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2011年7月13日 (水)

恋愛的演劇論[実践]編・4

「読み合わせ」という作業は、何かの摺り合わせのためにやるのではナイ。キャスティングされた演技者が、演出家のイメージ通りかを観るためにやるのでもナイ。極論すれば、演出家のイメージなど、それほどたいしたものではナイ。キャスティングだって、それぞれキャラクターがあることだから、イメージと同一のなどというのは、殆ど無理だ。錢のある映画という、プロデュース・システムでさへ、ミスキャストなんてことがいわれる。伊丹万作は、『演技指導論草案』で、(この小論は、私と考えがチガウ部分も多いが、数多の演出論よりは、格段に勝る)「百の演技指導も、一つの打って付けな配役にはかなわない」と述べている。オーディションで数万人の応募者をかき集めたら、下手な鉄砲も、だ、いいのに当たるだろう。しかし、私たちは、ちょうど、いま蓋を開けて中をみた、冷蔵庫の、在るものの中から見繕って料理を作るがごとく、芝居を成立させねばならない。演出家の仕事は、あたかもキャベツ一個で、何を創れるかというところにある。
「読み合わせ」において、台本は戯曲を離れると解釈してイイ。演技者における個性と能力などによって、せりふが変更されていくのはあってもイイ。しかし、多くの演出家と演技者は、ここで間違える。かなり、たいてい、大きく間違える。演出家は、「旅ですか」というせりふがいえない演技者に対しては(つまり、演出家のイメージどおり読めない演技者に対しては)、あくまで読み合わせの段階においてだが、せりふを変えられるだけの能力がなくてはならない。「旅ですか」の「意味」を変えずにではナイ。「意味」が変わっても、演技の劣化とならないようにさへすればイイ。これをただ、cutするバカな演出家が存在する。「いえないなら、やめよう」では、如何なる進歩も、その芝居の成就も望めないのはいうまでもナイ。演技が劣化しなければ、台本は戯曲としてその精度を保つことが出来るからだ。逆に、演技が劣化しているのに気づかないアホな演出家は、ヘタな演技者の「旅ですか」を認めてしまう。それどころか、劣化させてしまう演出家すら存在する。「コンテクストの摺り合わせによるイメージの共有」よりも、台本(戯曲)に書かれたコトバ(せりふ)の劣化を如何にして防ぐか。これが「読み合わせ」というものの、存在意義だということは、アタリマエのことだ。本を離して立つようになれば、また変わるなどということは有り得ない。従って、演技者は、「読み合わせ」において、その「本」に何が書かれているのか、徹底して格闘しなければならない。ここで、ワカランことは演出家に訊けばいいのだが、訊き方というものがある。最低の訊き方は「これはどういう意味でしょう」「これはどういう感じなんでしょう」だ。こういう演技者は、バイトに精出して、適当な彼でも彼女でもみつけて、コマシてコマサレ、日夜おまんこに励んでいればそれで青春と人生は終えることが出来る。最も(という程でもナイが)イイ訊き方は、「私はここをこういう意味に捉えましたが、どうなんでしょう」「ここの感じは私の感じたこんな感じでイイのでしょうか」だ。だいたい、私くらいの優秀な劇作家になると、一字一句が粉骨砕身、死屍累々のコトバの中から、生き残ってきたコトバでホンを書いているのだから、もし、せりふを間違って理解して、読んだ場合は「申し訳ありません。読み取れませんでした」と、便所いって隠れて泣くくらいでないといけない。そういうことは、劇団をやってるときには、よくあったのだ。「コンテクストぉ、お前が生きてきた、ケチな二十数年や三十年なんざの、どこにお前を支えるものがあるのだ。間違ったら、指の一つもツメルつもりで、ホンを読め」
演劇とは「単純」なものだ。それがワカルまでが難しい。

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