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2011年7月

2011年7月31日 (日)

恋愛的演劇論[実践編]・18

相撲に出稽古というものがある。また、ほんとかウソか、講談には、道場破りの話がよく出てくる。これは武者修行のためだ。これを単に「経験」を積むというふうに理解してしまう、やはりアホが多い。「経験」など、それ自体は何の意味も力もナイ。「経験の対象化」が出来ないと、経験などいくら積んでも、上達はしない。逆に経験しなくとも、対象が正しく理解出来ていれば、未経験でも出来るようになる。私の場合、30歳過ぎまで泳げなかった。高校時代の水泳はいつも落第点だ。「畳水練」という皮肉をいったコトバがあるが(畳みの上で泳ぐ練習をしても役に立たない)、あれはウソだ。私の場合はプールの中であれこれ試したワケではナイ。演劇で役者をやるようになって、いろいろと演技の理論を考えるようになって、何事も同じではないかと、まず、身近で上手く泳いでいる者を観察した。身体をどのように動かしているのか。理論的には、その真似さへ出来ればイイ。泳げない原因の第一は息継ぎの方法だ。これも、演技の上の呼吸法と同じように、吐いた勢いで吸うという、一気にする呼吸法にしてみた。で、プールに行って、やってみたら、泳げた。なんだこんな簡単なことだったのかと、自分自身が驚いた。しばらくジムのプールに通っていたことがあったが、二、三度「きれいなフォームですね」といわれた。いまではやっていないが、一度ゴルフに手を出したことがある。そのとき劇団員だった者に連れられて、初めて打ちっぱなしというところに出向いた。ゴルフのクラブを握ったのはそこが初めてだ。クラブの握り、目とボールの位置、スタンスのとり方、腕の回転の仕方、重心、ひとつひとつに順に注意しながら、打った。ボールは思いの外よく飛んだ。連れていってくれたものが、社交辞令もあったろうが、「とても初めてクラブを握った者の打ち方ではナイ」と褒めてくれた。これも、演劇の効用だ。ともかく「考える」ことだ。『SLOFT通信』でも触れたが、toneというのは音調だから、バイオリンならバイオリンの、ギターならギターのそれがある。同じ弦楽器でも、沖縄の三線と三味線とではずいぶんtoneがチガウ。落語や浪曲は、このtoneを同じにする。演歌歌手でもそうだ。低音の魅力といわれたフランク永井さんが、歌の途中でいきなり森山良子さんのソプラノに変調したら、無茶苦茶になる。ところが、ヘタな演技者は気づかないままで、長いせりふの途中、そういうことをやっているものだ。口調は音調ではナイ。(吉本さんの『言語にとって美とはなにか』ふうに書けば)音調を指示表出とすれば口調は自己表出になる。音調のひどいものは抑揚になる。せりふを芝居らしく聞かせるために抑揚をつけるアホがいまだに多い。ちなみに、「アホ」というのは何語かでニンニクのことだ。非売品のサプリに「アホエン」というニンニク主剤のものがある。うちの母親も服用しているが、一昨日実家に帰ったさい、「ボケエンが残り少ないねんけど、送ってもろてや」といわれた。どうでもイイことだけど。
さらにアホになると、抑揚をなくすことが、日常会話と同一だと勘違いして、日常会話らしきせりふを始める。これが、たいてい「一本調子」といわれるものになる。この妙な抑揚も、「役」から意識してせりふを発するときに生じることが、多い。「役」はあくまでイメージだが、このイメージというものは、簡単に仕えるコトバだが、実体そのものは、漠として、掴んだと「思い込む」だけのものに陥りがちなのだ。演技者自身の身体が、素材として、「役」のイメージよりも優先されるのはアリストテレスの哲学以来、変わっていない。

SLOFT通信・5

一日休みをおいて、実家に戻って、うなぎと肉(しゃぶしゃぶ)食って、帰りついでの大須七つ寺共同スタジオ、駅から近いので、『HR』を観るってことにして、上演時間が45分で大助かり。トークの司会は安住さんで、ごくろうさんなこって。トーク依頼を断って良かった。招待だったから、なんもいわん。

SLOFTは、昨日は二人。で、長いせりふの読み方(語り方)のレクチャー。経験論と意識過程、自然過程のレクチャー。神戸浩についての逸話。
長いせりふを稽古するときに、活用出来るのは、「落語」なのだ。ただし、上手いひとのでないといけないのはいうまでもナイ。語りに抑揚をつけるのは、初心者や芝居勘違い者の手合いがよくやることだが、本来、tone(音調)は一定していたほうがいい。落語の場合、名人といわれる師匠のtoneは一定だ。ただし、口調は変わる(いろんなひとを演じるし、シチュエーションの説明もさまざまだしね)。このあたりがムツカシイの。これ、ヘタにやると「一本調子」になるからなあ。しかし、これが上手く出来ると流暢(耳に心地よい)ということになる。抑揚がナイほうがカッコイイのよ。浅野忠信って俳優、ぜ~んぜん抑揚ないでしょ。
今日この稽古をして、8月第一週はお休み。別の劇団が使うので。

2011年7月28日 (木)

SLOFT通信・4

お姉様たちは、最初と最後にちょいと出る「魔女」の役。シェイクスピアですから、『マクベス』のparody。せりふも殆どナイのだが、ともかく読んでもらう。で、少女たちに、「どや顔」で訊く。誰一人「魔女」なんて役で読まなかったでしょ。ここが年輪のチガウところだ。書いてあるものを書いてあるように読む。それだけでイイのだ。で、まあせっかくだから、お姉様たちには、チガウことをやってもらうことにした。
そのアトで、女1、2、4の立ち稽古に自然と入っていく。もうこの辺りで立ってみたほうがイイ、で立ち稽古になるのだ。導線を決める。決めないときは、好きなように動いてもらう。アタリマエじゃん。女4に「自分の芝居を[笑える]ようになったらイイんですよ」と助言。この助言はまたムツカシイねえ。女4は根が真面目だから、頭クルクルしているみたい。で、立ち稽古で少し、遊びを創ってみる。女1はコメディアンヌの資質があるので、そこを上手く使う。女1は身体が安定しているので、「動かない」という「動き」はちゃんと出来るから、逆に細かい演出を付けてみる。
本日も、お姉様たちが来る。ちょっとチガウことやってもらう。ともかく、SLOFTの連中の大きな刺激になればイイ。

2011年7月27日 (水)

SLOFT通信・3

まず、最初にこの数日間気がついた点を、それぞれに伝えてみる。イチバン難しかったのは女4に対して(このこは上手いし、器用なのだが)、「感情」と「心情」はチガウのだということをワカッテもらう説明。こういう説明、私、下手だからなあ。つまりせりふを「感情」で出してはイケナイ。あくまで「心情」で表現する。感情をcontrol(抑制)したところのものが心情だと、いいたいんだけど、なかなかうまく、両者の共通規範のコトバにならない。ヴィトゲンシュタインの言語ゲームは、何事にもこの共通規範(ルール)を求める企てだが、そうは上手くいかねえの。ストラスバーグの「感情の記憶」というのは誤解を招きやすいいい方だ。あれはむしろ「感覚の記憶」にしたほうがイイ。ただし、そういうものに頼らなくても、台本に書いてあるとおりに(読み取って)読めば、それで心情は伝わるようになっている。

ふつう芝居でいうと、1場と2場、女1、2、4で出来る冒頭のシーンを、立ってみる。立ち稽古というワケではなく、私が立ち稽古をする場合、こんなふうになりますよと、予め体験してもらって、それからまた読み合わせにもどすというやり方だ。これだと、読み合わせのとき、演技者は自分が立っている姿が何となく想像出来て読める。
例によって「足ッ」の声が飛ぶ。基本姿勢を崩すと損なのだ。カラダが美しくみえないから。「動きながらせりふをいわない」も、基本だ。両方いっぺんに出来るのには、けっこう鍛練が要るということすら、いまのひとは知らない。従って、「ながら」をやると、演技に落ち着きがなく、おぼつかなくなる。
せりふは、テンションの高いところからゆっくり出せ。それぞれに共通のことだ。そこで一気に観客を引っ張ってこないといけない。
さて、今日は友情出演してくれるお姉様たちがやって来る。

2011年7月26日 (火)

SLOFT通信・2

昨日のSLOFTは平日(みなさん、お仕事)の上に、雷の影響で電車が平常に動かなかったりして、出演者諸君の入りも、いつもより遅くなるが、稽古開始前にはお揃い。
戯曲(上演台本)に、さまざまな兵法の太刀筋がト書きで書いてあることもあり、日本刀(もちろん模造)を持ち出して(ナビ・ロヒトにはいろんなものが揃っているのだ)、北辰一刀流正眼の構え、新陰流無想の構え、机龍之介音無しの構え、眠狂四郎円月殺法、なんてのをサービスする。ついでに、佐々木小次郎の長剣の柄が右肩に出ているか、左肩に出ているかを考えてもらう。これは、テレビでも映画でも、間違っていることが多くあるのだ。佐々木小次郎は右利きだから、ついつい右肩に柄を出して、長剣を背負わせてしまうが、ありゃあ、まったく逆だ。柄は左に出ないと、長剣は抜けない。その抜き方も披露してみせる。
女3はまだ不在だが、残りの3人に関しては、三日間で、指導方針をたてる。これくらいの人数だとman-to-manの待機説法はやりやすい。むかしもいまも、なおすべきところは同じなんだなあと、35年を振り返って思う。私は三浦つとむ言語学から出発していることもあって、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」には与しないのだが、方便としていうならば、むかしもいまも、似たような言語ゲームをしているんだなあといえないこともナイ。ダメな部分は、35年前の新人もいまの新人も、申し合わせたように同じ部分なんだもんなあ。
左足の肉離れが痛くて、しばらく自転車で坂の昇降を休止することにした。正座すると筋肉が軋むし、庇いつつびっこひいて歩いている。膝小僧の真裏の筋肉なんだが、南山大学で陸上部のコーチをしているSLOFTproducerのコバヤシにいわせると、その辺りの筋肉は痛めやすいのだという。治療は、冷やして休ませること、だそうだ。

恋愛的演劇論[実践編]・17

筒井康隆さんも戯曲を書いている(けして上手いとはいい難い)。で、稽古場を訪れたときの感想を(というか、やや、愚痴に近いかな)こう漏らしている。「俳優というのは、どういうワケか[役作り]とかを重要視しているんだな。もっと戯曲のコトバの持っている感覚、感性をタイセツにしてもらいたいんだが」。まさにその通りで、なぁんで、演技者というのは「役作り」なんかに懸命になるんだろ。これが近代西欧演劇のもたらした罪なのかユーゲント諸君。しかし、ユーゲント諸君の芝居は、誰がどんな役をやっても同じなんじゃない的芝居だぜ。それはそれでツマンナイだろ。役者にしても観客にしても。これは、「読み合わせ」の段階でもいえることなんだけど、あのね、「役」なんてのは、ぼんやり頭ん中に浮かんでればいいの。そうなのだ。いまひとつの[疎外]は、外界と内界の問題なのだが、ここには「役」というものが大きく関わってくる(と、みんな思い込んでいる)。つまりここでいう「上手く出来ない」というのは、「上手く役が演じられない」と同義なのだ。簡単に演技の構造をみてみる。演技者は台本を手にして、自分の役を振りあてられる。次にその台本と役を読んで、「観念」としての「役」を脳裏に創る(思い浮かべる)。次に舞台に立つときは、演技者はすでにこの「役」で登場する。脳裏に観念としてあったものが、意識的に引っ繰り返されて(表出されて)、外界(表現と)となる。手順をいえばこれだけだ。この場合、内界がそのまま外に出るのではナイ。内界は依然として内界だ。ただ、その「役」というイメージ(像)だけが、外界という実体と「成らざるを得ない」。演技者の「役」という観念の表出が表現されて外界に在るということだ。ところで、演技者Aというニンゲンはこの世界にただ独りしか存在しない。すると、もし演技者Aがハムレットを演じる場合、演技者Aの演じるハムレットは、この世界に一つ在るだけだ。演技者Aは演技者Aのイメージ(像)したハムレットを演じていればいいことになる。何故ならば、ホンモノのハムレットなど存在しないのだから。そうすると、役作りというのは、演技者Aが恣意的に創った「役」でイイことになる。演技者Aはハムレットという「役」を演じるのだが、それは、演技者Aが創ったハムレットというものを演じることだ。(話をワカリヤスクするために演出は勘定に入れていない)。観客は「今日のハムレットはカッコよかったな」という。「何だかミスキャストなんじゃないの。ハムレットらしくなかったもん」ともいう。しかしハムレットというのはあくまでシェイクスピアの虚構であって、実在したワケではナイのだから、ほんとうはそんなことは「いえない」のだ。。つまり、「役作り」というものは、この程度のものだ。けっきょくは台本(戯曲)を如何に上手く演じたかだけが、演技者Aの評価ということになる。かくして、演技の問題、演技上の[疎外]の問題は、演技者と台本との在り方へと移行する。「尼寺へ行けっ」のせりふが如何に良かったか、あるいはヘタだったか、それだけのことになる。結論していえば、「役作り」など殆ど問題にならない(どころか、極論すると「役」なんてのは演技者の単なる「逃げ場」だ)。演技者は、役作りなどよりも、せりふが正しいかどうか(正しいというのは、そのせりふの音声化が自身の納得のいくものであり、演出家を納得させるもの)を訓練したほうがイイ。演技のウマイ・ヘタの99%は、せりふで決まる。アトの1%は演劇の神様が決める。

2011年7月25日 (月)

SLOFT通信・1

SLOFTは二日目。一日目にちょっと読んでもらっての読み合わせで、たいていの若い人たちの実力は了解出来た。いつも演出助手を兼ねて演出の勉強に来ているトヤマが驚くほどに、懇切丁寧な細かいせりふの指導をしている。それが読み合わせというものだ。何故、それが必要かは、[実践編]でも読んで下さい。ちょいと四種類の発声法をやってみせると、みなさん、興味津々となる。鼻音発声、喉音発声、胸声法、頭声法、高校の演劇部ならたぶん100%マチガッテいる滑舌練習などをレクチャーする。何も新しいことはやっていない。正しいことを教えているだけだ。正しいことを教えると、アタリマエのことだが正しく上達する。二日目にして、もうまるで昨日とはチガウ。「減り張り」の意味と由来を教えて(あれは三味線の弦の張り具合からきている)。「そこのコトバは少しハリましょう。少し、メリましょう」というふうに教えるのと「もっとメリハリをつけて」と教えるのでは、雲泥の差があることがワカルだろ。「役作りなんて邪魔になるからやんなくてもイイです。あなたの役は、世界であなた一人なんだから」「あなたがいまいった、あなたの持ってるイメージなんか他人の私にはワカラナイから、とりあえず、あなたのそのイメージで読んで下さい」。長ぜりふも多い。「この長いせりふのここまでは女1に向けて、そこからアトは独白に近く」「ゆっくり始めて加速して、頂点で、cut-outして終わってみて下さい」。一言のせりふもタイセツだ。「箴言、金言、名言、なんてのをいうような感じでやりましょう。もっとお芝居してカッコヨクやってイイんです。お芝居なんですから」。てなふう。こちらも相当のエネルギーを使うが、若いひとは柔軟で、正しく教えれば飲み込むのも早い。少しずつ少しずつ進む。煉瓦を積むように。けして私たちはバベルの塔を築いているのではナイ。万里の長城でもナイ。乙女の塔、オテナの塔を建てているのだ。青き潮の海の底に、深き眠りにつくという紅孔雀の宝をワンピースしているのだ。

