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2011年7月26日 (火)

恋愛的演劇論[実践編]・17

筒井康隆さんも戯曲を書いている(けして上手いとはいい難い)。で、稽古場を訪れたときの感想を(というか、やや、愚痴に近いかな)こう漏らしている。「俳優というのは、どういうワケか[役作り]とかを重要視しているんだな。もっと戯曲のコトバの持っている感覚、感性をタイセツにしてもらいたいんだが」。まさにその通りで、なぁんで、演技者というのは「役作り」なんかに懸命になるんだろ。これが近代西欧演劇のもたらした罪なのかユーゲント諸君。しかし、ユーゲント諸君の芝居は、誰がどんな役をやっても同じなんじゃない的芝居だぜ。それはそれでツマンナイだろ。役者にしても観客にしても。これは、「読み合わせ」の段階でもいえることなんだけど、あのね、「役」なんてのは、ぼんやり頭ん中に浮かんでればいいの。そうなのだ。いまひとつの[疎外]は、外界と内界の問題なのだが、ここには「役」というものが大きく関わってくる(と、みんな思い込んでいる)。つまりここでいう「上手く出来ない」というのは、「上手く役が演じられない」と同義なのだ。簡単に演技の構造をみてみる。演技者は台本を手にして、自分の役を振りあてられる。次にその台本と役を読んで、「観念」としての「役」を脳裏に創る(思い浮かべる)。次に舞台に立つときは、演技者はすでにこの「役」で登場する。脳裏に観念としてあったものが、意識的に引っ繰り返されて(表出されて)、外界(表現と)となる。手順をいえばこれだけだ。この場合、内界がそのまま外に出るのではナイ。内界は依然として内界だ。ただ、その「役」というイメージ(像)だけが、外界という実体と「成らざるを得ない」。演技者の「役」という観念の表出が表現されて外界に在るということだ。ところで、演技者Aというニンゲンはこの世界にただ独りしか存在しない。すると、もし演技者Aがハムレットを演じる場合、演技者Aの演じるハムレットは、この世界に一つ在るだけだ。演技者Aは演技者Aのイメージ(像)したハムレットを演じていればいいことになる。何故ならば、ホンモノのハムレットなど存在しないのだから。そうすると、役作りというのは、演技者Aが恣意的に創った「役」でイイことになる。演技者Aはハムレットという「役」を演じるのだが、それは、演技者Aが創ったハムレットというものを演じることだ。(話をワカリヤスクするために演出は勘定に入れていない)。観客は「今日のハムレットはカッコよかったな」という。「何だかミスキャストなんじゃないの。ハムレットらしくなかったもん」ともいう。しかしハムレットというのはあくまでシェイクスピアの虚構であって、実在したワケではナイのだから、ほんとうはそんなことは「いえない」のだ。。つまり、「役作り」というものは、この程度のものだ。けっきょくは台本(戯曲)を如何に上手く演じたかだけが、演技者Aの評価ということになる。かくして、演技の問題、演技上の[疎外]の問題は、演技者と台本との在り方へと移行する。「尼寺へ行けっ」のせりふが如何に良かったか、あるいはヘタだったか、それだけのことになる。結論していえば、「役作り」など殆ど問題にならない(どころか、極論すると「役」なんてのは演技者の単なる「逃げ場」だ)。演技者は、役作りなどよりも、せりふが正しいかどうか(正しいというのは、そのせりふの音声化が自身の納得のいくものであり、演出家を納得させるもの)を訓練したほうがイイ。演技のウマイ・ヘタの99%は、せりふで決まる。アトの1%は演劇の神様が決める。

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