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2011年7月14日 (木)

恋愛的演劇論[実践]編・5

そこで、演出家というのは「権力」というものを所有しているかのように、演出家自身も演技者も間違える。平田オリザが間違えたのは(ほんとは間違えている演出家をみたから間違えたんだけど)仕方がナイ。演出家の所有しているモノ、その力というものは「権力」というものではナイ。とはいえ、そう誤解されやすいものだ。演出家の所有しているモノは、「交換価値」の優先というものだ。難しいかナ。簡単にいえば、演出家は「貨幣」のようなモノだと思えばイイ。「貨幣」は商品でありながら、どんな商品とも交換出来る価値を持っている。「貨幣」で「貨幣」を買うことも、もちろん出来る。演出家は、その「交換価値」の所有によって、自身のイメージをさまざまな表現と「交換」出来ることに優先権利を与えられている。照明家に対して、「ここんところはもう少し明るく」といえるし、作曲家に対しては「ワルツにしましょう」といえるし、音響スタッフに対しては、「SEを入れましょう」といえるし、舞台美術に対しては「そこんところの柱は要らないんじゃないかな」といえるし、衣装さんに対しては「ワンピースで揃えてもらいたい」といえるし、演技者に対しては「あんたヘタだな」といえるのだ。考えてもみればイイ。演技者が、各々のスタッフに対して注文を出せるのは、その御方が偉いひとの場合だけだ。「この衣装気に要らん」というのは、コンテクストの摺り合わせのはずが、単なるお偉い演技者の我が儘になってしまう。
この「交換価値」の優先を勘違いして、演出家は権力者になってしまうのだ。ゆえに、演出家が「交換価値」の優先を持つ場合、演技者とスタッフの総意の許でというのが、もちろん、最初の約束事だ。演技者諸君、よく聞くがイイ。演出家のイメージと、演技者の演じた演技とが、共有(同一)されるなどということは有り得ない。古今東西、そのようなことがあったという事実は演劇史上なかったと思ってイイ。そんなものがあるのは、二流のくせに一流の演劇マンガを描いていると思い込んでいる少女マンガ家の世界の中だけだ。演出家の仕事は、演技者に演出家自身のイメージをはめ込むことではナイ。台本(戯曲)から止揚されたものとして、演技者から演技を牽きだすことだ。演技者が持っていながら気づいていない演技を、誘導することだ。directorとは「誘導する者」という意味に解されるのはそういう理由による。優秀な演出家は、演技者に演技指導を行って、演技者を文字通り、ハッと驚かすことがある。逆に演技者を「なんで、こんなことがワカラナカッタのか」と悶えさせるほど悔しがらせることもある。まったく逆に「どういったら、この大根、アホには、理解出来るのだ」と、演出家が頭を抱え込んで、そのまま卒倒してしまうような演技者も、存在するのだ。かつて、私が、そういう大根のアホに対して、いったことはこうだ。「動くな。一歩も動くな。手も足もじっとさせていろ」そうすれば、ヘタがバレないからだ。
さて、「読み合わせ」にもどる。演技者が台本を「声に出して」読むとき、私くらいの優秀な演出家(本業は演出家ではナイが、便宜上)になると、その演技者が「役」に対してどういうイメージを持っているか、などと、アホなことを思索しながら、その演技者を観て(聞いて)いるのではナイ。私くらいの優秀な(もう、くどいから、このいい方はやめるが)演出家は、脳髄をコンピュータのように電子の速度で動かしながら、その演技者が自分とホンと役をどのように「了解」しようとし、自分とホンと役とにどのように「関係」しようとしているかを観て(聞いて)いる。ここにいたって、スタニスラフスキー・システムも、メソッドも、ブレヒトの異化効果も、単なる演技の「部分」の強調でしかナイという程度の意味しか持ち得ないということがいえる。

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