無料ブログはココログ

« 夏の夜の夢 | トップページ | 恋愛的演劇論[実践編]・8 »

2011年7月16日 (土)

恋愛的演劇論[実践]編・7

優秀な演出家というのは、劇作家の戯曲をそのまま寸分なく写像出来る者のことをいうのではナイ。また、この劇作家がこの作品を通して何がいいたいのかを読み込んで、それを舞台化する者でもナイ。優秀な演出家とは、「作者が、作品を通して、役者に何がやってもらいたいのか」を判断出来る者のことをいう。よって、そういうことの出来ない私は、演出家という肩書を出していないだけだ。そういう意味で、私の知っている優秀な演出家はたった二人、寺十悟と芹川藍さんだけだ。
さて、つづきだ。演技者がせりふを読む、このとき、演出家が、演技者の「読み」に口を挟んできたとしよう。「きみはその役をそういうイメージで捉えているの」と、こういうのはまだやさしいほうで、「ダメだ、そんなの、まったくダメ」と、子供みたいなことをいうアホな演出家もいるのだ。ここで、基準とする、というか、何を天秤にかけて演出家の意向、意見、指導、を聞けばいいのかというと、その演出家が演技者であるアナタとともに、その役のことを一緒に考えてくれているか、どうかという、この一点だけだ。「その役の心理としては」などといいだす演出家は、まずアホだと思ってマチガイない。役の心理なんかワカルワケがナイからだ。劇作家にだってワカラナイ。だいたい、ひとは「心理」などという怪しげなもので行動する動物ではナイ。これは、何か事件が起きたとき、テレビなんかで登場する「犯罪心理学」の教授の意見がアホラシイことから明瞭だ。「心理」は「心理テスト」や「心理サスペンス・psycho thriller」の中だけで充分だと、私は考える。いまコップに半分の水があります、あなたは、「まだ水は半分ある」と思いますか、それとも「もう水は半分しかナイ」と思いますか」前者なら楽天家、後者なら心配性、アタリマエじゃないか、アホも、ここに尽きる。私は錢が欲しい、誰だって錢が欲しい、錢のナイ者も、余るほど所有している者も錢が欲しい。どういう心理だ。心理もくそもナイ。また、経済学でこれを明快に論理化した者はいない。あのマルクスさへも。
さて、演出家から、そのような追求があった場合、たとえば「きみは、その役がそういう役だと思ってるの」と、きやがった場合、「ワカリマセン」というコトバは絶対にいってはイケナイ。演出家に「勝ったっ」と思わせるだけだ。だいたい、アホな演出家は理屈によって、演技者をへこませるのが仕事のように考えている。しかしもしそこで、ウーンとホンに目を落としながら、30分くらい考え込む演出家がいたら、その演出家のほうが優秀なのだ。囲碁や将棋だって、長考すると1時間以上も次の手を考える棋士がある。優秀な演出家なら、そこであの手この手を思案しているのだ。演技者と役とホンとのあいだの妥当な「摺り合わせ」を思考しているのだ。とはいえ、演技者のきみもボンヤリしていてはイケナイのはいうまでもナイ。何をすればイイのか。ホンを読むしかナイ。きみの創った、そう(思い込んだ)役やイメージに囚われていては前進しない。そこで、きみのうん十年の経験や生きざまなどアテにしてはイケナイ。そこから「役」を掘り起こそうなどと考えてはイケナイ。では、どうする。ここは「イメージを変えろ」。そうしてチガウ「イメージ」が閃いたら、「こういうのはどうでしょうか」と演ってみせるのだ。市川雷蔵主演の『眠狂四郎殺法帖』(シリーズ第一作)の狂四郎は、べらんめえな江戸っ子で、原作者の柴田錬三郎に、こんなものは認めない、と怒りをかった。二作めからは(全12作ある)ニヒルで、スタイリッシュな狂四郎になった。とかく「イメージ」というのは「思い込み」に過ぎない。それがイイふうに働く場合もあるが、正しくナイ方向に向いているときもあるのだ。

« 夏の夜の夢 | トップページ | 恋愛的演劇論[実践編]・8 »

演劇」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/558792/52219903

この記事へのトラックバック一覧です: 恋愛的演劇論[実践]編・7:

« 夏の夜の夢 | トップページ | 恋愛的演劇論[実践編]・8 »