恋愛的演劇論[実践編]・16

タネを明かせばこの、わかんなくなったら「クルリと回る」というのは、三木のり平(故人)さんが柄本明さんに語った「当て振り」のやり方を、柄本さんから聞いて、私なりに分析しただけだ。実にユニークで卓見なる演技論だ。演技に困ったら、ちょっとやってみればイイ。とはいえ、あんまりやり過ぎると目を回すので注意が必要だ。
ここで、私が文脈の中で用いる語彙について、ちょいと説明をしておく。なんしろ、出来るだけワカリヤスクやんないといけねえからな。「表出」と「表現」のチガイだが、表出は視覚的、聴覚的、触覚的に如何なるカタチも持っていない。いうなれば「ココロで思っていて、それを外に出したい」という「気持ち」だとしておけばイイ(自然哲学では、この「いい分」を[疎外]として扱うが、ここではそういうムツカシイ扱いは避ける)。「表現」はそれを、視覚的、聴覚的、触覚的なものに「創った」ものだ。つまり「(表)出を(現)したもの」だ。何度もいうが、(ナチスドイツの宣伝省、ゲッペルスは、宣伝の繰り返しが生む効用、効果を説いているけどネ)「気持ち」がすべてすんなり表現できるとは限らない、というより、それは不可能なことだ。しかし、その不可能に挑むところからしか「表現」は始まらない。(この辺りで、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」とは袂を分かつことになる。前期、後期のヴィトくんの言語学は、ある「方便」としては活用出来るのだが、まあ、この話は機会があれば)。ついでに「観念」と「意識」のチガイを述べておくと、ここではたいてい前者を静止的(固定的)なココロの在り方として、後者を運動するココロの作用、情況、認識の在り方として扱う。「「事象」と「現象」。前者は情報になると思ってイイ。後者は情報には出来ない(気温20℃は情報だが、気温ビール美味め、は普遍性に欠けるので正確には情報とはいい難い)事象を含んだものだ。以上おわり。
環境界(イタの上)における演技者の[疎外]は、いうなれば「住み慣れれば」「住めば都」というふうに、そう難しい問題ではナイように思われる。しかし、残された問題はほんとうはひとつのアポリア(難題)だ。たとえば、演技者が自分の演技のうまくいかない理由を何故、自分の責務としてしまうのか。環境界が間違っている場合だってあるじゃないか。間違っているというのが適切でナイのなら、その環境(舞台・セット・美術)に演技者が適応しにくい類だってあるじゃないか。世界的に有名な映画監督、小津安次郎は、ワンカットを撮るのに何十回もカメラを回した。ところが、そのNGを俳優のせいにしなかった。「そこの掛け軸を変えよう」、「机は黒檀のほうがいいかな」「湯飲みがね、気に要らない」「空気が悪い」「お化けが出たような気がする」、もうナンデもアリなんだが、俳優は同じ演技を淡々と繰り返すことになる。もちろん、小津監督のほんとうの狙い目はそこなんだけど。とはいえ、たいていの演劇の稽古の場合、自分の演技が「上手くいかない」と「思い込む」。しかしね、ここで、相手役の演技がヘタだからなんて、イチャモンをいう「大女優」とかよりは、マシなのよ。(この相手役とのことは、またアトで論じる)。ともかく、そういう場合(クルリと回ってもいよいよダメな場合)、演技者は小動物が助けを求めるような目をして、演出家を観る。私は黙っている。だって、演技者は他人だもん。他人のココロやカラダの事情なんかワカルワケナイじゃん。演技者によっては泣く者も出てくる。こういうときは泣けばイイ。前にもいったが、悔しくて泣いたほうがイイのだ。ヘタな芝居をして、「出来ました」って顔をするアホには、「もう一度、ホンを読んでみてください」と、私はいう。人間は、好きになったひとのことを、どれだけ知っているのかワカラナイままでも「愛しています」といえる存在だ。アトから失敗したなと思っても、その時は「愛して」いたという「思い込み」の中にあったんだから(これを「直感」というのだが)仕方がナイ。

2011年7月24日 (日)

恋愛的演劇論[実践編]・15

まず、何故、外界や環境界が内界と「対立」するのか。そういう「関係」にあるのか。こういうことを記述していくと、また難解だということになるので、いまはこういうふうに「思い込んで」もらうしかナイ。外界(身体・カラダ)と内界(ココロ)との関係と、環境界と内界との「関係」は同一ではナイということだ。まったく別々の「関係」を内界は同時に受けることになる。いわれてみればアタリマエのことなんだけどね。つまり口語体でいうと「私は彼が好きなんだけど、彼Bも好きなの」なのだ。どうすればいいかというと、「私」は「彼」か「彼B」を消さなくてはならない(ずっと三角関係でいくってか、そおんなうまいことは出来っこナイの)。すると「私」は「彼」か「彼B」を消す存在であるともいえる。まあ、こんなふうに理解してもらっておけばイイ。
で、だ。具体的にどうすればいいか。「拡張」という方法を用いてみる。パソコンのキーボードにもついてるでしょ。まず空間的な足を活用する。いま足は足裏でイタを踏んで立っている。空中に浮かんでいるか逆立ちしているかしていない限り、そうだ。足からつづくイタの上には舞台美術の大道具でこさえた「場面」がある。これを「場」としよう。よく足場というコトバが使われるが、いま立っている足の場を観念的に拡張していく。どういうことかというと、空間的に足場を拡げていくのだ。24センチの足場を半径1メートル、さらに2メートルと、思い込みの中で拡げていく。何をしているのかというと、舞台全体を足場にしようとしているのだ。もちろん、足裏だけが拡がっていっているのではナイ。内界が外界を拡げていっているのだ。つまり、舞台全体を内界が捉えたところの外界にしてしまう。そうすると、環境界と外界が同じものに(思い込めるように)なる。いうなれば、舞台は演技者の内界が拡張された外界であり、外界が拡張されて環境界となったものだ。「この舞台、すべてが、私なのか」というほどに思い込めればしめたものだ。ヴィトゲンシュタインfanのインテリにサービスしていうと、舞台(世界)が「私」と対応(写像)しているということになる。まるでSFのようだが、演技者は、外界を拡張して環境界を外界と同じものにしているし、かつその外界を内界は対象として捉えている。そのドア、この机、ランプもコップもソファーも、それぞれは区分されているのだが、演技者と同一であるという関係を持つことになる。まだ、よくワカラナイの。あのね、たとえば、野球のバットがあるでしょ。ピッチャーがボールを投げるわな。バットで打つ。ナンデかというと、腕で打つワケにいかないでしょ。つまりバットというのは、腕の拡張なワケ。グローブも同じ、あれは手の拡張。それと同じことを、舞台でやっちゃうのよ。さて、ここまでが、第一段階だ。この段階では、舞台全体が、演技者であるきみの「役」にまで拡張されていると思ってイイ。従って、役と演技者とのあいだの[疎外]は、舞台を打ち消すことによって、どちらかに関係を一つにされたと考えてイイ。彼か彼Bを私は消したのだ。演技というものは、出すだけではダメだ。消すという逆転の発想もいるのだ。しかし、これは手品などの芸を観ているとアタリマエのことだ。手品は、何かを出すか、消すか、どっちかをやってるだけだから。
つまり「クルリと回る(ice skateのようにturnすることではナイ)」というのは、外界をして、環境界に働きかけていることになる。せりふをいいながら、外界(カラダ)を360度ゆっくり回転させてみるとイイ。環境界が違ってみえてくる。それは外界から内界に伝わる。これを外界を軸にしてみると、環境界が360度回転したことになる。何のためにか、環境界の受け入れ方を変えて、[疎外]をみなおしているのだ。

2011年7月23日 (土)

恋愛的演劇論[実践編]・14

『意識は或るものを己れから区別すると同時に関係しもする』(ヘーゲル・『精神現象論』)は何も難しいことをいっているのではナイ。しかし演技者には困った輩が二通り存在する。一つは「脳が鉄のように硬い」もう一つは「脳が海綿のようにスカスカである」。前者は自身の理屈なり信条なりに強い自信(思い込みなんだけど)を持っているために、いくら演技指導しても、自身のスタイルを変えない。これをして頑迷という。後者は、いわずもがな、かつ奇妙な信仰のような、思い違いをしている。これもまた頑迷という。
順を追って解説していく。『意識は』というのは、演技者自身の意識であり、演技者の内界にあるもので、環境界にあるものではナイ。だから「私は」といいなおしてもイイものだ。ここで、海綿スカスカの中には、「いや、そんなことはナイ、宇宙にも意識というものがあって・・・」こういうのには、付き合えない。『或るものを』というのは任意のものでイイ。物であっても、ヒト(他者)でもイイ。『己れから区別する』、私とあんたはチガウ、私はコップやグラスではナイ、だ。「いやそんなことはナイ、ヒトを差別してはいけない」が前者。「現実と虚構は混じり合うのよ」が後者。どっちとも一緒の空気を吸うのはゴメンだ。『同時に』、たいせつなのはこの部分だ。これは同時刻にという時間的なことをいっているのではなく、『区別しながらも』と並行して、同等にという意味だ。『関係しもする』はそのとおりのことなのだが、現代口語体にいいなおしてみせると「私は彼とは別人だけど、恋人どうしなの、うふ」こんだけだ。さて、ここからが、「恋愛的演劇論」の新コック長はシェフ、否、真骨頂だ。「私」と「彼(彼女)」とは恋人どうしなのだが、いつも仲がいいとは限らない。いわゆる痴話ゲンカというのもある。これは「私」と「彼(彼女)」との「対立」だ(ワカリヤスイように説明しているので、そういうことにしておくが、弁証法において対立というのは必ずしも敵対のことではナイ)。なぜ「対立」が起こるのか。例えていえば、「彼(彼女)」が「私」の「思い通りにならない
」というのが、根本的なことだ。関係している或るものが己れの思い通りになれば、そういう関係であれば、何も問題はナイ。「もう、ワガママなんだから」でプイっとなるとか、「いったい何を考えてんのかワカラナイよ」が対立だ。ところで、生きている限り(死んだことがナイので、そうとしかいえないが)、相手や世間や(自分が)「思い通りになる」などということは、まず、ナイ。「私、死ぬのはイヤ」といったって、人間は死ぬ。「もっと美人に生まれたかった」といったって・・・もうどうでもイイが、演劇に急転直下もどすと、演技者は、先程の二通りの人種以外は、自分の演じるという営為が「思い通りにならない」ために思いの外、苦心惨憺、苦吟、苦闘する。だから「演技」というものが捻出されてきたのだ。「演じる」ことと「演技」とのチガイはここにある。その演技を以てしても、思い通りにはいかない。これは、外界、環境界が、内界の表出からの表現と「対立」するようになっているからだ。これを自然哲学では[疎外]という。劇作家はいいたいことがいいたいように書けるワケではナイ。コトバというものは、ココロにあるものをうまく外に表現してくれるものではナイ。演技者もまた、「役」をこう演じたいのだが、そうは紺屋が卸さない、問屋の白袴、なのだ。しかし、そこで留まっていては演技にはならない。満点とはいかないまでも、納得というところまでいく方法があるはずだ。たとえば、困ったら「クルリと回ればイイ」。[疎外]が外界、環境界からの「対立」であるのなら、内界をなんとかするよりも、外界や環境界をなんとかしたほうがイイのはいうまでもナイ。そこで、クルリと回る、のだ。

2011年7月22日 (金)

映画評・『一枚のハガキ』

没し者生き残る者分かつのをついに籤運『一枚のハガキ』
演技とは虚構にあらず天分と謳うがごとく大竹しのぶは

新藤兼人監督99歳です。『一枚のハガキ』れっきとした反戦映画です。しかし、戦没者は「運が悪かったのだ」といっているふうにも観ることが出来ます。100人のうち94人の兵士が死に、終戦、生き残った6人のうちの一人、松山(豊川悦史)は、戦死した戦友の妻、森川トモコ(大竹しのぶ)にその妻が戦友に充てて出したハガキを届けに行きます。ストーリーは始まった当初からもうみえています。脚本もざっとせりふを書いただけのようで、特に工夫はありません。転換(カタストロフ)があるのは、ラスト近くのワンプロットだけです。それもとくにどうしたというものではありません。
もし、新藤兼人という監督の名前を公表しなかったら、これは20代の才能のある感性豊かな監督が撮ったものと思ってしまうでしょう。そういう拙さまでを演出しています。
ほんとうは「運が悪かったのだ」といっているのではありません。そうとしか、怨嗟の持っていきようがナイのが戦争だといっているのです。
二人芝居で宮城、仙台に行ったとき、いたるところに「がんばろう東北」「がんばろう東日本」という貼り紙がありました。私はそれをみて「運が悪かったな東北」「運が悪かったな東日本」と書き直したくなりました。不埒にも。何だかワカラナイ憤りを感じたからです。映画はのっけから、笑ってしまうのです。ギャグとかコントの類ではありません。農家が出征兵士を送り出すシーンが遠くから全景撮影されているだけです。それが、意味もなく可笑しいのです。戦争は悲劇などではナイ、無意味な喜劇だ、とでもいっているようです。新藤兼人監督の作品は幾つか観ましたが、私にはこれが最高傑作のように思えました。99歳にして、この若々しい感性、開かれた、風通しのイイ技法には、ただただ驚愕するばかりです。大竹しのぶさんは「上手い」というより「凄い」としかいいようはありません。私は、大竹しのぶさんのことを、この映画で始めて美人だと思いました。

