恋愛的演劇論[実践編]・8
私の場合、「読み合わせ」というのは、私の位置から観ると戯曲を演出して上演台本を創り上げていく作業になる。このあたりを拡張すると、故人のつかこうへい氏と似たようなものになる。つかさんは口伝(くちだ)てで稽古をしたことで知られているが、まったく底本がなかったというワケではナイ。その「役」を演ずる演技者に対峙して、演技者固有のせりふを牽き出していく方法だ。つかさんが、多種多様の演技者を使いながらも、多くの戯曲を書かなかったのは、そういう理由による。つかさんにすれば、一曲の戯曲を演技者を変えるという方法によって、チガウ演技、演出の舞台にしたことになる。
ところで、演劇というのは「馬鹿馬鹿しい」ものだと述べたが、そもそも、私たちは演劇を営むことによって、何を成そうとしているのだろうか。ここでも、多くの夢のある読者諸氏、演技者諸氏を失望させることをいってしまわねばならないのだが、要するに演劇というのは、自らと観客とを「誑(たぶら)かす」営為なのだ。狐狸の類がひとを化かすように、自身と観客とを化かす(誑かす)のだ。誑かすのは畑にまく油粕と似ているが何の関係もナイ。誑かすこと、これはヒジョーにオモシロイことだ。そもそも、「芸」なんてのは、手品にしても、武芸にしても、そのようももんだ。武芸というのは、さまざまな武術や兵法(ひょうほうと読む、へいほうではナイ。ヘイホーヘイホーなら、白雪姫の七人の小人だ、ヘイヘイホーなら『与作』だ)を総称したものだと解していればイイ。(剣法というのは当時用いられていない、兵法と称されている)。それとて、如何にして敵(相手)を誑かすかということに尽きる。新陰流における「後の先(ごのせん)」がそのいい例だ。ただし、何によって誑かすのかというと、これが「虚構」で、ということになる。「現実」でひとを誑かすのは、政府や政治家だ。こいつらは、もうこの国には不必要なものだ。原発は要らんとか、脱原発とかいう前に、なんで、政府や政治家は要らん、脱政府、不要政治家と、いえないんだ、原発という科学に罪をなすりつけ、ヨウ素やセシウムという元素に罪をなすりつけ、そんなものに罪などありゃしない。まったくフザケテいるのだ。「誑かす」というのは楽屋で煙草をスパスパやりながら「ねえ、弁当まだなのぉ」といいながら、舞台に上がると「私の命で良かったら、使い棄てにしてください」なんてことがいえる、この愉快さだ。こんなことをやってたら、罰でもアタルだろうか。いや、不思議なことに、これは私の40年の経験からいえることなのだが(したがって個人差があります)罰どころか、舞台で神と遭遇、邂逅することもある。それが神なのかどうか、確かめる手だてはナイ。ナイのだが、「あれ、いまのは」と、不信心な私でもそう思うことが、そういう瞬間があるのだ。心配するな、熱中症で頭が変になっているのではナイ。どういうふうに邂逅、遭遇するのかというと、それは心的な経験なので、こうだとはいえない。で、出逢ったとて、何がどう変わるものでもナイ。新興宗教を起こす気にもなれん。たぶん、「神がかる」とはこういうことだなとは、そのとき、ふっと思う。
「誑かす」というオモシロサをおぼえたら、芝居(に対する姿勢・演技)も変わってくるはずだ。ここで、傲慢不遜になると、また間違える。ここは、冷静沈着、謙虚謙遜、自戒を以て、なんだかお説教みたいになってきたな、しかし、そういう輩が多いのよ。何かちょいとひとつ認められたり、マスコミに取り上げられたりすると、いきなり偉くなっちゃうひとがネ、この業界は。さて、「読み合わせ」についてはまた、時宜をみて述べるとして、いよいよ、立ち稽古に入る。
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