
『寿歌』は、まったく私の私的戯曲なのだが、妙な普遍性を持っているので、私が私の現在と将来を予言したぶん、世界は、その固有性との関係と了解において今日まで進んでしまった。かつて特異な戯曲であった(戯曲や芝居の概念をぶっ壊した)この戯曲はいま、ごくふつうに、他の戯曲と同じように読まれるようになった。

2011年8月 3日 (水)

SLOFT通信・8

上達の過程(process)を、位相幾何学(トポロジー)で説明する。今日は今枝が休み。とはいえ、この情報はお嬢様たちのメール交換で届くに違いない。『希望』を岸洋子さんのものと、『赤い鳥』のコーラスとで聞き比べる。音調と口調を歌でもう一度解説するため。さらに、遅れてきた加藤に理解しやすいように。ここで思い入れたっぷりの表現の岸さんと、抑制された『赤い鳥』の表現が、それぞれもたらす作用(効果)を演技のせりふに当てはめて考えてもらう。
そのアト、演じることと、演技とのチガイを解説、演技術というスキルを幾つか教える。女4と女3に長ぜりふを読んでもらう。女4谷口は器用なので、即座に演出の注文に呼応出来る。しかし、器用と上手いはチガウ。ヘタなのではナイが、せりふとのstanceをみつけるのに難しい。
女3加藤は、ちょうど他の連中が稽古を始めたあたりの様相で、来週読み合わせを続ければ、追いつける。その加藤から質問「ある演出家が、演技のtextは作れるという意見だったんですけど、どうなんでしょうか。私は出来ないと思っているんですが」自分自身の意見を加える質問の仕方はイイ。質問には即断で「出来ます」と答える。それから、演技者の普遍性と固有性について、素材が表現に優先するというところを踏まえ、「ただしそれは、あなたがあなたのテキストを作ればということに限ります」と付け足す。スタニスラフスキーにしても、リー・ストラスバーグにしても、他のどんなシステムやメソッド、演技上達の本も、著者は意識の中にある一定の演技者を想定してしまう。その演技者が上達する過程を描くだけだ。伝統芸能の場合、一子相伝だが、どんなに従順な演技者に対して、最も強制力の強い指導者がこれを指導しても、演技者は必ず、その指導者の思い通りにはならない、ということを、今度は、ごく簡単にカント哲学とヘーゲル哲学を用いて解説する。稽古時間が終わると、お嬢さんたちは挙ってみな煙草を吹かす。そこんとこの絵柄だけ、なんだか、いっぱしの女優にみえてしまう。

2011年8月 2日 (火)

SLOFT通信・7

昨日、女3役の加藤が合流。これで出演者はとりあえず揃う。女3の登場シーンからの読み合わせをやってみる。いや、驚きましたね。加藤には悪いが、他の3人との差が甚だしい。つまり、他の3人は「上達」してんですよ。加藤に対しては、演出と演技指導としての思惑もあるので、簡単に、これまでのレクチャーのおさらいしておくに留めた。
稽古終わって、今枝が質問を持ってくる。「不安というものではナイが、五日間の休みのあいだ、これまで通り、音調と口調、句読点に注意して読むという練習を長ぜりふも、短いせりふも同様にやっていけばいいでしょうか」それでいいですよと、答える。何も間違っていませんと答える。途中で加藤が、さらに他の二人も集まって話を聞きに来る。みなさん、演技論に興味津々なのだ。小林たかあきの報告にると、出演者たちのお嬢さんたちはメールのやりとりをしていて、稽古がとても楽しいといいあってるそうで、もっとシメつけましょう、なんていう。
加藤は、せりふに抑揚が入る。感性だけで読んでいるからだ。その感性は、オフィーリアをチャキチャキのスットントンのちょっとバカcharacterに書いたところから来る。で、役は問題視しないようにと、以前、他の連中にした注意と、「美人だと思い込んでやんなさい」と変な指導をして、読んでもらう。この辺りは矛盾しているようで難しいところ。おバカcharacterで「正しく」読もうとすると、役で、でなくとも、書いてある通りに、そういうふうに読まざるを得ないというふうになる。これが感性だけで芝居(演技)をしてきた演技者の勘違いなのだ。そこんところが、まだワカッテいない。ボケがボケ顔で登場するより、美人が天然ボケしているほうがオモシロイじゃないか。実家の母親が大真面目にサプリの「アホエン」を「ボケエン」ということが、ほんとうのオモシロさなのだ。最後のほぼ1ページに渡る、加藤の長ぜりふを、彼女は、感情を排して読んだ。一本調子に聞こえるが、それでも、書いてあることが劇的なので、ちゃんとそう伝わるのだ。
演劇はスポーツや格闘技と違って、上達の様子を、数値の記録であらわすことが出来ないシロモノだ。100mをcomma5秒縮めたとか、勝てなかった相手にやっと勝てるようになったとか、囲碁、将棋のように段位があるとか、そういうものがナイ。上達したというのは、ある日、ほんとうに、アッとか、パッとか、気付く類のものなのだ。これは、ルネ・トムの「カタストロフィの理論」だ。あまり良くない譬えだが、地震と同じだ。いつ来るかワカラナイ。しかし、確実にやって来る。

2011年8月 1日 (月)

SLOFT通信・6

昨日は、新人が一人見学。特に感想を訊いたりなどはしない。そういう好奇心は当方にはまったくナイ。
出席者(出演者)3人に、とりあえず7月が終わったので(ほんとは今日から一週間休みだと勘違いしてたの)、これからの指導方針を伝える。man-to-man systemだから、個々人に対してと、全体として。演出家の役割にも触れる。舞台で上演されることは100%演出されたものであるから、芝居の出来不出来の全責任は演出家が負う。演技者の誰々がどうだったからダメだったなどとは、客にはいわせない(勝手にいうのはかまわない。そんなことに対して批評の自由を奪おうとは思っていない)。
私の頭の中には、この芝居をどう創るかは決めてあるのだが(つまりおおよその完成図は出来上がっている)、そんなのを目標に演技者に勝手なイメージを持って動かれても困るので、演技者には「カッコイイ芝居にしましょう」といってある。このディレクションはそうハズレてはいない。
本日から出演者が全員揃う。一度も稽古していない、最後の出演者の挙動がみもの。
演出家は、演技者の演技がどんなに焦れったくとも、助言、指導、以外の方法で演出すべきではナイ。つまり、叱り飛ばしたり、罵倒してはいけない。演技者はそれなりに懸命にやっているのだ、ということを常に腹の内に抱いておくこと。何度も同じ指導を繰り返すハメになっても、諦めずに続けること。そのため、ストレスで胃を壊しても、自律神経をやられても、カラダの壊れることくらいは覚悟しておくこと。

« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »