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2011年7月 5日 (火)

恋愛的演劇論・27(改稿)

「コンテクスト」という概念を私なりにいってみる。そうするとコンテクストというのは「そのひと個人の意識にある言語の共通規範。あるいは個人的にそう思い込んでいる言説(ディスクール)」ということになる。ワークショップでは「イメージの共有」→「コンテクストの摺り合わせ」という方向があったが、これはほんとうは矢印が逆であることが次第にワカッテくる。その例として本著では「旅ですか」という台詞があげられている。
この「旅ですか」という台詞にも、劇作家、演出家、俳優の「コンテクスト」が存在するという寸法だ。この「コンテクスト」の「摺り合わせ」によって、「イメージの共有」というものが生成されなければならない。というのが、オリザ氏の論理だ。つまり演出家と俳優、劇作家と演出家、劇作家と俳優、その各々の「コンテクスト」を各々が「共有」する、ということになるのだが、たとえば、普通一般人が誤解しているとされたジョン・ロックの命題の2、これを吟味してみる。
「自分がある言葉によって表明した考えや物事は、他人も同じ言葉によって表明すると考えている」(間主観性の一致・・・概念と言葉が一致している)。
もちろん、そういうことはありえないのだが、日常的には、そういうことには無関心に生活は営まれている。しかし、事は演劇だ。ここで「表明した考えや物事」というのは「対象」といいなおしてもイイ。たとえば俳優Aが相手役に対して「旅ですか」という台詞をいうとき、その台詞は、俳優Aと演出家と劇作家の「コンテクスト」が「摺り合わされて」発語されたコトバになっていないといけない。「摺り合わせ」というのは、三者のあいだで、新しい「共通規範」が設けられたということだ。
ところで、「旅ですか」というコトバ(台詞)は俳優Aの中で「コンテクスト」の「摺り合わせ」によって、どう変容していくのだろうか。俳優Aには「旅ですか」という俳優Aなりの意識(イメージ)の持つコトバがある。これを「即自的存在」という。ここで演出家なり戯曲なりの「旅ですか」というコトバが俳優Aに意識された場合、俳優Aは「俳優Aの意識したした、演出家、劇作家のコトバとしての[旅ですか]」という意識(イメージ)を持つ。「対他的存在」と称されるものだ。ここで、「コンテクスト」の「摺り合わせ」は終わっているはずだ。しかし、俳優Aが「摺り合わせた」のは、俳優Aが、自分で、そう思い込んだ(判断した)演出家、劇作家の「コンテクスト」でしかナイから、演出家や劇作家の「コトバ(コンテクスト)」は、畢竟、俳優Aが意識したところの(独自にイメージしたところの)「コトバ」でしかナイことは必然的なことだ。すると、論理的にいってしまえば、俳優Aの即自的な考えとの演出家、劇作家との「コンテクスト」の「摺り合わせ」というのは、俳優Aには出来そうにナイ。何故なら、俳優Aの「コンテクスト」はいつまでたっても、俳優Aの主観でしかナイからだ。つまり「コンテクスト」の「摺り合わせ」というのは単純に俳優Aの思い込みということになる。立場を逆にして、演出家のほうから俳優Aの「コンテクスト」を「摺り合わせ」ようとしても、同じことになる。このことが意味するのは、「コンテクスト」も、「共有」されるものも、ともに主観の意識の中にあるものだから、客観的な尺度の持ち込みようがナイということを意味している。ただ「イメージの共有」という「コンテクスト」の「摺り合わせ」は、自身の意識を変容させるが、当然のことながら、対象であったもの自体も変容を余儀なくされる。そのようにいうと、発展的なビジョンだが、その膨らんでいく「イメージの共有」が「正しいもの」であるのかどうかという、判断の基準が必要になってくる。もう少しいえば、それを正しい「共有」であると判断するものが必要となる。「マック」と「マグドナルド」、「椅子」と「腰掛け」程度ならたやすいだろうが、「ヒレカツ」と「ヘレカツ」になると、もう、難しくなる。要するに、いくら「コンテクスト」を「摺り合わせて」も、その「共有」のベクトルを判断、確定するものが必要になるということだ。『意識は或るものを己れから区別すると同時に関係しもする』(ヘーゲル・『精神現象論』)。現在の脳科学では、「対象」を脳が如何に認識するかというシステムまでは解明出来ている。しかし、意識に取り込んだ「対象」と「取り込んだ主体と対象と主体」との関係をどう認識するのかは、まだワカッテいない(『Newton』2011・2)。哲学的には、ここまではヘーゲルだが、ここからはフッサールの『現象学』になる。「コンテクスト」を「摺り合わせ」て、それを「共有」しようとする場合、共通規範を創り出すためには、は「現象学的還元(いったん、客観と思われるものを括弧にくくってしまう)」が行われなければならず、劇団や演劇などの集団創作における場合は、妥当な「共有」を判断、確定するもの(者)が必要になる。おそらく、それが劇団の権力構造に依拠され、ある「客観(性)」を担う者が、登場してしまうことになる。(これが、オリザ氏の幻滅した集団の稚拙さという構図だ)。「コンテクスト」の「摺り合わせ」というのが、これと同じ構図を持ってしまえば免罪符ではなくなってしまう。そこで、「コンテクスト」を「形態」として導く共通規範
が存在しなくてはならなくなってくる。

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