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2011年7月31日 (日)

恋愛的演劇論[実践編]・18

相撲に出稽古というものがある。また、ほんとかウソか、講談には、道場破りの話がよく出てくる。これは武者修行のためだ。これを単に「経験」を積むというふうに理解してしまう、やはりアホが多い。「経験」など、それ自体は何の意味も力もナイ。「経験の対象化」が出来ないと、経験などいくら積んでも、上達はしない。逆に経験しなくとも、対象が正しく理解出来ていれば、未経験でも出来るようになる。私の場合、30歳過ぎまで泳げなかった。高校時代の水泳はいつも落第点だ。「畳水練」という皮肉をいったコトバがあるが(畳みの上で泳ぐ練習をしても役に立たない)、あれはウソだ。私の場合はプールの中であれこれ試したワケではナイ。演劇で役者をやるようになって、いろいろと演技の理論を考えるようになって、何事も同じではないかと、まず、身近で上手く泳いでいる者を観察した。身体をどのように動かしているのか。理論的には、その真似さへ出来ればイイ。泳げない原因の第一は息継ぎの方法だ。これも、演技の上の呼吸法と同じように、吐いた勢いで吸うという、一気にする呼吸法にしてみた。で、プールに行って、やってみたら、泳げた。なんだこんな簡単なことだったのかと、自分自身が驚いた。しばらくジムのプールに通っていたことがあったが、二、三度「きれいなフォームですね」といわれた。いまではやっていないが、一度ゴルフに手を出したことがある。そのとき劇団員だった者に連れられて、初めて打ちっぱなしというところに出向いた。ゴルフのクラブを握ったのはそこが初めてだ。クラブの握り、目とボールの位置、スタンスのとり方、腕の回転の仕方、重心、ひとつひとつに順に注意しながら、打った。ボールは思いの外よく飛んだ。連れていってくれたものが、社交辞令もあったろうが、「とても初めてクラブを握った者の打ち方ではナイ」と褒めてくれた。これも、演劇の効用だ。ともかく「考える」ことだ。『SLOFT通信』でも触れたが、toneというのは音調だから、バイオリンならバイオリンの、ギターならギターのそれがある。同じ弦楽器でも、沖縄の三線と三味線とではずいぶんtoneがチガウ。落語や浪曲は、このtoneを同じにする。演歌歌手でもそうだ。低音の魅力といわれたフランク永井さんが、歌の途中でいきなり森山良子さんのソプラノに変調したら、無茶苦茶になる。ところが、ヘタな演技者は気づかないままで、長いせりふの途中、そういうことをやっているものだ。口調は音調ではナイ。(吉本さんの『言語にとって美とはなにか』ふうに書けば)音調を指示表出とすれば口調は自己表出になる。音調のひどいものは抑揚になる。せりふを芝居らしく聞かせるために抑揚をつけるアホがいまだに多い。ちなみに、「アホ」というのは何語かでニンニクのことだ。非売品のサプリに「アホエン」というニンニク主剤のものがある。うちの母親も服用しているが、一昨日実家に帰ったさい、「ボケエンが残り少ないねんけど、送ってもろてや」といわれた。どうでもイイことだけど。
さらにアホになると、抑揚をなくすことが、日常会話と同一だと勘違いして、日常会話らしきせりふを始める。これが、たいてい「一本調子」といわれるものになる。この妙な抑揚も、「役」から意識してせりふを発するときに生じることが、多い。「役」はあくまでイメージだが、このイメージというものは、簡単に仕えるコトバだが、実体そのものは、漠として、掴んだと「思い込む」だけのものに陥りがちなのだ。演技者自身の身体が、素材として、「役」のイメージよりも優先されるのはアリストテレスの哲学以来、変わっていない。

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