恋愛的演劇論[実践]編・6
演技者というのは、演劇作品を「全体」と考えると、役でその一部(部分)を担うことによって、「全体と同じ(同一)」で在る者に該る(これはフラクタルと考えてもよし、ホログラフィと考えてもイイ)。また、その「作品全体」と役を通じて「関係」している者に該る(これは代数の構造、関数と考えてもイイ)。さらにその「作品全体」を個々人の役に対する意識によって「了解」している者に該る(これは幾何学的、位相の構造と考えてもイイ。また、いい換えれば、その作品をどのような形態として受け取っているかでもイイ。つまり、自分が、作品というカタチのどの位置にいるか、作品と自分とで、作品はどんなカタチになっているか、だ)。演技者というのはその三つを根拠として作品に対峙する。そうして、演技者は、その三つを根拠として、自身の心的表出を(その作品を読んでココロが感じたものを、この場合は表出であるが、inputと考えたほうがイイ)虚構の表現(役という芝居の上での約束事)として体現(具体的に演じる)しなくてはならない。(これがoutputに該る)。ところが、ほんとうをいうと、そんなことは不可能なmissionなのだ。それは演技者の力量の問題ではナイ。いってみれば、表現の持っている本質的なものだ。
具体的な「読み合わせ」に立ち戻って、そこんとこを検証していく。
と、その前に、ちょっと小難しいことを書いたので、肩の力を抜いておこう。演劇というのはエラク難しいもんだなと思ってもらっては困る。演技者諸君は、「泥鰌すくい」というケッタイな幇間芸(太鼓持ちの芸)があるのをご存知だと思うが、あれは実に馬鹿馬鹿しいものだ。その馬鹿馬鹿しさを観て笑うのだ。演劇も同じだ。演劇というのは「馬鹿馬鹿しい」ものなのだ。なんでかというと、また理屈になるので、解説はしないが、私のように40年も演劇をやっていれば、イヤでもそういうことに気づく。演劇は実に馬鹿馬鹿しい。しかし演技者諸君、馬鹿馬鹿しいことを一所懸命、大汗流して、他人の前でみせるという、このような営為は人類以外、如何なる知的(といっても猿や犬、猫の程度をいうが)動物もやんない。馬鹿馬鹿しいことを大真面目にやる感動は、Don QuijoteもHamletもおんなじだ。(『ドン・キホーテ』くらいは読んでおけ)。馬鹿を承知の所業なのだ、演劇というものは。「武士道とは死ぬことと見付けたり」(『葉隠』)だが、「演劇とは馬鹿馬鹿しいことと見付けたり」だ。ただし、演技者諸君、この世には「大愚」というコトバもあるのだぞ。
「読み合わせ」が始まる。そのとき、演技者の意識には、「役のイメージ」が在る。その「役のイメージ」どおりにホンが読めたら(つまり、前述した三つの根拠がひょいといけたら)これほどスッキリすることはナイ。しかし、「イメージ」というものは、どう転がしても叩いても「イメージ」にしか過ぎない。演技者はその「イメージ」通りに発語出来ない、せりふが出てこないことで、焦燥する。「イメージは、わかってんだけど」というあれだ。だから、だ、「イメージの共有」なんてものは、やったって仕方ないのよ。せりふをいう、つまりその「役」でコトバをいう。どうもチガウ。うーん、こうじゃナイ。と演技者は煩悶する。では、この「どうもチガウ」というのは、どこが判断しているのだろうか。脳か。ココロか。意識か。しかし、まず、発語として、音声として表現している以上は、「耳」が判断していると思いたまえ。「耳」は演技者の発声を「聞く」。聞いて、この音声は「表現したい役ではナイ」と「感じる」。じゃあ、どうすればイイのか。「反復」するしか方法はナイ。最初の音声がチガウなら、それを「反省」しながら次の音声へと「復活」させてみる。これが「反復」だ。「耳」は聞く。そうすると、その都度「イメージ」がみえてくる。何故なら「イメージ」というのは「像」だからだ。音声を「耳」で聞くのではなく、「イメージ」で「観る」のだ。つづめれば、「音声を観る」ということになる。仏教にある「観音」さまだ。音は「観る」ことが出来るのだ。そうすると、「役」の「イメージ」が掴めるすぐ近くまで行き着くはずだ。完璧でなくてイイ。そんなものは存在しない。存在すると「思い込んでいる」だけだからだ。
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