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2011年7月 4日 (月)

恋愛的演劇論・26(改稿)

オリザ氏が、独自の「コンテクスト」という概念とその「摺り合わせ」という方法論を、自らの演劇(『現代口語演劇』)の基底に据えたのには、ある契機があったことをもう一つの著作、『演劇入門』で吐露(というよりも、かなり強い調子で明言)している。それによると、彼が本格的に演出を始めたのは二十五歳を過ぎてからで、遅い出発だった(と、彼がいうのだから、遅いということにしておこう)。そこで、その遅れを取り戻すべく、他劇団の稽古場をいろいろと見学したらしい。そこで、彼が感じたのは「何よりも私を驚かせたのは、ほとんどの若い劇団の集団論の稚拙さだった」(『演劇入門』)とある。その当時の若い劇団に「集団論」などというものがあったのかどうか疑問だが、ともかくは、その集団の有り様のことだろう。そこにあったのは、演出家による俳優の抑圧と管理、そうして「劇団内に厳然とあるヒエラルキーや年功序列が存在し、そのヒエラルキーが、劇団員の相互批評を不可能にし、集団を硬直させているのだった」(同)らしい。ヒエラルキー(Hierarchie)というのは、ピラミッド型の階級組織で、まあ、軍隊のシステムだと思えばイイ。そこで、彼はこういう結論に至る。「現代演劇において、多くの場合、演出家は絶対的な権力を持っている。この権力は、現実には、主に演出家の人事権に由来する」。たしかに、彼は「現代演劇」と、ことわってはいるが、ブレヒトなんてのは、その人事権を悪用して女優を食いまくったらしいからな。 演出家による俳優への「自己のイメージの強制」「それに従わない者の排除」、いわゆる「コンテクスト」の押しつけ。
ここで、オリザ氏の用いている「コンテクスト」の概念を述べておくと、
~~俳優は、俳優である以前に、数十年間生きてきて、この言葉に関する、一人ひとりの文化とも言うべき領域を築いています。こういう一人ひとりの言葉の使い方の違い、あるいは一つの言葉から受けるイメージの違いを、私は「コンテクスト」と呼んでいます。(中略)ここではその人がどういうつもりでその言葉を使っているかという全体像だと思ってください~~(『演技と演出』)
その誤謬の例として、どちらの著書にも出てくるのが、冒頭に書いたジョン・ロックのコトバだ。 引用しておく。
1、自分の考えは、当然、自分の考えている当の事物と一致しているものと信じている。(表象の一致・・・概念と事物が一致している)
2、自分がある言葉によって表明した考えや物事は、他人も同じ言葉によって表明すると考えている。
(間主観性の一致・・・概念と言葉か一致している)
オリザ氏は、とくに二番目の「間主観性の一致」を問題にしている。さらに日本人は島国に育っていて異文化に接触する機会が少ないので、そういう輩が多いと付加してある。これも、ほんとかなあ、というところだ。それはともかくとして、先に進める。
オリザ氏は、若い劇団の集団論(集団制だと思うが)、その権力構造に絶望的になる。そこで、悩みに悩み、かんがえに考えた末(か、どうか、また勝手にいってしまうけど、そうだったんだろう)こういう結論を出す。
~~演出家の持つ強い権力性をいったん認めた上で、その権力性をいかに制御するか~~俳優の人間性を抑圧せずに、できる限りコンテクストの摺り合わせを試みるという現実的な方法を見つけだした~~(『演劇入門』)
さらに
~~演出家の演劇観を、俳優に対して、できるだけ明確に提示する~~演出の方針を述べる必要がある~~俳優個々人は、独自のコンテクストを持って、演出家、劇作家と向かい合うべき一個の独立した主体である~~(同)
「そうだ、そのとおりだ」という声が何処からか飛んできそうだが、こういうカッコイイ文言に対しては、私などはやっぱり「ほんとかよ」と思ってしまう質なのだ。

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