無料ブログはココログ

« 恋愛的演劇論[実践編]・15 | トップページ | SLOFT通信・1 »

2011年7月25日 (月)

恋愛的演劇論[実践編]・16

タネを明かせばこの、わかんなくなったら「クルリと回る」というのは、三木のり平(故人)さんが柄本明さんに語った「当て振り」のやり方を、柄本さんから聞いて、私なりに分析しただけだ。実にユニークで卓見なる演技論だ。演技に困ったら、ちょっとやってみればイイ。とはいえ、あんまりやり過ぎると目を回すので注意が必要だ。
ここで、私が文脈の中で用いる語彙について、ちょいと説明をしておく。なんしろ、出来るだけワカリヤスクやんないといけねえからな。「表出」と「表現」のチガイだが、表出は視覚的、聴覚的、触覚的に如何なるカタチも持っていない。いうなれば「ココロで思っていて、それを外に出したい」という「気持ち」だとしておけばイイ(自然哲学では、この「いい分」を[疎外]として扱うが、ここではそういうムツカシイ扱いは避ける)。「表現」はそれを、視覚的、聴覚的、触覚的なものに「創った」ものだ。つまり「(表)出を(現)したもの」だ。何度もいうが、(ナチスドイツの宣伝省、ゲッペルスは、宣伝の繰り返しが生む効用、効果を説いているけどネ)「気持ち」がすべてすんなり表現できるとは限らない、というより、それは不可能なことだ。しかし、その不可能に挑むところからしか「表現」は始まらない。(この辺りで、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」とは袂を分かつことになる。前期、後期のヴィトくんの言語学は、ある「方便」としては活用出来るのだが、まあ、この話は機会があれば)。ついでに「観念」と「意識」のチガイを述べておくと、ここではたいてい前者を静止的(固定的)なココロの在り方として、後者を運動するココロの作用、情況、認識の在り方として扱う。「「事象」と「現象」。前者は情報になると思ってイイ。後者は情報には出来ない(気温20℃は情報だが、気温ビール美味め、は普遍性に欠けるので正確には情報とはいい難い)事象を含んだものだ。以上おわり。
環境界(イタの上)における演技者の[疎外]は、いうなれば「住み慣れれば」「住めば都」というふうに、そう難しい問題ではナイように思われる。しかし、残された問題はほんとうはひとつのアポリア(難題)だ。たとえば、演技者が自分の演技のうまくいかない理由を何故、自分の責務としてしまうのか。環境界が間違っている場合だってあるじゃないか。間違っているというのが適切でナイのなら、その環境(舞台・セット・美術)に演技者が適応しにくい類だってあるじゃないか。世界的に有名な映画監督、小津安次郎は、ワンカットを撮るのに何十回もカメラを回した。ところが、そのNGを俳優のせいにしなかった。「そこの掛け軸を変えよう」、「机は黒檀のほうがいいかな」「湯飲みがね、気に要らない」「空気が悪い」「お化けが出たような気がする」、もうナンデもアリなんだが、俳優は同じ演技を淡々と繰り返すことになる。もちろん、小津監督のほんとうの狙い目はそこなんだけど。とはいえ、たいていの演劇の稽古の場合、自分の演技が「上手くいかない」と「思い込む」。しかしね、ここで、相手役の演技がヘタだからなんて、イチャモンをいう「大女優」とかよりは、マシなのよ。(この相手役とのことは、またアトで論じる)。ともかく、そういう場合(クルリと回ってもいよいよダメな場合)、演技者は小動物が助けを求めるような目をして、演出家を観る。私は黙っている。だって、演技者は他人だもん。他人のココロやカラダの事情なんかワカルワケナイじゃん。演技者によっては泣く者も出てくる。こういうときは泣けばイイ。前にもいったが、悔しくて泣いたほうがイイのだ。ヘタな芝居をして、「出来ました」って顔をするアホには、「もう一度、ホンを読んでみてください」と、私はいう。人間は、好きになったひとのことを、どれだけ知っているのかワカラナイままでも「愛しています」といえる存在だ。アトから失敗したなと思っても、その時は「愛して」いたという「思い込み」の中にあったんだから(これを「直感」というのだが)仕方がナイ。

« 恋愛的演劇論[実践編]・15 | トップページ | SLOFT通信・1 »

演劇」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/558792/52302134

この記事へのトラックバック一覧です: 恋愛的演劇論[実践編]・16:

« 恋愛的演劇論[実践編]・15 | トップページ | SLOFT通信・1 »