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2011年7月23日 (土)

恋愛的演劇論[実践編]・14

『意識は或るものを己れから区別すると同時に関係しもする』(ヘーゲル・『精神現象論』)は何も難しいことをいっているのではナイ。しかし演技者には困った輩が二通り存在する。一つは「脳が鉄のように硬い」もう一つは「脳が海綿のようにスカスカである」。前者は自身の理屈なり信条なりに強い自信(思い込みなんだけど)を持っているために、いくら演技指導しても、自身のスタイルを変えない。これをして頑迷という。後者は、いわずもがな、かつ奇妙な信仰のような、思い違いをしている。これもまた頑迷という。
順を追って解説していく。『意識は』というのは、演技者自身の意識であり、演技者の内界にあるもので、環境界にあるものではナイ。だから「私は」といいなおしてもイイものだ。ここで、海綿スカスカの中には、「いや、そんなことはナイ、宇宙にも意識というものがあって・・・」こういうのには、付き合えない。『或るものを』というのは任意のものでイイ。物であっても、ヒト(他者)でもイイ。『己れから区別する』、私とあんたはチガウ、私はコップやグラスではナイ、だ。「いやそんなことはナイ、ヒトを差別してはいけない」が前者。「現実と虚構は混じり合うのよ」が後者。どっちとも一緒の空気を吸うのはゴメンだ。『同時に』、たいせつなのはこの部分だ。これは同時刻にという時間的なことをいっているのではなく、『区別しながらも』と並行して、同等にという意味だ。『関係しもする』はそのとおりのことなのだが、現代口語体にいいなおしてみせると「私は彼とは別人だけど、恋人どうしなの、うふ」こんだけだ。さて、ここからが、「恋愛的演劇論」の新コック長はシェフ、否、真骨頂だ。「私」と「彼(彼女)」とは恋人どうしなのだが、いつも仲がいいとは限らない。いわゆる痴話ゲンカというのもある。これは「私」と「彼(彼女)」との「対立」だ(ワカリヤスイように説明しているので、そういうことにしておくが、弁証法において対立というのは必ずしも敵対のことではナイ)。なぜ「対立」が起こるのか。例えていえば、「彼(彼女)」が「私」の「思い通りにならない
」というのが、根本的なことだ。関係している或るものが己れの思い通りになれば、そういう関係であれば、何も問題はナイ。「もう、ワガママなんだから」でプイっとなるとか、「いったい何を考えてんのかワカラナイよ」が対立だ。ところで、生きている限り(死んだことがナイので、そうとしかいえないが)、相手や世間や(自分が)「思い通りになる」などということは、まず、ナイ。「私、死ぬのはイヤ」といったって、人間は死ぬ。「もっと美人に生まれたかった」といったって・・・もうどうでもイイが、演劇に急転直下もどすと、演技者は、先程の二通りの人種以外は、自分の演じるという営為が「思い通りにならない」ために思いの外、苦心惨憺、苦吟、苦闘する。だから「演技」というものが捻出されてきたのだ。「演じる」ことと「演技」とのチガイはここにある。その演技を以てしても、思い通りにはいかない。これは、外界、環境界が、内界の表出からの表現と「対立」するようになっているからだ。これを自然哲学では[疎外]という。劇作家はいいたいことがいいたいように書けるワケではナイ。コトバというものは、ココロにあるものをうまく外に表現してくれるものではナイ。演技者もまた、「役」をこう演じたいのだが、そうは紺屋が卸さない、問屋の白袴、なのだ。しかし、そこで留まっていては演技にはならない。満点とはいかないまでも、納得というところまでいく方法があるはずだ。たとえば、困ったら「クルリと回ればイイ」。[疎外]が外界、環境界からの「対立」であるのなら、内界をなんとかするよりも、外界や環境界をなんとかしたほうがイイのはいうまでもナイ。そこで、クルリと回る、のだ。

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