恋愛的演劇論[実践]編・13

幾ら強固な導線を決め、厳命に立ち位置を決めようと、演技者が生きているものである限り、演技者が導線や立ち位置によってがんじがらめになるということはナイ(はずだ)。演技者はごく柔軟にそれを破ってくる(はずだ)。というよりも、演技者はよほどの逸脱がナイ限り、自身で導線を決め、立ち位置を決められるようになる。演出家はそれを認めるべきだし、ほんの少しの調整を施せばいいようになる。芝居はパッケージ旅行ではナイし、ワンプレートランチでもナイ。演劇は義務教育ではない。情操教育などという名前だけご立派なバッタもんでもナイ。その逆にバラケツや与太者やチンピラのやる、虚仮威しでもナイ。
演技者1が独白している場合、あるいは1と2がせりふのやりとりをしている場合、その他のその場にいる演技者は何をしていればいいのか。これは、よく質問されることだ。そういうときはただ黙ってそのせりふを聞いて(いるふりでもして)いればイイ。同時進行で二組の演技者のせりふが交差する芝居が常識になっているらしい。理由は、日常ではよくあることだからだそうだが、繰り返しいうが演劇は日常ではナイ。舞台に日常空間が創られようと、それは日常をお芝居しているだけで、似非日常でしかナイ。したがって、舞台の上で、日常のように大小便は出来ない。アタリマエのことだ。観客は、たぶん私などの場合は、どちらのせりふも聞いていないと思う。だいたい劇作家がタイセツなせりふをそういうカタチで扱うワケがナイからだ。そういう場面は映画などでよくある群衆シーンだと思ってスルーすればイイと私は思っている。
「動き」について、つづける。その前に、一つ二つ、お約束ごとをしておく。今後、文章の中に次の三つのコトバが度々登場する。「内界」「外界」「環境界」。それぞれについて説明しておく。「内界、とはココロの世界、状態、領域、心象をいう」「外界とは、身体(カラダ)そのもの、筋肉、内臓、視力、聴力、嗅覚、神経系統、その延長、拡張されたもの、形象をいう」「環境界とは、いわずと知れた、あんさん方をとりまく世界、自然環境のことだ。自らに外から対峙するもの、外から影響を与えるもの、外から自身に関係するものをいう」もう一つ、コトバ(せりふ)の「二重化」についていうと、ここにグラスがある、というのは、誰にとっても「グラス」だという「意味」を持っている、が、そのグラスが、誕生日にプレゼントされたバカラのグラスであるとすれば、所有者とっては「価値」を持っていることになる。もちろん、それは所有者の「思い込み」だ。しかし「思い込み」つまり虚構ににせよ、せりふにはそのように「現実(意味)」と「虚構(価値)」のコトバの「二重化」が存在する。(これは、ずいぶん前に少し触れたことだ。ついこないだも、いうたんやけどな)
で、つづき、だ。演技者がイタ(稽古場にせよ、本番のステージにせよ、演劇の舞台として用いられる場を「イタ」と表す。「板付き」というのは、演劇用語で、舞台が明るくなる前にすでにイタの上に在ることだ)に立った場合、せりふの不自然さを感じることは前回述べた。で、その対処法も述べたが、あくまでそれは対処法であって本質的なことを論述したのではナイ。本質的なことは、少々難しいのだ。ヘーゲル、マルクスと順序だって論じている余裕と学問が私にあれば、懇切丁寧に乳を揉んでやるのだが、生憎(あいにくと読む)そこまでの学問はナイ。そこで、こういう命題(主語と述語のある文章)を思い出してもらいたい。『意識は或るものを己れから区別すると同時に関係しもする』(ヘーゲル・『精神現象論』)。難しいと思うが、ここをクリア出来れば、ヘーゲルの(弁証法の)たいていは感知出来る。そうして、これは、演技においても、その困難さが何処からやってくるのかを解説するのに、充分適している。

2011年7月21日 (木)

阿修羅のごとく

いよいよ23日からSLOFTの稽古が始まります。演目を稽古しながら、演技指導のレクチャーを行います。28人の応募があり、たしか24人の座員が集まったと記憶していますが、work1(第一回公演)の出演者以外に、どれだけ座員が訪れるか、それは縁と運です。
ブログでは、『恋愛的演劇論』の実践編が続いています。35年の演劇稼業を通しての、書き残しておきたいものは、生きているあいだに書き続けるつもりです。つまり遺書、遺稿のようなもんです。一本書くのに、何冊かむかしに読んだ本や、新たな書籍をひもといての、まるで、論文を書いているような気分です。
1年になるか2年になるか5年続くか、これも縁と運。成るようにしかなりません。
徒労だという気はまったくありません。いずれ、誰かがこの地層に、学究の痕跡を発見してくれる考古学を信じて。阿修羅のごとく。

恋愛的演劇論[実践編]・12

せりふというのは漢字で書くと台詞か科白だが、どちらも当て字だ。前者が「読み」後者が「動きを伴う」というふうに、いちおうコード化はされている(コード化というのはcode、もともとはコンピュータ用語でプログラムに使われる機械用語のことだ。簡単にいえばルールと同義で、野球のルールとサッカーのルールがチガウように、同じものは同じに、チガウものはチガウものとして分類して規定することだ)。で、語源は諸説あって、そんなものはどうでもイイ。立ち稽古になり、台本を持ちながらも、一部離しながらも、演技者は次に「動く」という演技に入る。ここでアホはよく間違えるのだが、「動く」こと自体には何の意味もナイ。意味が生じてくるのは「動き」による「作用」によってだ。時計の振り子が動くのは、単純な往復運動だが、それが時を刻むという作用を生じるから意味があるのだ。ダンスも同じだ。ダンスに「振り付け」があるのは、動きに意味を与えるためだ(正確には、価値も生じてこないと表現にはならない)。エネルギーとは波動の振動数をいう。ある量子のエネルギーの値は、その量子の振動数のことだ。多いほどエネルギーの値は高い。しかし、ここでまたアホは間違える。激しく動くことがエネルギッシュだと勘違いしてしまう。エネルギーには、もう一つ、ポテンシャル(位置)エネルギーというものがある。囲碁を知っているものには説明しやすいのだが、碁盤に置く石は、対戦者必ず一個ずつ、順に置く。しかし、この石一個の位置が、盤面に与える影響は大きい。碁石は置いたら動かすことは出来ない。従って、碁石のエネルギーはポテンシャル(位置)のエネルギーだといえる(将棋はそれに比すると、振動エネルギーに近いのかも知れない。将棋を知らないので詳しくはいえないが)。さらにE=MCの2乗という、有名なアインシュタインのエネルギー方程式がある。つまり、重さのエネルギーだ。これは、囲碁でいう一個の石の位置が占める重さ、というところから、ホテンシャル・エネルギーに変換しても構わない(と思う)。エネルギーについては、もう一つ、向きというものがある。エネルギーがどっちを向いているか、どこに向かっているかだ。いわゆるベクトルというものだ。ベクトルはエネルギーの動きの方向を現している。すると、それによって生ずる作用を考えることが出来る。演技者は、たとえ動かないでじっと立っていたとしても、その向き(ベクトル)によって、エネルギーの方向を持っていることになる。演技者1が2の方向を向いているとき、1のエネルギーは2に向かっているのが常識だが、そのせりふによってまったく別方向の3に向かっているという場合もある。ようするに、その作用次第なのだ。あるいは、ミステリによく出てくるラストのクライマックス。「名探偵、みんな集めて、さてといい」という犯人を指名するシーンなどは、名探偵の演技者のエネルギーは、集められた者すべてに向かっている。
たいていの演技者は、当初、せりふに動きをつけていこうとする。何故なら、そのほうがせりふがいいやすいからだ。赤毛ものなら(って、古いなあ。アチャラカにするか。それも古いし、喜劇と思われてもなあ。アチャラカというのは喜劇のことじゃナイ。アッチの[外国の]という意味だ)それでもイイが、動きは最小限に留めたほうがイイ。何故ならヘタがバレないからだ。立っていてダメな演技者は動いても所詮、ダメなのだ。
演技者は立ち、動き、せりふをいう。演技者はどうしても、自分の思ったとおり(イメージに則した)せりふが出ないと苦吟する。焦燥する。そういうときは演出家は(とりあえず)こういうべきだ。「芝居というものは、観客に声を届けるため、声の張りが強く、大きくなります。それは不自然に自分にも聞こえます。声の張りを抑え(これを減りといって、二つ足して[メリハリ]という。語源は、三味線の糸の張り具合からきている)小さくしていって構いません。そこで、不自然でナイものをまず掴んでみなさい」

2011年7月20日 (水)

悼む

名優は風とともに去りにしまた逢う日まで原田芳雄よ

名優も、名監督も、みいんな、あっち逝っちゃって、あっちじゃ、すげえ映画撮ってんだろうなあ。おれも早く観にいきたいね。
原田芳雄さま、私の人生に、まったくチガウ青春のあることと、とかく男の生きるということは、力まず、選ばず、欲張らず、いいたいことはちゃんといえ、と、教えてくれた、同時代の最も力強かった虚構と実像に感謝。

恋愛的演劇論[実践編]・11

少し実験してみるとイイ。まず、ふつうのstanceで立つ。そのまま右足に重心を移して、カラダを少し傾けてみる。右前方に、左、左前方に、と、重心と傾きを変えていく。このとき、後方にカラダを傾けてみる。よろめく。前方では堪えられたのに、後方に傾けた場合は、よろめくのだ。奇妙なことのように思えるか、アタリマエに思えるか、それは知らない。いえることは、人間というカタチは、後方に傾けるようには出来ていないということだ。のけ反ったといっても、上半身だ。屈み込むことは出来るが、後方にそういう真似が出来るのは、中国雑技団の少女だけだ。あれは見せ物だが、演劇はそういう意味の見せ物ではナイ。前向きに倒れそうになる場合、手をつくことが出来るが、後方の場合は尻餅をつくことになる。よく丹田(臍の下あたり)に重心をもっていってバランスをとると腰が座るなどというが、ありゃあ、かなり眉唾だ。いくら丹田に重心をもっていっても、後方には倒れる。後方に倒れないようにするには、左右何れかの足を後方に引かねばならない。そのとき、前回述べたように、引いたほうの手が伴って、やや下がる。バランスをとるというのは、こういうことだ。どういうことだって。あのな、重心というのは位置が変わるということだ。ワカッタか。というよりも、重心(中心でもいいが)をカラダの何処にも置かない、中心をとらない(決めない)ほうがイイ。何処かを中心(重心)に定めると、そこが崩れると、カラダは崩れる。カラダの何処にも、中心を持たない。重心を置かない。重心(中心)を「点」ではなく「線」と考えてみる(これは後述する)。どうやって。そんなものは、そう「思い込む」しかナイ。「思い込み(ドクサ)」と「イメージ」とはチガウ。イメージは漠然としていても「像」だ。例えば「彼女はオレのことが好きなはずだ」と事実はどうあれ「思い込む」ことは出来る。それは「像」ではナイ。しかし、彼女の下着姿を思い浮かべれば(イメージすれば)それは「像」だ、ということだ。
また新陰流の話になるが(だいたい演劇はカラダとココロを使うので、兵法の譬えが用いやすいのだ)、その基本に「正中線」というものがある。これは、カラダの中心を通る線という意味ではナイ。新陰流にも中心という概念はナイ。中心の代わり(というしかナイのだが)に、カラダを支える一本の線だ。この線はリニアだ。直線だ。曲線ではナイ。カーブしていない。これも「思い込む」しかナイのだが、頭上から身体を貫く、一本の直線と考える。とくに頭頂から足裏に抜けるワケでもナイ。カラダを真っ直ぐにしようが、傾けようが、横になろうが、常にカラダを貫通する直線だ。この直線に従ってバランスをとる(と、「思い込む」)。兵法者(剣術使い)が試合(勝負)する場合、間合いが詰まって、双方が斬り込める位置になったとき、このとき、後ずさりすることは命取りになりかねない。間合いを外すためなのだが、隙をつくるからだ。隙をつくるということを具体的にいうと、カラダのバランスが崩れる(もちろん、微妙にだが)ことを意味している。そこで「正中線」だ。「正中線」を維持したまま、下がる。隙が出来ない。真剣という刃物は、時代劇では、やたらと適当に斬っちゃうが、ほんとうは切っ先三~五寸までが切れる部分になっている。アトの部分は防御に用いる。抜き胴も、刀の中央で斬るのではナイ。やはり切っ先で斬る。
「正中線」は、自分で発見するしかない。人それぞれチガウからだ。「思い込み」だが方法はある。カラダをさまざまに動かしてみて、どのような姿勢(カタチ)でも「せりふがいえる」ところを捜すことだ。もし、近所にそういうところがあるのなら、あの腕だけで絶壁を登るゲームは、絶好の鍛練法だ。あれは腕の力で登っているようにみえるが、ほんとうはそうではナイ。カラダのバランスの正しさ「正中線」の維持に依っている。

2011年7月19日 (火)

黄昏に還る

なんかねえ、またやっちゃったかなって、まあ、反省みたいなことはしてんですがね。白水社が、月1で『出版ダイジェスト』ての送ってくれるのよ。送ってくれるから、一応読みます。律儀なんです。で、55回岸田賞、松井周、知らんですよ。ここ10年、岸田賞を誰が受賞してんのか知らんです。当然松井周さん、知りません。ところがタイトルがですね、[「虚構」と「現実」の世界で]でやんしょ。読んじゃいますよねえ。で、四段あるうちの二段目途中で、あれえ、こいつ、いやこのひと、何だか青年団みたいなこといってる、アトでネットで履歴を検索しようっと、思ったら、末尾に略歴があって、何だ、やっぱり青年団か。青年団を仇(敵)にしてるワケじゃナイですよ。ただね、書かれてあることが、生理的にダメなの。それと、もっともらしいんだけど、この理論はダメだってことくらいはワカルの。どういうワケだか知らないですけどね、青年団ってのはやってる芝居が日常的(現代口語演劇)situationだからなのか、日常ってのは(現実てのは)あんなふうなんだと「摺り合わせ」が出来てんのかな。
私は唐さんの「特権的肉体論」の赤テント育ちですから、日本における近代演劇が西洋演劇の輸入と翻訳にウェイトを置いて始まったものかどうか、そんなこたあどうでもいいと思っている人種だし、つまり、河原ものから歌舞伎への水脈がアジア的な演劇としていまなお続いているとかんがえているほうだしね、戯曲の創作が西洋的な論理に則って行われてきたなんてことは考えたこともナイの。日本演劇が、日本語を離れた無理のある文体、口調と論理構成によって行われ、またそれにリアリティを持たせるための俳優の演技も歪んだ形になっていった、といわれてもですね、唐さんの文体というのは、まさにそれだからね。けどね、最盛期の唐さんの戯曲は、まさにシェイクスピアなんですよ。私は、継承したいと思ってます。私なりのシェーマ(スキームともいう、枠組みとか、括りという意味、似たものにcodeがある。こちらは、コンピュータ用語で、情報の記号化、砕いていえば、ある分類における規約や法則)でですけどね。いま、演劇の業界にいないのは「特権的肉体」(これは肉体的特権ではナイ。いわば舞台に降り立つことの出来る、特権を有した肉体、リアリティもへったくれもナイ、歪んだ肉体でもいいの)。唐さん、いってますね。演劇の極意は「懐手してひとを斬る」ことだって。そういう役者(演技者)創りたいですねえ、SLOFTでは。

