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2011年7月24日 (日)

恋愛的演劇論[実践編]・15

まず、何故、外界や環境界が内界と「対立」するのか。そういう「関係」にあるのか。こういうことを記述していくと、また難解だということになるので、いまはこういうふうに「思い込んで」もらうしかナイ。外界(身体・カラダ)と内界(ココロ)との関係と、環境界と内界との「関係」は同一ではナイということだ。まったく別々の「関係」を内界は同時に受けることになる。いわれてみればアタリマエのことなんだけどね。つまり口語体でいうと「私は彼が好きなんだけど、彼Bも好きなの」なのだ。どうすればいいかというと、「私」は「彼」か「彼B」を消さなくてはならない(ずっと三角関係でいくってか、そおんなうまいことは出来っこナイの)。すると「私」は「彼」か「彼B」を消す存在であるともいえる。まあ、こんなふうに理解してもらっておけばイイ。
で、だ。具体的にどうすればいいか。「拡張」という方法を用いてみる。パソコンのキーボードにもついてるでしょ。まず空間的な足を活用する。いま足は足裏でイタを踏んで立っている。空中に浮かんでいるか逆立ちしているかしていない限り、そうだ。足からつづくイタの上には舞台美術の大道具でこさえた「場面」がある。これを「場」としよう。よく足場というコトバが使われるが、いま立っている足の場を観念的に拡張していく。どういうことかというと、空間的に足場を拡げていくのだ。24センチの足場を半径1メートル、さらに2メートルと、思い込みの中で拡げていく。何をしているのかというと、舞台全体を足場にしようとしているのだ。もちろん、足裏だけが拡がっていっているのではナイ。内界が外界を拡げていっているのだ。つまり、舞台全体を内界が捉えたところの外界にしてしまう。そうすると、環境界と外界が同じものに(思い込めるように)なる。いうなれば、舞台は演技者の内界が拡張された外界であり、外界が拡張されて環境界となったものだ。「この舞台、すべてが、私なのか」というほどに思い込めればしめたものだ。ヴィトゲンシュタインfanのインテリにサービスしていうと、舞台(世界)が「私」と対応(写像)しているということになる。まるでSFのようだが、演技者は、外界を拡張して環境界を外界と同じものにしているし、かつその外界を内界は対象として捉えている。そのドア、この机、ランプもコップもソファーも、それぞれは区分されているのだが、演技者と同一であるという関係を持つことになる。まだ、よくワカラナイの。あのね、たとえば、野球のバットがあるでしょ。ピッチャーがボールを投げるわな。バットで打つ。ナンデかというと、腕で打つワケにいかないでしょ。つまりバットというのは、腕の拡張なワケ。グローブも同じ、あれは手の拡張。それと同じことを、舞台でやっちゃうのよ。さて、ここまでが、第一段階だ。この段階では、舞台全体が、演技者であるきみの「役」にまで拡張されていると思ってイイ。従って、役と演技者とのあいだの[疎外]は、舞台を打ち消すことによって、どちらかに関係を一つにされたと考えてイイ。彼か彼Bを私は消したのだ。演技というものは、出すだけではダメだ。消すという逆転の発想もいるのだ。しかし、これは手品などの芸を観ているとアタリマエのことだ。手品は、何かを出すか、消すか、どっちかをやってるだけだから。
つまり「クルリと回る(ice skateのようにturnすることではナイ)」というのは、外界をして、環境界に働きかけていることになる。せりふをいいながら、外界(カラダ)を360度ゆっくり回転させてみるとイイ。環境界が違ってみえてくる。それは外界から内界に伝わる。これを外界を軸にしてみると、環境界が360度回転したことになる。何のためにか、環境界の受け入れ方を変えて、[疎外]をみなおしているのだ。

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