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2011年7月21日 (木)

恋愛的演劇論[実践編]・12

せりふというのは漢字で書くと台詞か科白だが、どちらも当て字だ。前者が「読み」後者が「動きを伴う」というふうに、いちおうコード化はされている(コード化というのはcode、もともとはコンピュータ用語でプログラムに使われる機械用語のことだ。簡単にいえばルールと同義で、野球のルールとサッカーのルールがチガウように、同じものは同じに、チガウものはチガウものとして分類して規定することだ)。で、語源は諸説あって、そんなものはどうでもイイ。立ち稽古になり、台本を持ちながらも、一部離しながらも、演技者は次に「動く」という演技に入る。ここでアホはよく間違えるのだが、「動く」こと自体には何の意味もナイ。意味が生じてくるのは「動き」による「作用」によってだ。時計の振り子が動くのは、単純な往復運動だが、それが時を刻むという作用を生じるから意味があるのだ。ダンスも同じだ。ダンスに「振り付け」があるのは、動きに意味を与えるためだ(正確には、価値も生じてこないと表現にはならない)。エネルギーとは波動の振動数をいう。ある量子のエネルギーの値は、その量子の振動数のことだ。多いほどエネルギーの値は高い。しかし、ここでまたアホは間違える。激しく動くことがエネルギッシュだと勘違いしてしまう。エネルギーには、もう一つ、ポテンシャル(位置)エネルギーというものがある。囲碁を知っているものには説明しやすいのだが、碁盤に置く石は、対戦者必ず一個ずつ、順に置く。しかし、この石一個の位置が、盤面に与える影響は大きい。碁石は置いたら動かすことは出来ない。従って、碁石のエネルギーはポテンシャル(位置)のエネルギーだといえる(将棋はそれに比すると、振動エネルギーに近いのかも知れない。将棋を知らないので詳しくはいえないが)。さらにE=MCの2乗という、有名なアインシュタインのエネルギー方程式がある。つまり、重さのエネルギーだ。これは、囲碁でいう一個の石の位置が占める重さ、というところから、ホテンシャル・エネルギーに変換しても構わない(と思う)。エネルギーについては、もう一つ、向きというものがある。エネルギーがどっちを向いているか、どこに向かっているかだ。いわゆるベクトルというものだ。ベクトルはエネルギーの動きの方向を現している。すると、それによって生ずる作用を考えることが出来る。演技者は、たとえ動かないでじっと立っていたとしても、その向き(ベクトル)によって、エネルギーの方向を持っていることになる。演技者1が2の方向を向いているとき、1のエネルギーは2に向かっているのが常識だが、そのせりふによってまったく別方向の3に向かっているという場合もある。ようするに、その作用次第なのだ。あるいは、ミステリによく出てくるラストのクライマックス。「名探偵、みんな集めて、さてといい」という犯人を指名するシーンなどは、名探偵の演技者のエネルギーは、集められた者すべてに向かっている。
たいていの演技者は、当初、せりふに動きをつけていこうとする。何故なら、そのほうがせりふがいいやすいからだ。赤毛ものなら(って、古いなあ。アチャラカにするか。それも古いし、喜劇と思われてもなあ。アチャラカというのは喜劇のことじゃナイ。アッチの[外国の]という意味だ)それでもイイが、動きは最小限に留めたほうがイイ。何故ならヘタがバレないからだ。立っていてダメな演技者は動いても所詮、ダメなのだ。
演技者は立ち、動き、せりふをいう。演技者はどうしても、自分の思ったとおり(イメージに則した)せりふが出ないと苦吟する。焦燥する。そういうときは演出家は(とりあえず)こういうべきだ。「芝居というものは、観客に声を届けるため、声の張りが強く、大きくなります。それは不自然に自分にも聞こえます。声の張りを抑え(これを減りといって、二つ足して[メリハリ]という。語源は、三味線の糸の張り具合からきている)小さくしていって構いません。そこで、不自然でナイものをまず掴んでみなさい」

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