頽廃五衰

この『恋愛的演劇論』は、「現実」と「虚構」を考えるところから始まっている。その本質的な課題に答えていかねばならないのは承知している。いまのところ、それをかなり迂回していると考えてもらってけっこうだ。焦ることなく、いけるところまではいくつもりだ。ところで、白水社の『出版ダイジェスト』で、55回岸田賞受賞者の松井周氏が、『「虚構」と「現実」の世界で』という巻頭文を書いている。間違っているなどとだいそれたことはいえないが、(というのも、松井氏の戯曲も舞台も知らんけん)ただ、私とは考えがチガウというところだけは、行きがかり上、述べておくことにする。
松井氏の論は、まず此度の震災にコトバを寄せ、それに対して「演劇は如何に有効か」という問題をたて、結論として「演劇力を味わうイベントをすこしずつ仕掛けていきたい」と結んでいる。論理を追っていく。「演劇の効果として、演劇作品を味わうことによって、観客が身体や精神に溜まった凝りをほぐす」とある。私などのように観劇がストレスになって、途中退場する者にとっては、松井作品がほんとにそうなら、アリガタイことだ。(観ていないので、それ以上の追求はしない)。松井氏は演劇を[「現実」と「虚構」の混ざり合った、「間」の表現と考える]。この「間」というのは「現実」と「虚構」との「中間」のことをいうのなら、「夢現(ゆめうつつ)」ということになる。しかし、演劇は「夢現」ではナイ。単に「虚構」だ。演技者のカラダが生身のものであることは、まったく「現実」とは関係ナイ。演技者は舞台に降り立ったとき、役に転じたとき、すでに「現実」の者ではナイ。「虚構」の者だ。「観客は作品を味わいながら、自分の中の妄想や偏見の飼い馴らし方を考えたり、日常生活への適応の仕方などを準備し、ぼんやりできるという演劇の在り方」が「間」であるという論理になっているのだが、そういう観客もいるかも知れないとしかいいようはナイ。「観客は独りになることもできるし、皆と笑うことも出来る」ので「劇場」は「集会場の機能もある」にいたっては、どうしても師匠(平田オリザ)の提唱するcommunicationに演劇を設置させたいのだなと思うしかナイ。ただし、ここからは、まったく私とは考え方がチガウ。人間には「現実」と「虚構」とが混ざりあった経験があり、たとえば雲の形をみて人の顔を思い浮かべたり、幽霊を怖がったり、神様を信じたり、運命を呪ってみたり、そういう作業をしているところから、「現実」を「虚構」化してしまうフィルターのようなものだと、根拠を提示し、「人間はいつだって演劇的だ」という人間の持つ観念の存在を、「現実」と「虚構」とを混ぜ合わせ二重化する「演劇力」と規定する。この「演劇力」を楽しむのが「演劇」だというのがだいたいの論旨だ。そのイベントをもっとも簡単に行えるのが、「コスプレ」だとしている。他人の趣味に口は挟まないが、幽霊を怖がったり、神様を信じたり、運命を恨んだりすることは、たいていの人間にもあることで、それは「演劇」の「虚構」とはまったくチガウ、人間の持っている自然過程としての「観念」あるいはスピリチャルな作用だ。また、「現実」と「虚構」を混ぜ合わせることを二重化というふうには、私は考えない。そんなもの混ぜ合わせられるワケがナイからだ。私のいう二重化とは、「現実」として存在しているのに関わらず「虚構」としても存在している事象、現象、コトバをいう。「あいつ殺したいな」ということを私たちは思うだけなら(観念の中だけの作用でなら)いくらでも出来る。しかし、実際に人を殺して、これは私が混ぜ合わせたものです、とはいえないのと同じように、演劇における「虚構」は、その端緒がinspirationであっても、独りのドクサであっても、そういう心的表出を「表現」したものだ。運命を呪うだけでは表現にはならない。演劇としての「虚構」にはならない。また、表現は「現実」と「虚構」を混ぜ合わせたものでもナイ。演劇における「虚構」は意識過程としての「表現」だからだ。その表現(味わい方)が「机とかタンスとかに衣装を被せてその一生を思い」「鑑賞した後でそれを燃やす」というのには、私は表現というよりも一種のceremony、黒弥撤に近い儀式的なものを感じる。寺山さんの場合には、それは「現実」に対する、scandalで不敵な挑発であったが、松井氏のその「演劇力」の味わい方には、頽廃五衰の生理的な気色の悪い嘔吐感を持つ以外、何もナイ。

恋愛的演劇論[実践編]・10

「立つ(直立二足歩行)」を「意識(稽古のときのように人目に晒して観られる)」したときに、何故、不安や、卑近にいえば手持ち無沙汰を感じるのか。(もちろん、感じない演技者もいる。こういうのは初心者や、間違った訓練を受けた者に多い。こういうのは面倒臭いほど手に負えない族で、将来性はナイので、即刻、演技者の道は断念したほうがイイ)それは、人類が同様に直立二足歩行を始めたときの遺伝子の記憶に因る。エラク大袈裟なではナイ。私たちが爪先立ちをするのも、誰に教えられたものではナイ。あれすら、遺伝子の記憶なのだ。演技者はただ、立てばイイというものではナイ。安定した立ち方をしなければならない。伝統芸能(主に能狂言)というものが、まず、立ち方、歩行から鍛練を始めるのはそのためだ。
具体的に話をすすめる。まず、足はほぼ肩幅にstanceをとる。この辺は、自身が安定感を覚える感じでイイので、土俵入の四股みたいにならなければ、適当で構わない。ここからが日常とチガウ。歩くときは別にして、身構えるとき、いわゆるpotential(立ち位置を大きく動かず変えるとき)な立ち居(姿勢)をとるときは、右足が出れば右手、左手が出れば左手を同様に少し同方向に持っていく。いわゆる「なんば歩き」のカタチだ。ほんの少しの場合でも、やや動きの大きい場合でも、そういう姿勢をとる。実際にやってみればワカルはずだが、そのほうが安定感を与える。誰にか、自身と、観ている者にだ。ワカラナイときは逆にやってみて、その差異から、了解していく。これを延長すると、右半身を前に出すときは、右手右足が、左半身を前に出すときは、左手左足がついて出ることになる。何故そのほうがイイのか、そうなるのか、これも(日本土人としての)遺伝子の記憶としかいいようがナイ。古来、縄文の昔(その以前から)から、日本土人はそういう姿勢で動いてきたのだ。(動物でいうと、猫の歩行がこれに近い)。歩く場合もこの延長がイイのだが、歩く場合はなるべく足の動きに手の動きをつけない。つまり、足には足、手には手の役目というのが演技にはあるのだ。いい方を変えれば、足は足で演技し、手は手で演技するということだ。この場合、少々難しくいうと、足は「時間」を手は「空間」を担う。狂言において、「では参ろう」と、移動して「おう、もう着いた」はほんの数歩だ。これは足が空間を移動したのではなく、時間を経たという約束事をはたしていることになる。手で「これくらいの魚」と示すとき、それは魚の空間的な大きさを示している。指先である方向を示して「あそこを観ろ」というときも同様だ。方向は空間性だからだ。早足で歩く、というのは急いでいるのだから時間性だ。
この「立ち方」は、ついつい崩れる。忘れちゃうからだ。だから、ビギナーやヘタを相手に演出とやらをするとき、私の口から出るコトバはたいていが「足ッ」になる。もちろん無造作に導線を移動する演技者に対しても「足ッ」だ。最初、演技者はナニをいわれているのかワカラナイ。ただ、私は威圧しているのでもなければ、権力を行使しているのでもナイ。「足ッ」と何度もいわれれば、演技者は、いやでも足に何かあるのかと意識するようになる。つまり「考える」。稽古というのはそういうものだ。演劇は義務教育ではナイのだから、自らが考えて出してきて納得したことでナイと身につかない。そういうのがイヤなら仲良し芝居ごっこをやっていればイイのだ。communicationがどうの、観客と一緒に演劇を楽しむなどというカタチでの演劇の肯定の仕方とは当方は無縁だ。演劇は惜しみなく奪うが、惜しみなく与える。武芸において「勝負」とは生きるか死ぬかということだ。演劇という技芸においても、終演後の美味いビールを一杯飲むための根底には、そういう死生観が在る。これは、文学、音楽、書道、絵画、などに於いても同じことだ。

2011年7月18日 (月)

恋愛的演劇論[実践編]・9

立ち稽古だから、立たねばならない。このとき台本を持ってもいいのか、あるいはせりふをおぼえていなければならないのかは、演出家によっていろいろだが、私の場合はその演技者の自由にやってもらう。偉い演出家になると丸暗記しているのがふつうなのだそうだが、私は偉い演出家ではナイし、アホでもナイ。ただ、その演技者にとって自然に入っていくせりふの入れ方が最もヨシと、考えているだけだ。ここぞと勇んで、丸暗記してくる演技者も中にはいるが、途中で台本を持たざるを得なくなる。それは、私が次々とせりふを変えていくからではナイ。逆に何にもいわれないので、不安になって、台本にもどるということになるからだ。SLOFTは、演技指導を重要視するので、いろいろとレクチャーをしながら稽古するつもりだが、普通たいてい私は何にもいわない。ダメだしをしないので有名なのは深津篤史(彼は巨根でも有名)だが、私の場合、『転位21』の山崎哲氏が、マスコミ取材でキビシイ演出をすることを指摘されて、「冗談じゃナイ、いちばんキツイのは北村想だ。あいつは何にもいわないんだから」といった逸話まである。もうひとつ逸話をあげると、うちの劇団員が、別のauditionに行ったとき、審査員から受験者にひとりひとり「いままで、演出家にいわれてキツかったダメは何ですか」という質問があった。他の受験者は「滑舌が悪い」とか「歩き方が」とか、答えたのに対してうちの劇団員は「キツイのは何にもいわれないことです」と答えて合格したことだ。私は演技者が何をやるかを観ているので、「摺り合わせ」もへったくれもナイ。例えばプロ野球の試合を観てみろ、森野が空振りしたからといって、いちいち落合監督が森野にアドバイスしにいくか?・・・「この芝居はこういうふうに創ります」もナイ。そんなものワカルわけナイし、どんなものなるのか観ていたほうがオモシロイからだ。どういうふうな芝居になるかは、全てホンに書いてある。とはいえまったく何もいわないワケではナイ。演技者が「こういうふうにやっていいですか」といって実際やった演技には、ちゃんと応える。それから導線と立ち位置の位相だけは指示しておく。そこで、私はココロの中でこういうのだ「さあ、演技者諸君、存分にやってみせてくれ」
さて、つづきになるが、そういうワケで台本は、手に持ちやすい形状にプリントしなおして、演技者個々に製本してくるという風景になる。演技のマズイところは必ず台本にもどって台本を改稿する。演技のよくなるまで改稿する。完璧な戯曲は「書かれた劇」として存在する。しかし、それが完璧な台本であるとは限らない。ここで、多くのアホたちは、戯曲というのは、稽古に使うプロセスとしてのアイテムだと判断してしまうことだ。こういアホはいっぱいみてきた。また、話し合いながら台本を創るので、最初は台本ナシというのも観てきた。成功例は劇団『青い鳥』だけだ。誤解しないで頂きたい。それがイケナイといっているのではナイ。話し合いで創ろうが、最初からアリモノでやろうが、そんなものはことさら重要視することではナイ。要するに舞台の結果が全てだということだ。
立つとワカルことだが、邪魔になるモノがある。「足」だ。立たせている「足」が邪魔になる。邪魔というのを別のコトバでいえば、立っていることが不安になる。だから、何でもいいから小道具(鞄とかステッキとか)を持ちたがるアホがいる。さらに立たせてみると、その演技者の実力はたいていワカル。「足が地についていない」とはよくいったものだ。経験の浅いもの、beginner、これらは、「現実-日常」の立ち方で立っているので、イタ(舞台-稽古場)につくと足がおぼつかない。落語が足を切ったのは、合理的英断だと思われる。この立ち方には(動き方にもだが)ちっとした工夫がいる。ほんとうは、classic balletの基本がやれればいいのだが、そう悠長なこともいってられない。ともかく、立つということは難しいことだということを経験してもらう。

勝ちに不思議あり

おめでとう俺も泣いたぜ撫子ジャパン

前半戦0-0でいい闘いだなあ、しかし、なんとまあ、小粒なことだろう。それにいっちゃあ悪いが、このイレブンのお嬢さんは顔が違う。いまの娘さんたちと違って、そうだなあ、むかし、上野駅に集団就職で出てきた若いひとにどこか面影が似ている。

1-0で、ああ、こりゃイカン、もう寝よう。私が起きてて観てたら負けそうな気がする。

朝、ネットにデッカイ写真。優勝カップを持った撫子たちの写真。勝ったんだ。

昨夕、加藤泰監督の『明治侠客伝・三代目襲名』観て泣いてたから、涙腺ゆるんでたんですねえ。朝からまた涙ぐんでしまいました。

秋までは生きてみるべき撫子の花

まだ夏の盛りだというのに、秋の七草が咲きましたね。

撫子もなき独りの身となれど淡紅色の秋と思えば

2011年7月17日 (日)

恋愛的演劇論[実践編]・8

私の場合、「読み合わせ」というのは、私の位置から観ると戯曲を演出して上演台本を創り上げていく作業になる。このあたりを拡張すると、故人のつかこうへい氏と似たようなものになる。つかさんは口伝(くちだ)てで稽古をしたことで知られているが、まったく底本がなかったというワケではナイ。その「役」を演ずる演技者に対峙して、演技者固有のせりふを牽き出していく方法だ。つかさんが、多種多様の演技者を使いながらも、多くの戯曲を書かなかったのは、そういう理由による。つかさんにすれば、一曲の戯曲を演技者を変えるという方法によって、チガウ演技、演出の舞台にしたことになる。
ところで、演劇というのは「馬鹿馬鹿しい」ものだと述べたが、そもそも、私たちは演劇を営むことによって、何を成そうとしているのだろうか。ここでも、多くの夢のある読者諸氏、演技者諸氏を失望させることをいってしまわねばならないのだが、要するに演劇というのは、自らと観客とを「誑(たぶら)かす」営為なのだ。狐狸の類がひとを化かすように、自身と観客とを化かす(誑かす)のだ。誑かすのは畑にまく油粕と似ているが何の関係もナイ。誑かすこと、これはヒジョーにオモシロイことだ。そもそも、「芸」なんてのは、手品にしても、武芸にしても、そのようももんだ。武芸というのは、さまざまな武術や兵法(ひょうほうと読む、へいほうではナイ。ヘイホーヘイホーなら、白雪姫の七人の小人だ、ヘイヘイホーなら『与作』だ)を総称したものだと解していればイイ。(剣法というのは当時用いられていない、兵法と称されている)。それとて、如何にして敵(相手)を誑かすかということに尽きる。新陰流における「後の先(ごのせん)」がそのいい例だ。ただし、何によって誑かすのかというと、これが「虚構」で、ということになる。「現実」でひとを誑かすのは、政府や政治家だ。こいつらは、もうこの国には不必要なものだ。原発は要らんとか、脱原発とかいう前に、なんで、政府や政治家は要らん、脱政府、不要政治家と、いえないんだ、原発という科学に罪をなすりつけ、ヨウ素やセシウムという元素に罪をなすりつけ、そんなものに罪などありゃしない。まったくフザケテいるのだ。「誑かす」というのは楽屋で煙草をスパスパやりながら「ねえ、弁当まだなのぉ」といいながら、舞台に上がると「私の命で良かったら、使い棄てにしてください」なんてことがいえる、この愉快さだ。こんなことをやってたら、罰でもアタルだろうか。いや、不思議なことに、これは私の40年の経験からいえることなのだが(したがって個人差があります)罰どころか、舞台で神と遭遇、邂逅することもある。それが神なのかどうか、確かめる手だてはナイ。ナイのだが、「あれ、いまのは」と、不信心な私でもそう思うことが、そういう瞬間があるのだ。心配するな、熱中症で頭が変になっているのではナイ。どういうふうに邂逅、遭遇するのかというと、それは心的な経験なので、こうだとはいえない。で、出逢ったとて、何がどう変わるものでもナイ。新興宗教を起こす気にもなれん。たぶん、「神がかる」とはこういうことだなとは、そのとき、ふっと思う。
「誑かす」というオモシロサをおぼえたら、芝居(に対する姿勢・演技)も変わってくるはずだ。ここで、傲慢不遜になると、また間違える。ここは、冷静沈着、謙虚謙遜、自戒を以て、なんだかお説教みたいになってきたな、しかし、そういう輩が多いのよ。何かちょいとひとつ認められたり、マスコミに取り上げられたりすると、いきなり偉くなっちゃうひとがネ、この業界は。さて、「読み合わせ」についてはまた、時宜をみて述べるとして、いよいよ、立ち稽古に入る。

2011年7月16日 (土)

