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2011年7月19日 (火)

恋愛的演劇論[実践編]・10

「立つ(直立二足歩行)」を「意識(稽古のときのように人目に晒して観られる)」したときに、何故、不安や、卑近にいえば手持ち無沙汰を感じるのか。(もちろん、感じない演技者もいる。こういうのは初心者や、間違った訓練を受けた者に多い。こういうのは面倒臭いほど手に負えない族で、将来性はナイので、即刻、演技者の道は断念したほうがイイ)それは、人類が同様に直立二足歩行を始めたときの遺伝子の記憶に因る。エラク大袈裟なではナイ。私たちが爪先立ちをするのも、誰に教えられたものではナイ。あれすら、遺伝子の記憶なのだ。演技者はただ、立てばイイというものではナイ。安定した立ち方をしなければならない。伝統芸能(主に能狂言)というものが、まず、立ち方、歩行から鍛練を始めるのはそのためだ。
具体的に話をすすめる。まず、足はほぼ肩幅にstanceをとる。この辺は、自身が安定感を覚える感じでイイので、土俵入の四股みたいにならなければ、適当で構わない。ここからが日常とチガウ。歩くときは別にして、身構えるとき、いわゆるpotential(立ち位置を大きく動かず変えるとき)な立ち居(姿勢)をとるときは、右足が出れば右手、左手が出れば左手を同様に少し同方向に持っていく。いわゆる「なんば歩き」のカタチだ。ほんの少しの場合でも、やや動きの大きい場合でも、そういう姿勢をとる。実際にやってみればワカルはずだが、そのほうが安定感を与える。誰にか、自身と、観ている者にだ。ワカラナイときは逆にやってみて、その差異から、了解していく。これを延長すると、右半身を前に出すときは、右手右足が、左半身を前に出すときは、左手左足がついて出ることになる。何故そのほうがイイのか、そうなるのか、これも(日本土人としての)遺伝子の記憶としかいいようがナイ。古来、縄文の昔(その以前から)から、日本土人はそういう姿勢で動いてきたのだ。(動物でいうと、猫の歩行がこれに近い)。歩く場合もこの延長がイイのだが、歩く場合はなるべく足の動きに手の動きをつけない。つまり、足には足、手には手の役目というのが演技にはあるのだ。いい方を変えれば、足は足で演技し、手は手で演技するということだ。この場合、少々難しくいうと、足は「時間」を手は「空間」を担う。狂言において、「では参ろう」と、移動して「おう、もう着いた」はほんの数歩だ。これは足が空間を移動したのではなく、時間を経たという約束事をはたしていることになる。手で「これくらいの魚」と示すとき、それは魚の空間的な大きさを示している。指先である方向を示して「あそこを観ろ」というときも同様だ。方向は空間性だからだ。早足で歩く、というのは急いでいるのだから時間性だ。
この「立ち方」は、ついつい崩れる。忘れちゃうからだ。だから、ビギナーやヘタを相手に演出とやらをするとき、私の口から出るコトバはたいていが「足ッ」になる。もちろん無造作に導線を移動する演技者に対しても「足ッ」だ。最初、演技者はナニをいわれているのかワカラナイ。ただ、私は威圧しているのでもなければ、権力を行使しているのでもナイ。「足ッ」と何度もいわれれば、演技者は、いやでも足に何かあるのかと意識するようになる。つまり「考える」。稽古というのはそういうものだ。演劇は義務教育ではナイのだから、自らが考えて出してきて納得したことでナイと身につかない。そういうのがイヤなら仲良し芝居ごっこをやっていればイイのだ。communicationがどうの、観客と一緒に演劇を楽しむなどというカタチでの演劇の肯定の仕方とは当方は無縁だ。演劇は惜しみなく奪うが、惜しみなく与える。武芸において「勝負」とは生きるか死ぬかということだ。演劇という技芸においても、終演後の美味いビールを一杯飲むための根底には、そういう死生観が在る。これは、文学、音楽、書道、絵画、などに於いても同じことだ。

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