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2011年7月22日 (金)

恋愛的演劇論[実践]編・13

幾ら強固な導線を決め、厳命に立ち位置を決めようと、演技者が生きているものである限り、演技者が導線や立ち位置によってがんじがらめになるということはナイ(はずだ)。演技者はごく柔軟にそれを破ってくる(はずだ)。というよりも、演技者はよほどの逸脱がナイ限り、自身で導線を決め、立ち位置を決められるようになる。演出家はそれを認めるべきだし、ほんの少しの調整を施せばいいようになる。芝居はパッケージ旅行ではナイし、ワンプレートランチでもナイ。演劇は義務教育ではない。情操教育などという名前だけご立派なバッタもんでもナイ。その逆にバラケツや与太者やチンピラのやる、虚仮威しでもナイ。
演技者1が独白している場合、あるいは1と2がせりふのやりとりをしている場合、その他のその場にいる演技者は何をしていればいいのか。これは、よく質問されることだ。そういうときはただ黙ってそのせりふを聞いて(いるふりでもして)いればイイ。同時進行で二組の演技者のせりふが交差する芝居が常識になっているらしい。理由は、日常ではよくあることだからだそうだが、繰り返しいうが演劇は日常ではナイ。舞台に日常空間が創られようと、それは日常をお芝居しているだけで、似非日常でしかナイ。したがって、舞台の上で、日常のように大小便は出来ない。アタリマエのことだ。観客は、たぶん私などの場合は、どちらのせりふも聞いていないと思う。だいたい劇作家がタイセツなせりふをそういうカタチで扱うワケがナイからだ。そういう場面は映画などでよくある群衆シーンだと思ってスルーすればイイと私は思っている。
「動き」について、つづける。その前に、一つ二つ、お約束ごとをしておく。今後、文章の中に次の三つのコトバが度々登場する。「内界」「外界」「環境界」。それぞれについて説明しておく。「内界、とはココロの世界、状態、領域、心象をいう」「外界とは、身体(カラダ)そのもの、筋肉、内臓、視力、聴力、嗅覚、神経系統、その延長、拡張されたもの、形象をいう」「環境界とは、いわずと知れた、あんさん方をとりまく世界、自然環境のことだ。自らに外から対峙するもの、外から影響を与えるもの、外から自身に関係するものをいう」もう一つ、コトバ(せりふ)の「二重化」についていうと、ここにグラスがある、というのは、誰にとっても「グラス」だという「意味」を持っている、が、そのグラスが、誕生日にプレゼントされたバカラのグラスであるとすれば、所有者とっては「価値」を持っていることになる。もちろん、それは所有者の「思い込み」だ。しかし「思い込み」つまり虚構ににせよ、せりふにはそのように「現実(意味)」と「虚構(価値)」のコトバの「二重化」が存在する。(これは、ずいぶん前に少し触れたことだ。ついこないだも、いうたんやけどな)
で、つづき、だ。演技者がイタ(稽古場にせよ、本番のステージにせよ、演劇の舞台として用いられる場を「イタ」と表す。「板付き」というのは、演劇用語で、舞台が明るくなる前にすでにイタの上に在ることだ)に立った場合、せりふの不自然さを感じることは前回述べた。で、その対処法も述べたが、あくまでそれは対処法であって本質的なことを論述したのではナイ。本質的なことは、少々難しいのだ。ヘーゲル、マルクスと順序だって論じている余裕と学問が私にあれば、懇切丁寧に乳を揉んでやるのだが、生憎(あいにくと読む)そこまでの学問はナイ。そこで、こういう命題(主語と述語のある文章)を思い出してもらいたい。『意識は或るものを己れから区別すると同時に関係しもする』(ヘーゲル・『精神現象論』)。難しいと思うが、ここをクリア出来れば、ヘーゲルの(弁証法の)たいていは感知出来る。そうして、これは、演技においても、その困難さが何処からやってくるのかを解説するのに、充分適している。

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