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2011年7月 6日 (水)

59歳、何処へ

59歳になったワケですが、変わったことというのは、まあ、独り暮らししてることくらいですかね。独り暮らしでも、孤独感とか、まったくないの。生活感覚が変わらないの。たいていのことが、自分の時間でまわせますから気楽は気楽ですが、生活感覚が変わらないというのは、要するに、私は、ずっと独り暮らし同様に暮らしていたということで、そのほうが驚きで、ちょっと寂しく、うら悲しいですな。最近身に沁みて(というのも大袈裟ですが)ワカッタことというのは、日本には「政府」という機関は不要だということ。これほどなにかと妨げになるシステムもないですな。震災の復興が遅れているのはすべて「政府」の存在のせいですからね。「原発は要らん」というより、私は、「日本に政府は要らん」といいたいです。

高校生のときに、「人生というのは時間の連続したものではなく、ある場所のことをいうんではないかいな」と、考えたことがあります。つまり「人生」という「場所」があるんです。そこは、ひとが生まれて死んでいく「場所」です。難しくいうと、人生を「時間的」にではなく「空間的」に捉えたんですね。高校生のときは、時々、天才になりましたから。「ゼノンの矢」のパラドクスを解決したのも高校生のときでしたから。
もうひとつは、「私」についてです。「[私]とその[私を考える私]がある。さらには[私を考える私を考える私]があるが、この連鎖はキリがナイので、そこまでで、アトは意味がナイ。つまり単なる合わせ鏡だ。さて、諸行無常とか、弁証法的運動とかいうときに、常ならむ(変化している、運動している)私を存在させるためには、動いている私を定点観測(静止衛星観測)している止まっている私が相対的に存在しなければならない。アインシュタインの相対性理論とは、まさにそうで、そうでなければ、私が諸行無常であるのかどうかを判定、観測、することは出来ないことになる。この定点的、静止的、定数的、私は、常ならむ私をみつめている。私たちは、環境界の変動変化を目にします。「ひとさへひとにとどまらぬ」のですから、他者の変貌も、観ることになります。それから自身の「外界(身体)」の衰えを感じます。59歳で、何処にも異常のナイひとなんてのは病気でしょう。それから「内界(心的世界)」が受容と表出において変わっていくのを感じます。野に咲く花なんかに興味はなかったのになあ、とか、逆に、野に咲く花への興味が薄らいできたとか。しかし「観る・感じる」のも、私です。こういうふうにいうと、何やら二元論のように聞こえますが、これは一元論でしょう。つまり、それでワンセットの「私」ということです。たぶんその私は、私が死ぬとき、ああ、私も死ぬんだなあと思うことでしょう。
死について恐怖したことはあまりありません。死についての恐怖や不安というのは、死んだら永遠に自分が消滅してしまうという、経験したことのナイものへの恐れで、死ぬということ自体は、生が終わることですから、存在しません。死が始まるということはナイワケです。あの世、来世、天国、極楽、そういうものがあるのかどうか、ワカリマセン。しかし、いま生きている私たちは、死んだ後、何処かでもう一度遇えるような気がしてしょうがナイのです。私には何も信仰はありませんから、宗教的なことではなく、これは、根拠のナイ確信という矛盾したものです。
この年齢になると、残り時間もそうないだろうという気はします。幸いにして、やるべくはやり、返す義理は返し、そういう部分での未練や後悔はありません。とはいえ、欲が深いもんですから、もうちょっと、これやりてえ、あれしてみたいと、自分の人生がどうなるのか、みていていたいワケです。ほんとうは、58歳あたりで、陸前高田の、あるひとの墓前で自死する予定だったんですが、あろうことか、今度の地震の津波で、みんな流されていってしまいました。予定、狂っちゃったなあ、です。いよいよダメだなあと思ったら、自爆テロでもやってみるかと、そんな59(極道・ご苦労)歳でございます。

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