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2011年7月20日 (水)

恋愛的演劇論[実践編]・11

少し実験してみるとイイ。まず、ふつうのstanceで立つ。そのまま右足に重心を移して、カラダを少し傾けてみる。右前方に、左、左前方に、と、重心と傾きを変えていく。このとき、後方にカラダを傾けてみる。よろめく。前方では堪えられたのに、後方に傾けた場合は、よろめくのだ。奇妙なことのように思えるか、アタリマエに思えるか、それは知らない。いえることは、人間というカタチは、後方に傾けるようには出来ていないということだ。のけ反ったといっても、上半身だ。屈み込むことは出来るが、後方にそういう真似が出来るのは、中国雑技団の少女だけだ。あれは見せ物だが、演劇はそういう意味の見せ物ではナイ。前向きに倒れそうになる場合、手をつくことが出来るが、後方の場合は尻餅をつくことになる。よく丹田(臍の下あたり)に重心をもっていってバランスをとると腰が座るなどというが、ありゃあ、かなり眉唾だ。いくら丹田に重心をもっていっても、後方には倒れる。後方に倒れないようにするには、左右何れかの足を後方に引かねばならない。そのとき、前回述べたように、引いたほうの手が伴って、やや下がる。バランスをとるというのは、こういうことだ。どういうことだって。あのな、重心というのは位置が変わるということだ。ワカッタか。というよりも、重心(中心でもいいが)をカラダの何処にも置かない、中心をとらない(決めない)ほうがイイ。何処かを中心(重心)に定めると、そこが崩れると、カラダは崩れる。カラダの何処にも、中心を持たない。重心を置かない。重心(中心)を「点」ではなく「線」と考えてみる(これは後述する)。どうやって。そんなものは、そう「思い込む」しかナイ。「思い込み(ドクサ)」と「イメージ」とはチガウ。イメージは漠然としていても「像」だ。例えば「彼女はオレのことが好きなはずだ」と事実はどうあれ「思い込む」ことは出来る。それは「像」ではナイ。しかし、彼女の下着姿を思い浮かべれば(イメージすれば)それは「像」だ、ということだ。
また新陰流の話になるが(だいたい演劇はカラダとココロを使うので、兵法の譬えが用いやすいのだ)、その基本に「正中線」というものがある。これは、カラダの中心を通る線という意味ではナイ。新陰流にも中心という概念はナイ。中心の代わり(というしかナイのだが)に、カラダを支える一本の線だ。この線はリニアだ。直線だ。曲線ではナイ。カーブしていない。これも「思い込む」しかナイのだが、頭上から身体を貫く、一本の直線と考える。とくに頭頂から足裏に抜けるワケでもナイ。カラダを真っ直ぐにしようが、傾けようが、横になろうが、常にカラダを貫通する直線だ。この直線に従ってバランスをとる(と、「思い込む」)。兵法者(剣術使い)が試合(勝負)する場合、間合いが詰まって、双方が斬り込める位置になったとき、このとき、後ずさりすることは命取りになりかねない。間合いを外すためなのだが、隙をつくるからだ。隙をつくるということを具体的にいうと、カラダのバランスが崩れる(もちろん、微妙にだが)ことを意味している。そこで「正中線」だ。「正中線」を維持したまま、下がる。隙が出来ない。真剣という刃物は、時代劇では、やたらと適当に斬っちゃうが、ほんとうは切っ先三~五寸までが切れる部分になっている。アトの部分は防御に用いる。抜き胴も、刀の中央で斬るのではナイ。やはり切っ先で斬る。
「正中線」は、自分で発見するしかない。人それぞれチガウからだ。「思い込み」だが方法はある。カラダをさまざまに動かしてみて、どのような姿勢(カタチ)でも「せりふがいえる」ところを捜すことだ。もし、近所にそういうところがあるのなら、あの腕だけで絶壁を登るゲームは、絶好の鍛練法だ。あれは腕の力で登っているようにみえるが、ほんとうはそうではナイ。カラダのバランスの正しさ「正中線」の維持に依っている。

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