恋愛的演劇論[実践]編・7

優秀な演出家というのは、劇作家の戯曲をそのまま寸分なく写像出来る者のことをいうのではナイ。また、この劇作家がこの作品を通して何がいいたいのかを読み込んで、それを舞台化する者でもナイ。優秀な演出家とは、「作者が、作品を通して、役者に何がやってもらいたいのか」を判断出来る者のことをいう。よって、そういうことの出来ない私は、演出家という肩書を出していないだけだ。そういう意味で、私の知っている優秀な演出家はたった二人、寺十悟と芹川藍さんだけだ。
さて、つづきだ。演技者がせりふを読む、このとき、演出家が、演技者の「読み」に口を挟んできたとしよう。「きみはその役をそういうイメージで捉えているの」と、こういうのはまだやさしいほうで、「ダメだ、そんなの、まったくダメ」と、子供みたいなことをいうアホな演出家もいるのだ。ここで、基準とする、というか、何を天秤にかけて演出家の意向、意見、指導、を聞けばいいのかというと、その演出家が演技者であるアナタとともに、その役のことを一緒に考えてくれているか、どうかという、この一点だけだ。「その役の心理としては」などといいだす演出家は、まずアホだと思ってマチガイない。役の心理なんかワカルワケがナイからだ。劇作家にだってワカラナイ。だいたい、ひとは「心理」などという怪しげなもので行動する動物ではナイ。これは、何か事件が起きたとき、テレビなんかで登場する「犯罪心理学」の教授の意見がアホラシイことから明瞭だ。「心理」は「心理テスト」や「心理サスペンス・psycho thriller」の中だけで充分だと、私は考える。いまコップに半分の水があります、あなたは、「まだ水は半分ある」と思いますか、それとも「もう水は半分しかナイ」と思いますか」前者なら楽天家、後者なら心配性、アタリマエじゃないか、アホも、ここに尽きる。私は錢が欲しい、誰だって錢が欲しい、錢のナイ者も、余るほど所有している者も錢が欲しい。どういう心理だ。心理もくそもナイ。また、経済学でこれを明快に論理化した者はいない。あのマルクスさへも。
さて、演出家から、そのような追求があった場合、たとえば「きみは、その役がそういう役だと思ってるの」と、きやがった場合、「ワカリマセン」というコトバは絶対にいってはイケナイ。演出家に「勝ったっ」と思わせるだけだ。だいたい、アホな演出家は理屈によって、演技者をへこませるのが仕事のように考えている。しかしもしそこで、ウーンとホンに目を落としながら、30分くらい考え込む演出家がいたら、その演出家のほうが優秀なのだ。囲碁や将棋だって、長考すると1時間以上も次の手を考える棋士がある。優秀な演出家なら、そこであの手この手を思案しているのだ。演技者と役とホンとのあいだの妥当な「摺り合わせ」を思考しているのだ。とはいえ、演技者のきみもボンヤリしていてはイケナイのはいうまでもナイ。何をすればイイのか。ホンを読むしかナイ。きみの創った、そう(思い込んだ)役やイメージに囚われていては前進しない。そこで、きみのうん十年の経験や生きざまなどアテにしてはイケナイ。そこから「役」を掘り起こそうなどと考えてはイケナイ。では、どうする。ここは「イメージを変えろ」。そうしてチガウ「イメージ」が閃いたら、「こういうのはどうでしょうか」と演ってみせるのだ。市川雷蔵主演の『眠狂四郎殺法帖』(シリーズ第一作)の狂四郎は、べらんめえな江戸っ子で、原作者の柴田錬三郎に、こんなものは認めない、と怒りをかった。二作めからは(全12作ある)ニヒルで、スタイリッシュな狂四郎になった。とかく「イメージ」というのは「思い込み」に過ぎない。それがイイふうに働く場合もあるが、正しくナイ方向に向いているときもあるのだ。

2011年7月15日 (金)

夏の夜の夢

モヘンジョ・ダロに行ったとき、最も記憶に残ったのは、あの整然とした沐浴所でもなくストーパでもナイ、七層の井戸だ。まるでエントツのようにその井戸は地表に突っ立っていて、つまり、そこまで発掘されたということなんだけど、一目観て、七つの層がワカルのだ。煉瓦造りなのだが、最も下層が最も煉瓦が整っていて、美しく焼いた煉瓦で造られていて、次第に層を上がっていくに連れて、煉瓦はひどい焼き方になり、造りも乱雑になっていっているのがワカルのだ。
最下層の煉瓦は、最も古い時代のモノだが、それがイチバン美しく整っているということは、その頃の文明が最も繁栄していたことを物語っている。モヘンジョ・ダロ滅亡の要因については諸説あるが、文明が徐々に衰退していったことは、その井戸の層で歴然としている。そこで、文明というものは、こういう層のように積み重なっているものだという観方が出来ることになる。
私たちは、学校の教室にある年表などで、歴史や文化、文明が、横方向にシリーズでアナログのように過ぎていくのを刷り込まれているが、考古学では、地層で地球の年代を分別するから、それはシリーズでアナログなものではなく、突然変化したごとき、デジタルなものだということを知っている。
各々の時代は、引き続きというものではなく、江戸時代から明治は、カタストロフなデジタルな変貌なのだ。もちろん、縄文から弥生もそうであったろうし、戦国時代があって、豊臣から徳川に世が平定されたときもそうだったに違いない。
卑近なことをいえば、私自身の個人史も同じだという気がする。とはいえ通年して、年齢は加算されるから、次の私の個人史が新たに始まるというワケでもナイ。しかし、横長の方向に個人史が進んできたというよりは、地層の積み重ねのように、モヘンジョ・ダロの井戸のように、歴史というものは堆積してきたものらしい。人間総体の歴史もかくの如しだと、最初に述べたのはフーコーだが、それは歴史という観方に対する衝撃的な思想の導入だったと思う。
私は似たような方法で以前『ヴァイアス』という戯曲を書いて舞台化、上演したことがあるが、私の力のなさで、誰もその劇作法に気づかなかったようだ。(ただ、ひとり、ひじょうに変わった劇作法だというふうに評価した東京の新進演出家はいたが、まあ、その程度だ)
私はいま独り、この辺りの最もスラムに住んで、何の現実感も存在感もナイまま、生きるのはもうゴメンだなと思ったり、まあ、成り行きで生きてみるかと思ったり、宿痾による希死念慮と闘ったりしながら、熱中症にだけ注意して、何の仕事もナイので、駄文だけを書き綴っているが、まあ、いいや、1年でも2年でも、ほんとに錢の切れ目が命の切れ目だなあと諦めたり、何とか太宰治の短編小説を戯曲にして、舞台化したいなあと、企画書を書いてくれないかと、知己に電話してみたり、貧困ではナイが、貧乏をやっている。そこで、ああ、そうだな、40年前名古屋に来たときも、こんな奇妙な、漠然とした不在感に悩まされていたなあと、思い出したりしている。
ほんとうは何にも興味はナイのだが、壁に貼ってある、若くして先逝した者の写真や書簡を眺めながら、あんたたちも無念だったろうな、しょうがナイから、行けるとこまではいくが、ほんとは、犬と猫と縁側のある家で、ひっそり老いて死ねればなあと、今度の地震で死に場所を津波で流された不運なのかなんなのかワカラン運命にため息をついている。

恋愛的演劇論[実践]編・6

演技者というのは、演劇作品を「全体」と考えると、役でその一部(部分)を担うことによって、「全体と同じ(同一)」で在る者に該る(これはフラクタルと考えてもよし、ホログラフィと考えてもイイ)。また、その「作品全体」と役を通じて「関係」している者に該る(これは代数の構造、関数と考えてもイイ)。さらにその「作品全体」を個々人の役に対する意識によって「了解」している者に該る(これは幾何学的、位相の構造と考えてもイイ。また、いい換えれば、その作品をどのような形態として受け取っているかでもイイ。つまり、自分が、作品というカタチのどの位置にいるか、作品と自分とで、作品はどんなカタチになっているか、だ)。演技者というのはその三つを根拠として作品に対峙する。そうして、演技者は、その三つを根拠として、自身の心的表出を(その作品を読んでココロが感じたものを、この場合は表出であるが、inputと考えたほうがイイ)虚構の表現(役という芝居の上での約束事)として体現(具体的に演じる)しなくてはならない。(これがoutputに該る)。ところが、ほんとうをいうと、そんなことは不可能なmissionなのだ。それは演技者の力量の問題ではナイ。いってみれば、表現の持っている本質的なものだ。
具体的な「読み合わせ」に立ち戻って、そこんとこを検証していく。
と、その前に、ちょっと小難しいことを書いたので、肩の力を抜いておこう。演劇というのはエラク難しいもんだなと思ってもらっては困る。演技者諸君は、「泥鰌すくい」というケッタイな幇間芸(太鼓持ちの芸)があるのをご存知だと思うが、あれは実に馬鹿馬鹿しいものだ。その馬鹿馬鹿しさを観て笑うのだ。演劇も同じだ。演劇というのは「馬鹿馬鹿しい」ものなのだ。なんでかというと、また理屈になるので、解説はしないが、私のように40年も演劇をやっていれば、イヤでもそういうことに気づく。演劇は実に馬鹿馬鹿しい。しかし演技者諸君、馬鹿馬鹿しいことを一所懸命、大汗流して、他人の前でみせるという、このような営為は人類以外、如何なる知的(といっても猿や犬、猫の程度をいうが)動物もやんない。馬鹿馬鹿しいことを大真面目にやる感動は、Don QuijoteもHamletもおんなじだ。(『ドン・キホーテ』くらいは読んでおけ)。馬鹿を承知の所業なのだ、演劇というものは。「武士道とは死ぬことと見付けたり」(『葉隠』)だが、「演劇とは馬鹿馬鹿しいことと見付けたり」だ。ただし、演技者諸君、この世には「大愚」というコトバもあるのだぞ。
「読み合わせ」が始まる。そのとき、演技者の意識には、「役のイメージ」が在る。その「役のイメージ」どおりにホンが読めたら(つまり、前述した三つの根拠がひょいといけたら)これほどスッキリすることはナイ。しかし、「イメージ」というものは、どう転がしても叩いても「イメージ」にしか過ぎない。演技者はその「イメージ」通りに発語出来ない、せりふが出てこないことで、焦燥する。「イメージは、わかってんだけど」というあれだ。だから、だ、「イメージの共有」なんてものは、やったって仕方ないのよ。せりふをいう、つまりその「役」でコトバをいう。どうもチガウ。うーん、こうじゃナイ。と演技者は煩悶する。では、この「どうもチガウ」というのは、どこが判断しているのだろうか。脳か。ココロか。意識か。しかし、まず、発語として、音声として表現している以上は、「耳」が判断していると思いたまえ。「耳」は演技者の発声を「聞く」。聞いて、この音声は「表現したい役ではナイ」と「感じる」。じゃあ、どうすればイイのか。「反復」するしか方法はナイ。最初の音声がチガウなら、それを「反省」しながら次の音声へと「復活」させてみる。これが「反復」だ。「耳」は聞く。そうすると、その都度「イメージ」がみえてくる。何故なら「イメージ」というのは「像」だからだ。音声を「耳」で聞くのではなく、「イメージ」で「観る」のだ。つづめれば、「音声を観る」ということになる。仏教にある「観音」さまだ。音は「観る」ことが出来るのだ。そうすると、「役」の「イメージ」が掴めるすぐ近くまで行き着くはずだ。完璧でなくてイイ。そんなものは存在しない。存在すると「思い込んでいる」だけだからだ。

2011年7月14日 (木)

恋愛的演劇論[実践]編・5

そこで、演出家というのは「権力」というものを所有しているかのように、演出家自身も演技者も間違える。平田オリザが間違えたのは(ほんとは間違えている演出家をみたから間違えたんだけど)仕方がナイ。演出家の所有しているモノ、その力というものは「権力」というものではナイ。とはいえ、そう誤解されやすいものだ。演出家の所有しているモノは、「交換価値」の優先というものだ。難しいかナ。簡単にいえば、演出家は「貨幣」のようなモノだと思えばイイ。「貨幣」は商品でありながら、どんな商品とも交換出来る価値を持っている。「貨幣」で「貨幣」を買うことも、もちろん出来る。演出家は、その「交換価値」の所有によって、自身のイメージをさまざまな表現と「交換」出来ることに優先権利を与えられている。照明家に対して、「ここんところはもう少し明るく」といえるし、作曲家に対しては「ワルツにしましょう」といえるし、音響スタッフに対しては、「SEを入れましょう」といえるし、舞台美術に対しては「そこんところの柱は要らないんじゃないかな」といえるし、衣装さんに対しては「ワンピースで揃えてもらいたい」といえるし、演技者に対しては「あんたヘタだな」といえるのだ。考えてもみればイイ。演技者が、各々のスタッフに対して注文を出せるのは、その御方が偉いひとの場合だけだ。「この衣装気に要らん」というのは、コンテクストの摺り合わせのはずが、単なるお偉い演技者の我が儘になってしまう。
この「交換価値」の優先を勘違いして、演出家は権力者になってしまうのだ。ゆえに、演出家が「交換価値」の優先を持つ場合、演技者とスタッフの総意の許でというのが、もちろん、最初の約束事だ。演技者諸君、よく聞くがイイ。演出家のイメージと、演技者の演じた演技とが、共有(同一)されるなどということは有り得ない。古今東西、そのようなことがあったという事実は演劇史上なかったと思ってイイ。そんなものがあるのは、二流のくせに一流の演劇マンガを描いていると思い込んでいる少女マンガ家の世界の中だけだ。演出家の仕事は、演技者に演出家自身のイメージをはめ込むことではナイ。台本(戯曲)から止揚されたものとして、演技者から演技を牽きだすことだ。演技者が持っていながら気づいていない演技を、誘導することだ。directorとは「誘導する者」という意味に解されるのはそういう理由による。優秀な演出家は、演技者に演技指導を行って、演技者を文字通り、ハッと驚かすことがある。逆に演技者を「なんで、こんなことがワカラナカッタのか」と悶えさせるほど悔しがらせることもある。まったく逆に「どういったら、この大根、アホには、理解出来るのだ」と、演出家が頭を抱え込んで、そのまま卒倒してしまうような演技者も、存在するのだ。かつて、私が、そういう大根のアホに対して、いったことはこうだ。「動くな。一歩も動くな。手も足もじっとさせていろ」そうすれば、ヘタがバレないからだ。
さて、「読み合わせ」にもどる。演技者が台本を「声に出して」読むとき、私くらいの優秀な演出家(本業は演出家ではナイが、便宜上)になると、その演技者が「役」に対してどういうイメージを持っているか、などと、アホなことを思索しながら、その演技者を観て(聞いて)いるのではナイ。私くらいの優秀な(もう、くどいから、このいい方はやめるが)演出家は、脳髄をコンピュータのように電子の速度で動かしながら、その演技者が自分とホンと役をどのように「了解」しようとし、自分とホンと役とにどのように「関係」しようとしているかを観て(聞いて)いる。ここにいたって、スタニスラフスキー・システムも、メソッドも、ブレヒトの異化効果も、単なる演技の「部分」の強調でしかナイという程度の意味しか持ち得ないということがいえる。

2011年7月13日 (水)

