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2011年7月 2日 (土)

恋愛的演劇論・24(改稿)

「イメージの共有」、これが『現代口語演劇』の出発点、あるいは(そうして)重要な基準定理だということは、このあたりまでのその強調の度合いで、私たちにも理解出来る。これは具体的にいえば「そこにほんとうに無いものでもみえるようになる」ための過程であり、それが「演劇を支えているメカニズム」であり、演出家はそのメカニズムを駆使して「虚構をほんものらしくみせる」、それが「演劇」だ。というのがオリザ氏の理論、つまり『現代口語演劇』の主張(論理)、ということになる。単純にしてしまうと、「イメージの共有」=「演劇を支えるメカニズム」という公式になる。私たちは「イメージの共有」における深度に疑問を呈したが、それはとりあえず置いておいて、「演劇」(『現代口語演劇』)の現場において、この「イメージの共有」は、「誰」と「如何に」成されるものなのだろうか。
~~演劇の観客は、実は、「イメージの共有しにくいもの」が観たいのです。~~(同)「イメージの共有」はワークショップでは「相手役との共有」だったから、そこにもうひとつ「イメージを共有するものとして「観客」という存在が投入されたことになる。しかし何故、観客は「イメージの共有しにくいもの」がみたいのか。
~~観客は、普段見ることのできない、経験したことのない~~(同)ものを見たがる。それは、
~~ありきたりの動きでは、観客はすぐに飽きてしまいます~~(同)
からだ。そうして、
~~観客が一番観たいもの、そして一番共有のしにくいものは、人間の心の中だろうと考えています~~(同)
~~演劇は、イメージの共有しやすいものから入っていって、しにくいものにたどり着くようにできていること~~(同)
ここで、一連に書かれて(論じられて)いることは、単純に観客を「感情同化」に導くのが演劇だということと判別がつきにくい。しかし、いままでの演劇はそれがやれてこなかったという主張ともとれる。また、青年団の舞台はそれをやりとげるための芝居であり、青年団の客は、質が高いのだという自負自讃ともとれる。そのために俳優のなすべきこととして、
~~心身の内面を掘り下げ分析していくことと、自由な発想で外側の世界に向かっていくこと、この二つは、明らかに矛盾する作業です~~(同)
これをたやすくやってのけるのを天才と呼ぶ。のだそうだが、「心身の内面を掘り下げ分析する」「自由な発想で外側の世界に向かっていく」という、この漠然とした作業工程が「表現手段」として具体的にどんなものかがワカルのはたしかに天才でしかナイ。オリザ氏はこの教本の中盤で、「自分が俳優に、どんな条件を要求しているのかを、きちんと説明できない演出家とは、つきあわないほうがいい」と述べているが、前述した二点を了解することは難儀なことだ。それに私たちはこういう、いわゆる悪しき「観念的」なコトバなら、『現代口語演劇』の否定する、近代→現代に至る演劇現場の指導者のコトバやその教科書、演劇論書で、耳タコになっている。
~~この点については、あとの章で詳しく触れます~~(同)
のは、そうしてもらわないと意味がナイ。が、ここでオリザ氏が重要視しているのは、その二点が「明らかに矛盾している」ということなのだが。解説を後回しにされた私たちとしては、何が矛盾しているのかがまずワカラナイ。もし、その方向性と力点(いわゆるベクトルというもの)が「心的世界」「外界(身体)」へ向かうのと「環境世界」では真逆であるからというのなら、それはとくに「矛盾」というものではナイ。なぜならば、私たちはごく日常的にも、そういうふうに「生活」しているからだ。卑近な例を示せば、私たちは「今日、この千円を使ってしまうと、明日困るな」と内面に問いかけながらも、「まあ、いいやなるようになるか」と、飲み屋の暖簾をくぐることなど、しょっちゅうやっているからだ。
次にオリザ氏の口から「リアル」というコトバが飛び出てくる。彼はこの「リアル」で何を規定することが出来るのだろうか。『現代口語演劇』の「リアル」とは何なのか。

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