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2011年7月12日 (火)

恋愛的演劇論[実践編]・3

演技者が台本を手にした場合(と、ここで「台本」と「戯曲」のチガイを述べておく。「戯曲」というのは「書かれた劇」であり、パラ位置からみれば「読める(読ませる)劇」のことをいう。これを、稽古現場に持ち込んだ場合、「演じられる劇」としての「台」として扱うことになる。脚本も同義。こっちは「脚」として扱う。テレビ、映画などのシナリオは、戯曲とは全く違って、当初から「演じられる」ことを目的、そのための基準として書かれたもの)、まず必要なのは「字」が読めるかどうかだ。これは、すぐにワカル。台本を上下逆に手にしているものは、間違いなく字の読めない者だ。合衆国の識字率が70%であるのに比して、日本の識字率は99,8%だ。つまりたいていは読めるはずなのだが、字を読むのと、字を観るのとはチガウ。私もハングルを声に出して読むことくらいは、なんとか出来るが、それは字(ハングル)を観ているだけで、意味はワカラナイ。これと似ている現象が、演技者と台本のあいだで、起こることがある。特に漢字になるとその率が増してくる。さらに固有名詞もそうだ。これは「台本を読み込む」などという作業以前の問題だ。読み合わせの事前に、読めない字、読んで意味の解らないコトバは辞書などで調べておくこと、これは演技者としての基本的なな心得だ。(最近は、「読み合わせ」を「本読み」といういい方で、こっちのほうが定着してきた。「本読み」というのは、劇作家がまず、作品を演技者、スタッフの前で通し読みをすることで、演技者がそれぞれの役で台本を読むのは「読み合わせ」が正しい。このご時世、「幕間」を「まくま」と読み、「暗転」を舞台が真っ暗になることだと思い、ホリゾントを「白い幕」だと思っている輩の多い中、私も呆れつつ、面倒なことはもういわんことにしている)
読み合わせのときは、椅子に座るか、単に座るか、ともかく寝ころんで読むということがナイように。ウソのような話だが、私が劇団をやっていた頃、KはしKこという女優は、晩飯に一杯引っかけてきたのか、寝ころびながら、読み合わせ参加したことが何度もある。もちろん、共演の演技者から、私に苦情が寄せられたが、そういう演劇以前の問題は、個人の良識において責任を持つこと。「すんませんがね、寝ころばずに読み合わせしてもらえますかね」などと、いえるか、アホラシイ。この方は(あくまで個人の観方ではあるが)もう自滅してらっしゃるので、とやかくはいわない。
戯曲(台本)を読めば、何が書いてあるのかワカルはずだ。というのは素人の考えで、昨今の学芸会芝居しかやってきていない若者には、さっぱりワカラナイというひとも多い。ついこのあいだ上演した『ゴーシュの夜の夜』に出演した、最も若い年齢(二十代前半)の女性演技者に、演出であった私は、読み合わせのアト、直截訊ねてみた。「何の話か、ワカラナイでしょう」、彼女は素直に「ワカリマセン」と返事した。「ワカルように稽古していきますから」。もちろん、他の連中も全てがワカッタ上でやっているのではナイ。平田オリザ氏のいうように「コンテクストを摺り合わせて、イメージを共有せよ」といわれても、演技者のほうにそれだけのレベルがナイのだから、そういうワケにはいかない。しかし、これは演技者が恥じるべきものでもなく、劇作家の権威や演出家の権力行使の全段階でもナイ。「読み合わせ」というのは、「台本(戯曲)」を読み込むことだ。そこで全くイメージのチガウものが出てきてもたじろがない。歌手、都はるみさんは『涙の連絡船』を歌うとき、いつもアメリカ西海岸の街の港をイメージしていたという。それでも、あれだけ観客に歌を伝えることが出来たのは、「本質」を掴んでいたからだ。台本の「ワカラナイ」部分を羅列する前に、「ワカル」ところを捜せ。

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