恋愛的演劇論[実践]編・4

「読み合わせ」という作業は、何かの摺り合わせのためにやるのではナイ。キャスティングされた演技者が、演出家のイメージ通りかを観るためにやるのでもナイ。極論すれば、演出家のイメージなど、それほどたいしたものではナイ。キャスティングだって、それぞれキャラクターがあることだから、イメージと同一のなどというのは、殆ど無理だ。錢のある映画という、プロデュース・システムでさへ、ミスキャストなんてことがいわれる。伊丹万作は、『演技指導論草案』で、(この小論は、私と考えがチガウ部分も多いが、数多の演出論よりは、格段に勝る)「百の演技指導も、一つの打って付けな配役にはかなわない」と述べている。オーディションで数万人の応募者をかき集めたら、下手な鉄砲も、だ、いいのに当たるだろう。しかし、私たちは、ちょうど、いま蓋を開けて中をみた、冷蔵庫の、在るものの中から見繕って料理を作るがごとく、芝居を成立させねばならない。演出家の仕事は、あたかもキャベツ一個で、何を創れるかというところにある。
「読み合わせ」において、台本は戯曲を離れると解釈してイイ。演技者における個性と能力などによって、せりふが変更されていくのはあってもイイ。しかし、多くの演出家と演技者は、ここで間違える。かなり、たいてい、大きく間違える。演出家は、「旅ですか」というせりふがいえない演技者に対しては(つまり、演出家のイメージどおり読めない演技者に対しては)、あくまで読み合わせの段階においてだが、せりふを変えられるだけの能力がなくてはならない。「旅ですか」の「意味」を変えずにではナイ。「意味」が変わっても、演技の劣化とならないようにさへすればイイ。これをただ、cutするバカな演出家が存在する。「いえないなら、やめよう」では、如何なる進歩も、その芝居の成就も望めないのはいうまでもナイ。演技が劣化しなければ、台本は戯曲としてその精度を保つことが出来るからだ。逆に、演技が劣化しているのに気づかないアホな演出家は、ヘタな演技者の「旅ですか」を認めてしまう。それどころか、劣化させてしまう演出家すら存在する。「コンテクストの摺り合わせによるイメージの共有」よりも、台本(戯曲)に書かれたコトバ(せりふ)の劣化を如何にして防ぐか。これが「読み合わせ」というものの、存在意義だということは、アタリマエのことだ。本を離して立つようになれば、また変わるなどということは有り得ない。従って、演技者は、「読み合わせ」において、その「本」に何が書かれているのか、徹底して格闘しなければならない。ここで、ワカランことは演出家に訊けばいいのだが、訊き方というものがある。最低の訊き方は「これはどういう意味でしょう」「これはどういう感じなんでしょう」だ。こういう演技者は、バイトに精出して、適当な彼でも彼女でもみつけて、コマシてコマサレ、日夜おまんこに励んでいればそれで青春と人生は終えることが出来る。最も(という程でもナイが)イイ訊き方は、「私はここをこういう意味に捉えましたが、どうなんでしょう」「ここの感じは私の感じたこんな感じでイイのでしょうか」だ。だいたい、私くらいの優秀な劇作家になると、一字一句が粉骨砕身、死屍累々のコトバの中から、生き残ってきたコトバでホンを書いているのだから、もし、せりふを間違って理解して、読んだ場合は「申し訳ありません。読み取れませんでした」と、便所いって隠れて泣くくらいでないといけない。そういうことは、劇団をやってるときには、よくあったのだ。「コンテクストぉ、お前が生きてきた、ケチな二十数年や三十年なんざの、どこにお前を支えるものがあるのだ。間違ったら、指の一つもツメルつもりで、ホンを読め」
演劇とは「単純」なものだ。それがワカルまでが難しい。

機械は正確に壊れる

ブログのなんだかが、変調していて、機械的故障(アップすべきときにアップ出来ない、推敲部分がなおっていない、など)があるので、少々、様子をみながら、調整します。(主筆)

2011年7月12日 (火)

恋愛的演劇論[実践編]・3

演技者が台本を手にした場合(と、ここで「台本」と「戯曲」のチガイを述べておく。「戯曲」というのは「書かれた劇」であり、パラ位置からみれば「読める(読ませる)劇」のことをいう。これを、稽古現場に持ち込んだ場合、「演じられる劇」としての「台」として扱うことになる。脚本も同義。こっちは「脚」として扱う。テレビ、映画などのシナリオは、戯曲とは全く違って、当初から「演じられる」ことを目的、そのための基準として書かれたもの)、まず必要なのは「字」が読めるかどうかだ。これは、すぐにワカル。台本を上下逆に手にしているものは、間違いなく字の読めない者だ。合衆国の識字率が70%であるのに比して、日本の識字率は99,8%だ。つまりたいていは読めるはずなのだが、字を読むのと、字を観るのとはチガウ。私もハングルを声に出して読むことくらいは、なんとか出来るが、それは字(ハングル)を観ているだけで、意味はワカラナイ。これと似ている現象が、演技者と台本のあいだで、起こることがある。特に漢字になるとその率が増してくる。さらに固有名詞もそうだ。これは「台本を読み込む」などという作業以前の問題だ。読み合わせの事前に、読めない字、読んで意味の解らないコトバは辞書などで調べておくこと、これは演技者としての基本的なな心得だ。(最近は、「読み合わせ」を「本読み」といういい方で、こっちのほうが定着してきた。「本読み」というのは、劇作家がまず、作品を演技者、スタッフの前で通し読みをすることで、演技者がそれぞれの役で台本を読むのは「読み合わせ」が正しい。このご時世、「幕間」を「まくま」と読み、「暗転」を舞台が真っ暗になることだと思い、ホリゾントを「白い幕」だと思っている輩の多い中、私も呆れつつ、面倒なことはもういわんことにしている)
読み合わせのときは、椅子に座るか、単に座るか、ともかく寝ころんで読むということがナイように。ウソのような話だが、私が劇団をやっていた頃、KはしKこという女優は、晩飯に一杯引っかけてきたのか、寝ころびながら、読み合わせ参加したことが何度もある。もちろん、共演の演技者から、私に苦情が寄せられたが、そういう演劇以前の問題は、個人の良識において責任を持つこと。「すんませんがね、寝ころばずに読み合わせしてもらえますかね」などと、いえるか、アホラシイ。この方は(あくまで個人の観方ではあるが)もう自滅してらっしゃるので、とやかくはいわない。
戯曲(台本)を読めば、何が書いてあるのかワカルはずだ。というのは素人の考えで、昨今の学芸会芝居しかやってきていない若者には、さっぱりワカラナイというひとも多い。ついこのあいだ上演した『ゴーシュの夜の夜』に出演した、最も若い年齢(二十代前半)の女性演技者に、演出であった私は、読み合わせのアト、直截訊ねてみた。「何の話か、ワカラナイでしょう」、彼女は素直に「ワカリマセン」と返事した。「ワカルように稽古していきますから」。もちろん、他の連中も全てがワカッタ上でやっているのではナイ。平田オリザ氏のいうように「コンテクストを摺り合わせて、イメージを共有せよ」といわれても、演技者のほうにそれだけのレベルがナイのだから、そういうワケにはいかない。しかし、これは演技者が恥じるべきものでもなく、劇作家の権威や演出家の権力行使の全段階でもナイ。「読み合わせ」というのは、「台本(戯曲)」を読み込むことだ。そこで全くイメージのチガウものが出てきてもたじろがない。歌手、都はるみさんは『涙の連絡船』を歌うとき、いつもアメリカ西海岸の街の港をイメージしていたという。それでも、あれだけ観客に歌を伝えることが出来たのは、「本質」を掴んでいたからだ。台本の「ワカラナイ」部分を羅列する前に、「ワカル」ところを捜せ。

恋愛的演劇論[実践編]・2

いわゆるドリンク剤には、たいていカフェインが50㎎含有されている。珈琲一杯のカフェインの量は100~150㎎(インスタントは除く)なので、けっこう少なく感じるが、緑茶、紅茶、珈琲のカフェインは吸収がゆるやかなのに比して、ドリンク剤のカフェインは吸収が早いので、疲れているからといって一度に2本飲んだり、短時間に数本飲むのは心臓に負担をかける。心臓はふつう、カフェイン200~400㎎で心悸亢進(動悸)を生じる。また、喉のトローチも、ひとによっては、多く摂取すると同様の症状にみまわれる場合がある。昨日も記したが、ドリンク剤とは代謝薬なので、新陳代謝をあげて、疲労物質を外に出すことに効果があるが、栄養分(ビタミン等)もけっきょくは排尿によって出てしまう。それなら、ミネラルウオーターを飲むほうがイイ。
排尿は、タイセツな体調管理だ。トイレに行くのを我慢することは老廃物を体内に閉じ込めることになる。当然、疲労がとれない。稽古前には必ずトイレに行っておく。また、稽古途中でも、強い尿意を我慢しない。ただし、あまり小刻みに(神経質に)排尿すると、膀胱の神経がそれに慣れてしまうので、軽い尿量でも尿意を感じるクセがついてしまう。これは自分で、どの程度の尿意でどうするかを調整しておいたほうがイイ。本番の途中は、ちょいとトイレにというワケにはいかない。こういうことも体調管理に含まれる。私が高校生の頃、高校生向けの雑誌に「初めてのデートの注意」てのがあって、「トイレを我慢しないこと」という項目があった。当時の女子も男子もデートの最中のトイレは、恥ずかしかったんだなあ。だって、実際、初めてのデートでおしっこを我慢して、尿毒症で死んだ女高生がいたんだからなあ。
口臭、体臭には、注意したほうがイイ。これは自分ではなかなか気がつかないことなのだが、内臓系統の疾病や故障からくる口臭などは、いくら歯を磨いても、ブクブク溶液を使ってもとれない。体臭は汗腺からの臭いが主だが、若い人は若い人の体臭が、老いてくると老臭が、どっちにもあるのだ。演劇は相手役のあることだから、迷惑を被るのは相手役であり、被った迷惑による相手役の演技の影響で、自分の演技が低下することにもなる。臭いを消すために、香水をつける演技者もいるが、外国の香水にはそれだけで強い匂いのものもあるので、それならば、楽屋か自分の衣装を置くところに、和香を焚いたほうがイイ。舞台が終わってからの夜宴の酒もほどほどにしておくこと。二日酔いなどで、次の日の舞台に立たれたら、目も当てられない。
本番前の食事については、いつもより少なめがイイ。舞台に上がると胃の神経も緊張するので、消化不良になりやすい。胃の気持ちの悪さは演技に影響する。弁当が出ることが多くあるが、生もの(刺身・とくに蛸)やカキフライは避けたほうがイイ。なんなら、ご飯だけを食べるというのも手だ。エネルギーに変わるのが早いからだ。同様に、自身で食事をとるときは、パスタなどはお勧めだ。エネルギーに早く変わる。バナナを一本だけ食べるというのもイイ。消化が良く、栄養吸収が早く、熱量に変わるのも早い。スタミナをつけるべく、焼肉というのは避けたほうがイイ。焼いた肉は最も消化が良くない。ほんとうなら生肉がイチバンなのだが、昨今、中毒が多いので、これもヤバイ。
本番の舞台に上がるとき、彼氏(彼女)からもらったからといってお守り代わりに、ブレスレットやネックレス、ピアスや健康バンド等を、勝手に身につけてはいけない。現実と虚構を混同してはダメだす。必ず、演出家、衣装、小道具担当の許可と舞台監督の了承を得ておくこと。さて、次からは、「台本を手にしてから」の実践にうつる。

2011年7月10日 (日)

恋愛的演劇論・[実践編]・1

演技者のすることは、体調の管理から始まる。体調の管理とは、体調をいつも最上の状態にしておくことではナイ。自らの体調の変化に自覚的になることだ。演劇公演の本番は、いつも演技者の体調の最上のときに営まれるワケではナイ。したがって、どういう体調のときには、どういう対処、対症、対応をすればいいのか、自らの心身を常に自ら「対象」として捉えておくべきだ。昨今は、ドラッグストアに多くのドリンク剤があふれ、本番公演ともなると、演技者は化粧前にさまざまなドリンク剤を並べたがる傾向があるが、そうして気休めにそれを飲用するのは構わないが、多くのドリンク剤は代謝剤でしかナイことを知っておいたほうがイイ。効くクスリというのは、必ず副作用を伴う。そのようなクスリはまず、薬店、ドラッグストアでは販売していない。せいぜい、第一類としての鎮痛剤がある程度だ。また、そのような薬品は、ストアで購買するよりも、医院で診察後、薬局で購入したほうが、格段に安価だ。
特定された疾病以外の病気、体調の具合の悪い場合、下痢、咳止めなどは、服用を本番1時間前だけにしておくこと。抗ヒスタミンは、口の渇きを生ずるので、せりふをいう障害になりやすい。下痢の場合、水分をとって、出すものは出したほうが、治癒が早い。生理痛の場合は、貧血を起こしやすいので、鎮痛剤との併用に甘いめの紅茶を飲むなどして、これを整える。
こういう演技以前の障碍に対しては、その障碍のあるときに、どの程度の演技が出来るか稽古すること。手っとり早くいえば、最も体調の悪いときほど、稽古をしてみたほうがイイ。そうすると、このように体調の悪い場合でも、8割くらいは出来るというような自信になる。本番は、ほんとうは5割の力で出来るようにするのが理想だから、それで充分だと思えばイイ。
体調の管理というのは、自分の心身を過信しないことから始まる。感冒などの流行のシーズンには、体力を過信せずに、手の消毒に努めること。何かにつけて手洗い。うがいよりも、そのほうが効果がある。携帯用の消毒スプレーを常備して、電車の乗り降りなどには、手の消毒に努める。ただし、消毒用アルコール(エタノール)は、手荒れの原因になるので、ヒアルロン酸などで、手入れを怠らぬこと。ひどいときは、尿素配合の化粧品を用いる。尿素は劇的な効果があるが、使いすぎると劇的にダメになるので、そこは自身の匙加減だ。
下手にドリンク剤を飲むよりも、漢方の補中益気湯(一日三回)を用いるほうがイイ。女性の場合、とくに冷え性などにも効果がある。なによりも、食欲を落さない効能があるので、ものが食えるというのはありがたい。また、牛乳なら300~500㎖を食欲のナイときには飲用する。
体調の管理は、身体というものに対する対象化に通ずる。胃が痛いということで私たちは胃が何処にあるのかを知る。ところが、膵臓が痛いとか、脾臓が痛いとかは感知出来ない。心臓は何故、かってに動いているのか。随意筋と、不随意筋、これらが内臓にも在るのだ。そうすると、脳はそのどちらに該るのか。私たちは脳を使うことが出来る。考えることが出来る。しかし、脳がどのようにしてナニをやっているのかを、私の脳は知らない。カラダ、ココロ、この不可思議極まるものを用いて演劇は表現される。それは「恋」というものが、不可思議極まる営為であるのと似ている。

2011年7月 9日 (土)

