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2011年7月18日 (月)

恋愛的演劇論[実践編]・9

立ち稽古だから、立たねばならない。このとき台本を持ってもいいのか、あるいはせりふをおぼえていなければならないのかは、演出家によっていろいろだが、私の場合はその演技者の自由にやってもらう。偉い演出家になると丸暗記しているのがふつうなのだそうだが、私は偉い演出家ではナイし、アホでもナイ。ただ、その演技者にとって自然に入っていくせりふの入れ方が最もヨシと、考えているだけだ。ここぞと勇んで、丸暗記してくる演技者も中にはいるが、途中で台本を持たざるを得なくなる。それは、私が次々とせりふを変えていくからではナイ。逆に何にもいわれないので、不安になって、台本にもどるということになるからだ。SLOFTは、演技指導を重要視するので、いろいろとレクチャーをしながら稽古するつもりだが、普通たいてい私は何にもいわない。ダメだしをしないので有名なのは深津篤史(彼は巨根でも有名)だが、私の場合、『転位21』の山崎哲氏が、マスコミ取材でキビシイ演出をすることを指摘されて、「冗談じゃナイ、いちばんキツイのは北村想だ。あいつは何にもいわないんだから」といった逸話まである。もうひとつ逸話をあげると、うちの劇団員が、別のauditionに行ったとき、審査員から受験者にひとりひとり「いままで、演出家にいわれてキツかったダメは何ですか」という質問があった。他の受験者は「滑舌が悪い」とか「歩き方が」とか、答えたのに対してうちの劇団員は「キツイのは何にもいわれないことです」と答えて合格したことだ。私は演技者が何をやるかを観ているので、「摺り合わせ」もへったくれもナイ。例えばプロ野球の試合を観てみろ、森野が空振りしたからといって、いちいち落合監督が森野にアドバイスしにいくか?・・・「この芝居はこういうふうに創ります」もナイ。そんなものワカルわけナイし、どんなものなるのか観ていたほうがオモシロイからだ。どういうふうな芝居になるかは、全てホンに書いてある。とはいえまったく何もいわないワケではナイ。演技者が「こういうふうにやっていいですか」といって実際やった演技には、ちゃんと応える。それから導線と立ち位置の位相だけは指示しておく。そこで、私はココロの中でこういうのだ「さあ、演技者諸君、存分にやってみせてくれ」
さて、つづきになるが、そういうワケで台本は、手に持ちやすい形状にプリントしなおして、演技者個々に製本してくるという風景になる。演技のマズイところは必ず台本にもどって台本を改稿する。演技のよくなるまで改稿する。完璧な戯曲は「書かれた劇」として存在する。しかし、それが完璧な台本であるとは限らない。ここで、多くのアホたちは、戯曲というのは、稽古に使うプロセスとしてのアイテムだと判断してしまうことだ。こういアホはいっぱいみてきた。また、話し合いながら台本を創るので、最初は台本ナシというのも観てきた。成功例は劇団『青い鳥』だけだ。誤解しないで頂きたい。それがイケナイといっているのではナイ。話し合いで創ろうが、最初からアリモノでやろうが、そんなものはことさら重要視することではナイ。要するに舞台の結果が全てだということだ。
立つとワカルことだが、邪魔になるモノがある。「足」だ。立たせている「足」が邪魔になる。邪魔というのを別のコトバでいえば、立っていることが不安になる。だから、何でもいいから小道具(鞄とかステッキとか)を持ちたがるアホがいる。さらに立たせてみると、その演技者の実力はたいていワカル。「足が地についていない」とはよくいったものだ。経験の浅いもの、beginner、これらは、「現実-日常」の立ち方で立っているので、イタ(舞台-稽古場)につくと足がおぼつかない。落語が足を切ったのは、合理的英断だと思われる。この立ち方には(動き方にもだが)ちっとした工夫がいる。ほんとうは、classic balletの基本がやれればいいのだが、そう悠長なこともいってられない。ともかく、立つということは難しいことだということを経験してもらう。

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