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2011年7月 3日 (日)

恋愛的演劇論・25(改稿)

~~「リアル」という言葉を考える時、私たちはまず、「現実そのもの」を対象とします(中略)~~しかし、演劇は、現実に近ければリアルになるとは限らない。観客とのイメージの共有ができた時に、初めてリアルな世界が、観客の脳の中に立ち上がってくるのです。~~出発点は、あくまで現実世界にあるのです。何故なら私たちは、人間の現実の身体を離れて演劇を創ることはできないし、通常話している言語を離れて、まったく別の文法の演劇を創ることもできないからです。~~(同)
一読すると、しごくもっともなことを述べている。それはこの著作全般の印象としていえることだし、「子供たち-若い読者」あるいは、初心者や、逆に頑迷なる演劇関係者は、ここで首肯せざるをえない文脈を与えられる。しかし、多少なりとも、演劇とまともに格闘してそれを学んできたものからみると、「リアル」「現実」というものを少々無造作に扱っていやしないかという不満もあるのだ。
オリザ氏の論理をまとめてみる。-演劇(『現代口語演劇』)における「リアル」とは、「現実そのもの」を対象としない。「リアル」とは観客との「イメージの共有」によって観客の脳に立ち上がってくるものをいう-。私たちは、この「イメージ」というものについて、「同一性」の観点から、三つの段階を挙げた。まず「区別」、次に「差異」、そうして「対立」。この三点がセットになってなんと1000円ポッキリ、などというジャパニーズ・カタタのような通販ショッピングは、ここでは無理な相談だ。たとえば百人の人間のイメージを寄せ集めれば百人によって形成されるイメージが成立するかというと、そんなことはありえない。しかし、もし、具体的にこういう「イメージ」が演劇を成立させるのに必要であると考えるならば、つまり『現代口語演劇』が演劇としての(ひとつの)理想のカタチだと信ずるならば、そちらのほうから、観客の側に、イメージとして観客を圧倒するカタチで降りて(向かって)来なければならない。それが妥当な戦略という他はナイ。しかし、どうしても普遍性を手に入れたい『現代口語演劇』は、そのような強権的な手法は避けねばならない。そこで、次に「出発点はあくまで現実にある」ことを、この論理は強調する。「これまでの演劇理論を批判的に見直し、日本人の生活を起点に、いま一度、新たな言文一致の新鮮な劇言語を創造し、緻密で劇的な空間を再構成していこうという戦略にもとづくものです。(中略)人間の生活はそれ自体が本来、楽しく、優美で、滑稽で、間抜けで、複雑で豊かな様相を内包しています。私たちは、その複雑な要素を抽象化しながら舞台上に再構成し、その静かな生の時間を、直接的に舞台にのせようとする試みをつづけています」という青年団の主張とは抵触しない普遍性を、言説(ディスクール)として所有したいのだ。。しかし、先の論理は、演劇創造の「イメージ」の水準というものと、一般的観客の「イメージ」の水準というものを、まったく一緒くたにしているのは明らかだ。もし、観客とのあいだに「イメージの共有」というものが出来たとしたら(確信したのなら)、今度はパラ位置から、観客の持っていた「現実」と「イメージ」という「虚構」の在り方がどんなふうに、どれくらいチガッテいたのかを検証してみるといい。そこにおいて「イメージの共有」という護符がどのくらいの御利益があるのかが、ワカルはずだ。つまり、もし、観客が『現代口語演劇』に対して「異和」を持ったとしたら、「イメージの共有」の「対立」としての段階で『現代口語演劇』の「表現手段」が受け入れられなかったという査証だということだ。しかし、それですら「イメージの共有」には違いないのだ。「イメージの共有」とは、イメージの客観的一致をいうのではナイ。どのような演劇も、観客との「イメージの共有」を念頭においている。そうしてイメージはたしかに共有されるのだが、それらは、各自の水準におけるイメージとしてであってそれ以上ではナイ。そこで、その解決策としてオリザ氏が持ち出してくるのが「コンテクスト」の「摺り合わせ」という作業工程だ。

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