恋愛的演劇論・28

故郷に帰ると、山があり、空があり、雲が飛んでいる。神社や寺がある。田んぼがある。そのあたりで、子供の頃はよく遊んだ。もっとも、現存するのはその半分以下だが。私たちは雲や山や神社を観て、それを「くも」「やま」「じんじゃ」と命名することで、それらを、ある概念として認識し、それを共通規範として共有することが出来る。雲のないところでも、「雲がね」といえば相手は概念としてそれを理解する。「雲」というコトバで私がどんなイメージを持ったとしても、相手がどんな形状の雲を連想したとしても「雲」が「雨」になることはナイ。ところで、地図をみると、町名などは山田町、川下村と書かれているが、山や神社が特定の記号として描かれていることに気づく。鳥居のマークが神社だったり、〒が郵便局だったりする。これは、私たちが、その対象を「形態」という共通規範として識知していることを意味する。しかし、山が♯や♭と記されることはナイ。それとは逆に△を山の記号とすることについて、抵抗を持つ者はおそらく少ない。それは△が山のカタチを「抽象化」しているからだ。私たちはこの「抽象化」によって、△をして「ヤマ」と命名すること、それを「形態」化と称することにする。各人各様に言語から想起するイメージは多種多様だが、予め、このように「形態」による共通規範を持てば、たとえば山といえば、何人いようと「ヤマ」のイメージは△ですむ。個々人のコトバのイメージというものを具象度の高いものとすれば、「形態」は抽象的なものによる共通規範ということが出来る。この共通規範(「イメージの共有」)は、「コンテクスト」を「摺り合わせて」いけば、言語(コトバ)は具象から抽象へとたどる(か、その逆に抽象から具象にたどるか)しかナイといっているのと同じような気がする。すると、ここにパラドックスがひとつ生じる。『現代口語演劇』の方法論は、最も「コンテクスト=イメージの共有」を要求される観客に対して、具象度の高い(日常的な)舞台美術を提示したり、さらにせりふにおいても、同様に具象度の高い(日常的な)コトバを用いる。そのほうが観客の舞台への介入を妨げず、自然に入ってきやすいのではないかという考えからだ(オリザ氏は観客という存在を、ただ観る者から、舞台へ介入する者とすることが理想だと表明している)。これを避けようとするには、オリザ氏のいうように「世界観」の同じ者、オリザ氏に似たコンテクストを持つ者、コンテクストを自在に広げられる者を「考えるコマ」として、将棋盤としてのステージに上げるしか方法はナイ。というよりも、そのような俳優が存在するのなら、「コンテクストの摺り合わせ」などしないですむ。つまり、戯曲の作者であり、その演出家である平田オリザというヒトの作品における表現手段を「形態」として(それが彼の意識的作業であっても、無意識的結果であっても)それに向けて「摺り合わせ」を行いさえすれば、イメージは「共有」出来る(と思い込むことが出来る)。舞台の椅子は、「イス」なのだ。かつて、「コシカケ」というふうに名付けられていた対象は、劇作者であり、演出家であり、劇団主催者でもあるオリザ氏の「イス」という命名によって「椅子」になる。「コンテクストの摺り合わせ」とは、まさに、そういった「イメージの共有」に他ならない。だが、そこ(舞台)にあるのは「現実」ではナイ。あくまで演劇という「虚構」だ。すると、観客は「椅子」というものが、作品の中に存在する「形態」として「イス」であるのか、実態である「椅子」なのか(そんなワケはナイのだが)ワカラヌままに、その「イメージの共有」を要求せられて、その作品という虚構の時空に介入していかねばならナイ。これは、虚実紙一重のオモシロサなどということをいっているのではナイ。演劇が「虚構」であることなどアタリマエのように思えるが、問題は、その手続きなのだ。観客は黙って(何も考えず)舞台の進行を観ているワケではナイ。舞台を日常的に描けば、観客がより容易に舞台に介入出来るというのは、錯誤に近い。何故ならば、日常は個的なのではなく「私的」だからだ。『現代口語演劇』という表現に、入りにくさを感ずる観客がいるとすれば、その要因はそこにしかナイ。換言すれば、観客にとって舞台の椅子は、彼や彼女の「椅子ではナイ」のだ。観客は、いったんオリザ氏の「イス」という「形態」概念を通過してからしか舞台(作品)に介入することは出来ない。青年団の舞台がどのようなmotifやThemaやsituationで演じられても、それらが、ある「箱」に詰められて平積みされたバック商品のようにしか感じられないのは(私の感性を棚に上げることにすれば)そういう理由に起因すると思われる。

さて、長くかかったわりには、細部に至らなかった反省も含めて、次回からは、稿を改め『恋愛的演劇論[実践編]』として、継続するが、「難しい」という風評のある中、100名足らずの顧客の方々には、感謝する。だいたい「いま」という時代、世間が、「ワカリヤスイ」はずはナイのだ。

2011年7月 8日 (金)

これがまあ、

『恋愛的演劇論』の平田オリザ関係のところ、改稿終了。かなり読みやすくなっておりますので、ワカリにくかった方、難しかった方、もっぺん、面倒でなければ、読んでみて下さい。
今日は猛烈に暑かったので、映画館に避難しました。『小川の辺』東山紀之くん主演の、藤沢周平原作もんです。客は年寄りばっか。でも満員。しかし、おれも、そう年齢かわらんのだなと、なんだか、神妙な気分。菊地凛子さんでしたか、字がチガウかも知れませんけど、私、あの方、どうもアカンですわ。ハリウッド女優なんですか、はあ、あれで。なんかイモ姉ちゃんにしかみえまへんけど。
映画は良くいえばカモ鳴く鱶も鳴く。簡単でワカリヤスク、緊張感もなく、殺陣が段取りで、なんや、商業演劇を映画で観たという感じですね。
帰ってきたら、室温は35℃。31℃が熱中症のデッドラインらしいですから、とにかく冷房入れて、シャワーして、人間にもどるまで1時間ほどかかりましたわ。毎日、死ぬかと思いますな、私の住んでいるのは、いうたら他の住人に悪いけど、この辺りのスラム。まわりは、豪奢なマンション、釘で建てたようなモダンな一戸建て。ええですねえ、最下層の生活。フローリングと不動産屋の説明書きにはあったのに、合成樹脂の、しかもイチバン安モン。こないだの舞台で使ったのは、ベタベタしない、もちっと上等の偽フローリングやったのに。座ると素足がベタベタ、ヌルヌル。これも、接着剤で貼り付けてあるんやろなあ。
明日は、東京に北村想をやりに演劇界に行ってきます。

2011年7月 7日 (木)

お報せ

『恋愛的演劇論』の平田オリザ氏の『演技と演出』の考察のところが、「難しくてワカリニクイ」という風評を聞くので、読み直すと、なるほど、「難しい」のは内容ではなく、私の文章が下手くそなのだ。で、全面改稿の作業をしているので(ほんとはアト1回で終わるつもりだったのだが)少々、お待ちを。

2011年7月 6日 (水)

59歳、何処へ

59歳になったワケですが、変わったことというのは、まあ、独り暮らししてることくらいですかね。独り暮らしでも、孤独感とか、まったくないの。生活感覚が変わらないの。たいていのことが、自分の時間でまわせますから気楽は気楽ですが、生活感覚が変わらないというのは、要するに、私は、ずっと独り暮らし同様に暮らしていたということで、そのほうが驚きで、ちょっと寂しく、うら悲しいですな。最近身に沁みて(というのも大袈裟ですが)ワカッタことというのは、日本には「政府」という機関は不要だということ。これほどなにかと妨げになるシステムもないですな。震災の復興が遅れているのはすべて「政府」の存在のせいですからね。「原発は要らん」というより、私は、「日本に政府は要らん」といいたいです。

高校生のときに、「人生というのは時間の連続したものではなく、ある場所のことをいうんではないかいな」と、考えたことがあります。つまり「人生」という「場所」があるんです。そこは、ひとが生まれて死んでいく「場所」です。難しくいうと、人生を「時間的」にではなく「空間的」に捉えたんですね。高校生のときは、時々、天才になりましたから。「ゼノンの矢」のパラドクスを解決したのも高校生のときでしたから。
もうひとつは、「私」についてです。「[私]とその[私を考える私]がある。さらには[私を考える私を考える私]があるが、この連鎖はキリがナイので、そこまでで、アトは意味がナイ。つまり単なる合わせ鏡だ。さて、諸行無常とか、弁証法的運動とかいうときに、常ならむ(変化している、運動している)私を存在させるためには、動いている私を定点観測(静止衛星観測)している止まっている私が相対的に存在しなければならない。アインシュタインの相対性理論とは、まさにそうで、そうでなければ、私が諸行無常であるのかどうかを判定、観測、することは出来ないことになる。この定点的、静止的、定数的、私は、常ならむ私をみつめている。私たちは、環境界の変動変化を目にします。「ひとさへひとにとどまらぬ」のですから、他者の変貌も、観ることになります。それから自身の「外界(身体)」の衰えを感じます。59歳で、何処にも異常のナイひとなんてのは病気でしょう。それから「内界(心的世界)」が受容と表出において変わっていくのを感じます。野に咲く花なんかに興味はなかったのになあ、とか、逆に、野に咲く花への興味が薄らいできたとか。しかし「観る・感じる」のも、私です。こういうふうにいうと、何やら二元論のように聞こえますが、これは一元論でしょう。つまり、それでワンセットの「私」ということです。たぶんその私は、私が死ぬとき、ああ、私も死ぬんだなあと思うことでしょう。
死について恐怖したことはあまりありません。死についての恐怖や不安というのは、死んだら永遠に自分が消滅してしまうという、経験したことのナイものへの恐れで、死ぬということ自体は、生が終わることですから、存在しません。死が始まるということはナイワケです。あの世、来世、天国、極楽、そういうものがあるのかどうか、ワカリマセン。しかし、いま生きている私たちは、死んだ後、何処かでもう一度遇えるような気がしてしょうがナイのです。私には何も信仰はありませんから、宗教的なことではなく、これは、根拠のナイ確信という矛盾したものです。
この年齢になると、残り時間もそうないだろうという気はします。幸いにして、やるべくはやり、返す義理は返し、そういう部分での未練や後悔はありません。とはいえ、欲が深いもんですから、もうちょっと、これやりてえ、あれしてみたいと、自分の人生がどうなるのか、みていていたいワケです。ほんとうは、58歳あたりで、陸前高田の、あるひとの墓前で自死する予定だったんですが、あろうことか、今度の地震の津波で、みんな流されていってしまいました。予定、狂っちゃったなあ、です。いよいよダメだなあと思ったら、自爆テロでもやってみるかと、そんな59(極道・ご苦労)歳でございます。

2011年7月 5日 (火)

恋愛的演劇論・27(改稿)

「コンテクスト」という概念を私なりにいってみる。そうするとコンテクストというのは「そのひと個人の意識にある言語の共通規範。あるいは個人的にそう思い込んでいる言説(ディスクール)」ということになる。ワークショップでは「イメージの共有」→「コンテクストの摺り合わせ」という方向があったが、これはほんとうは矢印が逆であることが次第にワカッテくる。その例として本著では「旅ですか」という台詞があげられている。
この「旅ですか」という台詞にも、劇作家、演出家、俳優の「コンテクスト」が存在するという寸法だ。この「コンテクスト」の「摺り合わせ」によって、「イメージの共有」というものが生成されなければならない。というのが、オリザ氏の論理だ。つまり演出家と俳優、劇作家と演出家、劇作家と俳優、その各々の「コンテクスト」を各々が「共有」する、ということになるのだが、たとえば、普通一般人が誤解しているとされたジョン・ロックの命題の2、これを吟味してみる。
「自分がある言葉によって表明した考えや物事は、他人も同じ言葉によって表明すると考えている」(間主観性の一致・・・概念と言葉が一致している)。
もちろん、そういうことはありえないのだが、日常的には、そういうことには無関心に生活は営まれている。しかし、事は演劇だ。ここで「表明した考えや物事」というのは「対象」といいなおしてもイイ。たとえば俳優Aが相手役に対して「旅ですか」という台詞をいうとき、その台詞は、俳優Aと演出家と劇作家の「コンテクスト」が「摺り合わされて」発語されたコトバになっていないといけない。「摺り合わせ」というのは、三者のあいだで、新しい「共通規範」が設けられたということだ。
ところで、「旅ですか」というコトバ(台詞)は俳優Aの中で「コンテクスト」の「摺り合わせ」によって、どう変容していくのだろうか。俳優Aには「旅ですか」という俳優Aなりの意識(イメージ)の持つコトバがある。これを「即自的存在」という。ここで演出家なり戯曲なりの「旅ですか」というコトバが俳優Aに意識された場合、俳優Aは「俳優Aの意識したした、演出家、劇作家のコトバとしての[旅ですか]」という意識(イメージ)を持つ。「対他的存在」と称されるものだ。ここで、「コンテクスト」の「摺り合わせ」は終わっているはずだ。しかし、俳優Aが「摺り合わせた」のは、俳優Aが、自分で、そう思い込んだ(判断した)演出家、劇作家の「コンテクスト」でしかナイから、演出家や劇作家の「コトバ(コンテクスト)」は、畢竟、俳優Aが意識したところの(独自にイメージしたところの)「コトバ」でしかナイことは必然的なことだ。すると、論理的にいってしまえば、俳優Aの即自的な考えとの演出家、劇作家との「コンテクスト」の「摺り合わせ」というのは、俳優Aには出来そうにナイ。何故なら、俳優Aの「コンテクスト」はいつまでたっても、俳優Aの主観でしかナイからだ。つまり「コンテクスト」の「摺り合わせ」というのは単純に俳優Aの思い込みということになる。立場を逆にして、演出家のほうから俳優Aの「コンテクスト」を「摺り合わせ」ようとしても、同じことになる。このことが意味するのは、「コンテクスト」も、「共有」されるものも、ともに主観の意識の中にあるものだから、客観的な尺度の持ち込みようがナイということを意味している。ただ「イメージの共有」という「コンテクスト」の「摺り合わせ」は、自身の意識を変容させるが、当然のことながら、対象であったもの自体も変容を余儀なくされる。そのようにいうと、発展的なビジョンだが、その膨らんでいく「イメージの共有」が「正しいもの」であるのかどうかという、判断の基準が必要になってくる。もう少しいえば、それを正しい「共有」であると判断するものが必要となる。「マック」と「マグドナルド」、「椅子」と「腰掛け」程度ならたやすいだろうが、「ヒレカツ」と「ヘレカツ」になると、もう、難しくなる。要するに、いくら「コンテクスト」を「摺り合わせて」も、その「共有」のベクトルを判断、確定するものが必要になるということだ。『意識は或るものを己れから区別すると同時に関係しもする』(ヘーゲル・『精神現象論』)。現在の脳科学では、「対象」を脳が如何に認識するかというシステムまでは解明出来ている。しかし、意識に取り込んだ「対象」と「取り込んだ主体と対象と主体」との関係をどう認識するのかは、まだワカッテいない(『Newton』2011・2)。哲学的には、ここまではヘーゲルだが、ここからはフッサールの『現象学』になる。「コンテクスト」を「摺り合わせ」て、それを「共有」しようとする場合、共通規範を創り出すためには、は「現象学的還元(いったん、客観と思われるものを括弧にくくってしまう)」が行われなければならず、劇団や演劇などの集団創作における場合は、妥当な「共有」を判断、確定するもの(者)が必要になる。おそらく、それが劇団の権力構造に依拠され、ある「客観(性)」を担う者が、登場してしまうことになる。(これが、オリザ氏の幻滅した集団の稚拙さという構図だ)。「コンテクスト」の「摺り合わせ」というのが、これと同じ構図を持ってしまえば免罪符ではなくなってしまう。そこで、「コンテクスト」を「形態」として導く共通規範
が存在しなくてはならなくなってくる。

2011年7月 4日 (月)

恋愛的演劇論・26(改稿)

