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2011年7月 9日 (土)

恋愛的演劇論・28

故郷に帰ると、山があり、空があり、雲が飛んでいる。神社や寺がある。田んぼがある。そのあたりで、子供の頃はよく遊んだ。もっとも、現存するのはその半分以下だが。私たちは雲や山や神社を観て、それを「くも」「やま」「じんじゃ」と命名することで、それらを、ある概念として認識し、それを共通規範として共有することが出来る。雲のないところでも、「雲がね」といえば相手は概念としてそれを理解する。「雲」というコトバで私がどんなイメージを持ったとしても、相手がどんな形状の雲を連想したとしても「雲」が「雨」になることはナイ。ところで、地図をみると、町名などは山田町、川下村と書かれているが、山や神社が特定の記号として描かれていることに気づく。鳥居のマークが神社だったり、〒が郵便局だったりする。これは、私たちが、その対象を「形態」という共通規範として識知していることを意味する。しかし、山が♯や♭と記されることはナイ。それとは逆に△を山の記号とすることについて、抵抗を持つ者はおそらく少ない。それは△が山のカタチを「抽象化」しているからだ。私たちはこの「抽象化」によって、△をして「ヤマ」と命名すること、それを「形態」化と称することにする。各人各様に言語から想起するイメージは多種多様だが、予め、このように「形態」による共通規範を持てば、たとえば山といえば、何人いようと「ヤマ」のイメージは△ですむ。個々人のコトバのイメージというものを具象度の高いものとすれば、「形態」は抽象的なものによる共通規範ということが出来る。この共通規範(「イメージの共有」)は、「コンテクスト」を「摺り合わせて」いけば、言語(コトバ)は具象から抽象へとたどる(か、その逆に抽象から具象にたどるか)しかナイといっているのと同じような気がする。すると、ここにパラドックスがひとつ生じる。『現代口語演劇』の方法論は、最も「コンテクスト=イメージの共有」を要求される観客に対して、具象度の高い(日常的な)舞台美術を提示したり、さらにせりふにおいても、同様に具象度の高い(日常的な)コトバを用いる。そのほうが観客の舞台への介入を妨げず、自然に入ってきやすいのではないかという考えからだ(オリザ氏は観客という存在を、ただ観る者から、舞台へ介入する者とすることが理想だと表明している)。これを避けようとするには、オリザ氏のいうように「世界観」の同じ者、オリザ氏に似たコンテクストを持つ者、コンテクストを自在に広げられる者を「考えるコマ」として、将棋盤としてのステージに上げるしか方法はナイ。というよりも、そのような俳優が存在するのなら、「コンテクストの摺り合わせ」などしないですむ。つまり、戯曲の作者であり、その演出家である平田オリザというヒトの作品における表現手段を「形態」として(それが彼の意識的作業であっても、無意識的結果であっても)それに向けて「摺り合わせ」を行いさえすれば、イメージは「共有」出来る(と思い込むことが出来る)。舞台の椅子は、「イス」なのだ。かつて、「コシカケ」というふうに名付けられていた対象は、劇作者であり、演出家であり、劇団主催者でもあるオリザ氏の「イス」という命名によって「椅子」になる。「コンテクストの摺り合わせ」とは、まさに、そういった「イメージの共有」に他ならない。だが、そこ(舞台)にあるのは「現実」ではナイ。あくまで演劇という「虚構」だ。すると、観客は「椅子」というものが、作品の中に存在する「形態」として「イス」であるのか、実態である「椅子」なのか(そんなワケはナイのだが)ワカラヌままに、その「イメージの共有」を要求せられて、その作品という虚構の時空に介入していかねばならナイ。これは、虚実紙一重のオモシロサなどということをいっているのではナイ。演劇が「虚構」であることなどアタリマエのように思えるが、問題は、その手続きなのだ。観客は黙って(何も考えず)舞台の進行を観ているワケではナイ。舞台を日常的に描けば、観客がより容易に舞台に介入出来るというのは、錯誤に近い。何故ならば、日常は個的なのではなく「私的」だからだ。『現代口語演劇』という表現に、入りにくさを感ずる観客がいるとすれば、その要因はそこにしかナイ。換言すれば、観客にとって舞台の椅子は、彼や彼女の「椅子ではナイ」のだ。観客は、いったんオリザ氏の「イス」という「形態」概念を通過してからしか舞台(作品)に介入することは出来ない。青年団の舞台がどのようなmotifやThemaやsituationで演じられても、それらが、ある「箱」に詰められて平積みされたバック商品のようにしか感じられないのは(私の感性を棚に上げることにすれば)そういう理由に起因すると思われる。

さて、長くかかったわりには、細部に至らなかった反省も含めて、次回からは、稿を改め『恋愛的演劇論[実践編]』として、継続するが、「難しい」という風評のある中、100名足らずの顧客の方々には、感謝する。だいたい「いま」という時代、世間が、「ワカリヤスイ」はずはナイのだ。

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