オリザ氏が、独自の「コンテクスト」という概念とその「摺り合わせ」という方法論を、自らの演劇(『現代口語演劇』)の基底に据えたのには、ある契機があったことをもう一つの著作、『演劇入門』で吐露(というよりも、かなり強い調子で明言)している。それによると、彼が本格的に演出を始めたのは二十五歳を過ぎてからで、遅い出発だった(と、彼がいうのだから、遅いということにしておこう)。そこで、その遅れを取り戻すべく、他劇団の稽古場をいろいろと見学したらしい。そこで、彼が感じたのは「何よりも私を驚かせたのは、ほとんどの若い劇団の集団論の稚拙さだった」(『演劇入門』)とある。その当時の若い劇団に「集団論」などというものがあったのかどうか疑問だが、ともかくは、その集団の有り様のことだろう。そこにあったのは、演出家による俳優の抑圧と管理、そうして「劇団内に厳然とあるヒエラルキーや年功序列が存在し、そのヒエラルキーが、劇団員の相互批評を不可能にし、集団を硬直させているのだった」(同)らしい。ヒエラルキー(Hierarchie)というのは、ピラミッド型の階級組織で、まあ、軍隊のシステムだと思えばイイ。そこで、彼はこういう結論に至る。「現代演劇において、多くの場合、演出家は絶対的な権力を持っている。この権力は、現実には、主に演出家の人事権に由来する」。たしかに、彼は「現代演劇」と、ことわってはいるが、ブレヒトなんてのは、その人事権を悪用して女優を食いまくったらしいからな。 演出家による俳優への「自己のイメージの強制」「それに従わない者の排除」、いわゆる「コンテクスト」の押しつけ。
ここで、オリザ氏の用いている「コンテクスト」の概念を述べておくと、
~~俳優は、俳優である以前に、数十年間生きてきて、この言葉に関する、一人ひとりの文化とも言うべき領域を築いています。こういう一人ひとりの言葉の使い方の違い、あるいは一つの言葉から受けるイメージの違いを、私は「コンテクスト」と呼んでいます。(中略)ここではその人がどういうつもりでその言葉を使っているかという全体像だと思ってください~~(『演技と演出』)
その誤謬の例として、どちらの著書にも出てくるのが、冒頭に書いたジョン・ロックのコトバだ。 引用しておく。
1、自分の考えは、当然、自分の考えている当の事物と一致しているものと信じている。(表象の一致・・・概念と事物が一致している)
2、自分がある言葉によって表明した考えや物事は、他人も同じ言葉によって表明すると考えている。
(間主観性の一致・・・概念と言葉か一致している)
オリザ氏は、とくに二番目の「間主観性の一致」を問題にしている。さらに日本人は島国に育っていて異文化に接触する機会が少ないので、そういう輩が多いと付加してある。これも、ほんとかなあ、というところだ。それはともかくとして、先に進める。
オリザ氏は、若い劇団の集団論(集団制だと思うが)、その権力構造に絶望的になる。そこで、悩みに悩み、かんがえに考えた末(か、どうか、また勝手にいってしまうけど、そうだったんだろう)こういう結論を出す。
~~演出家の持つ強い権力性をいったん認めた上で、その権力性をいかに制御するか~~俳優の人間性を抑圧せずに、できる限りコンテクストの摺り合わせを試みるという現実的な方法を見つけだした~~(『演劇入門』)
さらに
~~演出家の演劇観を、俳優に対して、できるだけ明確に提示する~~演出の方針を述べる必要がある~~俳優個々人は、独自のコンテクストを持って、演出家、劇作家と向かい合うべき一個の独立した主体である~~(同)
「そうだ、そのとおりだ」という声が何処からか飛んできそうだが、こういうカッコイイ文言に対しては、私などはやっぱり「ほんとかよ」と思ってしまう質なのだ。

2011年7月 3日 (日)

恋愛的演劇論・25(改稿)

~~「リアル」という言葉を考える時、私たちはまず、「現実そのもの」を対象とします(中略)~~しかし、演劇は、現実に近ければリアルになるとは限らない。観客とのイメージの共有ができた時に、初めてリアルな世界が、観客の脳の中に立ち上がってくるのです。~~出発点は、あくまで現実世界にあるのです。何故なら私たちは、人間の現実の身体を離れて演劇を創ることはできないし、通常話している言語を離れて、まったく別の文法の演劇を創ることもできないからです。~~(同)
一読すると、しごくもっともなことを述べている。それはこの著作全般の印象としていえることだし、「子供たち-若い読者」あるいは、初心者や、逆に頑迷なる演劇関係者は、ここで首肯せざるをえない文脈を与えられる。しかし、多少なりとも、演劇とまともに格闘してそれを学んできたものからみると、「リアル」「現実」というものを少々無造作に扱っていやしないかという不満もあるのだ。
オリザ氏の論理をまとめてみる。-演劇(『現代口語演劇』)における「リアル」とは、「現実そのもの」を対象としない。「リアル」とは観客との「イメージの共有」によって観客の脳に立ち上がってくるものをいう-。私たちは、この「イメージ」というものについて、「同一性」の観点から、三つの段階を挙げた。まず「区別」、次に「差異」、そうして「対立」。この三点がセットになってなんと1000円ポッキリ、などというジャパニーズ・カタタのような通販ショッピングは、ここでは無理な相談だ。たとえば百人の人間のイメージを寄せ集めれば百人によって形成されるイメージが成立するかというと、そんなことはありえない。しかし、もし、具体的にこういう「イメージ」が演劇を成立させるのに必要であると考えるならば、つまり『現代口語演劇』が演劇としての(ひとつの)理想のカタチだと信ずるならば、そちらのほうから、観客の側に、イメージとして観客を圧倒するカタチで降りて(向かって)来なければならない。それが妥当な戦略という他はナイ。しかし、どうしても普遍性を手に入れたい『現代口語演劇』は、そのような強権的な手法は避けねばならない。そこで、次に「出発点はあくまで現実にある」ことを、この論理は強調する。「これまでの演劇理論を批判的に見直し、日本人の生活を起点に、いま一度、新たな言文一致の新鮮な劇言語を創造し、緻密で劇的な空間を再構成していこうという戦略にもとづくものです。(中略)人間の生活はそれ自体が本来、楽しく、優美で、滑稽で、間抜けで、複雑で豊かな様相を内包しています。私たちは、その複雑な要素を抽象化しながら舞台上に再構成し、その静かな生の時間を、直接的に舞台にのせようとする試みをつづけています」という青年団の主張とは抵触しない普遍性を、言説(ディスクール)として所有したいのだ。。しかし、先の論理は、演劇創造の「イメージ」の水準というものと、一般的観客の「イメージ」の水準というものを、まったく一緒くたにしているのは明らかだ。もし、観客とのあいだに「イメージの共有」というものが出来たとしたら(確信したのなら)、今度はパラ位置から、観客の持っていた「現実」と「イメージ」という「虚構」の在り方がどんなふうに、どれくらいチガッテいたのかを検証してみるといい。そこにおいて「イメージの共有」という護符がどのくらいの御利益があるのかが、ワカルはずだ。つまり、もし、観客が『現代口語演劇』に対して「異和」を持ったとしたら、「イメージの共有」の「対立」としての段階で『現代口語演劇』の「表現手段」が受け入れられなかったという査証だということだ。しかし、それですら「イメージの共有」には違いないのだ。「イメージの共有」とは、イメージの客観的一致をいうのではナイ。どのような演劇も、観客との「イメージの共有」を念頭においている。そうしてイメージはたしかに共有されるのだが、それらは、各自の水準におけるイメージとしてであってそれ以上ではナイ。そこで、その解決策としてオリザ氏が持ち出してくるのが「コンテクスト」の「摺り合わせ」という作業工程だ。

2011年7月 2日 (土)

恋愛的演劇論・24(改稿)

「イメージの共有」、これが『現代口語演劇』の出発点、あるいは(そうして)重要な基準定理だということは、このあたりまでのその強調の度合いで、私たちにも理解出来る。これは具体的にいえば「そこにほんとうに無いものでもみえるようになる」ための過程であり、それが「演劇を支えているメカニズム」であり、演出家はそのメカニズムを駆使して「虚構をほんものらしくみせる」、それが「演劇」だ。というのがオリザ氏の理論、つまり『現代口語演劇』の主張(論理)、ということになる。単純にしてしまうと、「イメージの共有」=「演劇を支えるメカニズム」という公式になる。私たちは「イメージの共有」における深度に疑問を呈したが、それはとりあえず置いておいて、「演劇」(『現代口語演劇』)の現場において、この「イメージの共有」は、「誰」と「如何に」成されるものなのだろうか。
~~演劇の観客は、実は、「イメージの共有しにくいもの」が観たいのです。~~(同)「イメージの共有」はワークショップでは「相手役との共有」だったから、そこにもうひとつ「イメージを共有するものとして「観客」という存在が投入されたことになる。しかし何故、観客は「イメージの共有しにくいもの」がみたいのか。
~~観客は、普段見ることのできない、経験したことのない~~(同)ものを見たがる。それは、
~~ありきたりの動きでは、観客はすぐに飽きてしまいます~~(同)
からだ。そうして、
~~観客が一番観たいもの、そして一番共有のしにくいものは、人間の心の中だろうと考えています~~(同)
~~演劇は、イメージの共有しやすいものから入っていって、しにくいものにたどり着くようにできていること~~(同)
ここで、一連に書かれて(論じられて)いることは、単純に観客を「感情同化」に導くのが演劇だということと判別がつきにくい。しかし、いままでの演劇はそれがやれてこなかったという主張ともとれる。また、青年団の舞台はそれをやりとげるための芝居であり、青年団の客は、質が高いのだという自負自讃ともとれる。そのために俳優のなすべきこととして、
~~心身の内面を掘り下げ分析していくことと、自由な発想で外側の世界に向かっていくこと、この二つは、明らかに矛盾する作業です~~(同)
これをたやすくやってのけるのを天才と呼ぶ。のだそうだが、「心身の内面を掘り下げ分析する」「自由な発想で外側の世界に向かっていく」という、この漠然とした作業工程が「表現手段」として具体的にどんなものかがワカルのはたしかに天才でしかナイ。オリザ氏はこの教本の中盤で、「自分が俳優に、どんな条件を要求しているのかを、きちんと説明できない演出家とは、つきあわないほうがいい」と述べているが、前述した二点を了解することは難儀なことだ。それに私たちはこういう、いわゆる悪しき「観念的」なコトバなら、『現代口語演劇』の否定する、近代→現代に至る演劇現場の指導者のコトバやその教科書、演劇論書で、耳タコになっている。
~~この点については、あとの章で詳しく触れます~~(同)
のは、そうしてもらわないと意味がナイ。が、ここでオリザ氏が重要視しているのは、その二点が「明らかに矛盾している」ということなのだが。解説を後回しにされた私たちとしては、何が矛盾しているのかがまずワカラナイ。もし、その方向性と力点(いわゆるベクトルというもの)が「心的世界」「外界(身体)」へ向かうのと「環境世界」では真逆であるからというのなら、それはとくに「矛盾」というものではナイ。なぜならば、私たちはごく日常的にも、そういうふうに「生活」しているからだ。卑近な例を示せば、私たちは「今日、この千円を使ってしまうと、明日困るな」と内面に問いかけながらも、「まあ、いいやなるようになるか」と、飲み屋の暖簾をくぐることなど、しょっちゅうやっているからだ。
次にオリザ氏の口から「リアル」というコトバが飛び出てくる。彼はこの「リアル」で何を規定することが出来るのだろうか。『現代口語演劇』の「リアル」とは何なのか。

2011年7月 1日 (金)

Hysterie

鬱病の希死念慮を、今夜またなんとか切り抜けて、一息ついて、いいたいことをいわせてもらう。
東日本大震災、フクシマ原発事故。地震に津波は、地球の胎動だ。何処にもんくの持っていきようもナイ。自然というのは、「自ら然り」なのだから、絶対だ。
さて、原発だ。反原発に脱原発、自然エネルギーへの回帰、盛り上がる運動、ウソつく政府に東電。私にいわせれば、どちらもHysterieにしか過ぎない。一つだけ、知りたいことがある。フクシマは、人災なのか、科学的敗北なのか。いつだったか、そう遠くないむかし、マンションの設計施工の手抜き工事で、一騒動あった。あれは人災ではなかったか。ではフクシマはどうなのだ。また、日本にある原発50数基はどうなのだ。この世界には旅客機というものがある。ヒジョウに便利だ。ところが、こいつが時々墜落する。飛行機は墜落するから、廃止すべきだと、誰かいったことがあるのか。
人災ならば、その方向で真っ当にする手段があるだろう。科学的敗北ならば、科学は追いつかねばならない。ただそれだけのことではないのか。
止めると日本経済が打撃を、被害者には政治的配慮で、みんなで停電を阻止するために節電を、原発は安全ではなかった、原発などなくとも、やっていける、やはり原発を動かさざるを得ない、さて、どれがほんとで、どれがウソなのか、私は知らぬ。私が知りたいのは、繰り返すが、原発事故は、人災か、科学的敗北か、それとも、地震と津波による壊滅的打撃か。この根本的因果が不鮮明ないま、何をどうほざいても、単なるHysterieにしか過ぎないのは、自明のことだ。まったくひでえ、胡散臭い世の中だぜ。

恋愛的演劇論・23(改稿)

「三寸の舌頭、禍門(かもん)を開く、河沙(がしゃ)の諸仏、転(うた)た多言」(『狂雲集』一休宗純・・・口語訳は省く。漢字が読めればだいたい、ワカルでしょ)という徒労感もナイではナイが、自らに鞭打って、つづきのココロだ。
当初は受講者の緊張をとるべくゲームだったものが、次第にその目的を「イメージを共有する」ということへと向かっていく過程は、テキヤの「大ジメ」(大勢の客たちを遠巻きにさせてタンカバイという売り方をするもの)にみられる順序の構造というものと似たようなものだ。(「大ジメ」の場合、最初は沖縄のハブの鳴き声を聞かせるというところから始めて、結局、そういうことはやんない)殆ど同じといってもマチガイではナイ。
~~ここでまず私は「世の中にはイメージの共有しやすいものと、しにくいものがある」と解説します。~~(同)
あたりまえのことで、「なるほど」と頷くような言辞ではナイ。それを「解説」するというのだから、これは前述に呼応してたとえるなら、テキヤの「大ジメ」における位相の構造といえる(ハブの鳴き声が、さまざまな話題に移って、客たちをハブの興味からずらしてしまうこと)。そこで今度は「架空の縄跳び」が始まる。これは「イメージの共有がしやすい」ほうの例だ。その理由として、オリザ氏はこう「解説」する。まず、縄跳びはキャッチボールに比べて動きが単純なこと。経験に男女差や地域差がないこと。そうして重要なのが、~~縄跳びに引っかかると「痛い」とか、笑われると「恥ずかしい」といった感情や記憶を、やっている側も見ている側も、すでに共有している点です~~(同)
さらにこの「解説」はこう結ばれる。
~~結果としてそこに本当はない縄でも見えるようになるのです。これが、演劇を支えているメカニズムです。私たち演出家は、このメカニズムを駆使して、虚構を本物らしく見せるのです~~(同)
私は本職は演出家ではナイが、自身の戯曲の演出はする。だから、演出を本業としている者なら、ここで、この本を閉じるのではナイかと危惧するほどの「解説」だということは私でもワカル。「本当にはないものがみえるようになるメカニズム」を駆使して、「虚構をほんものらしくみせる」のが演出家の仕事のように語られているからだ。そうすると、ここでは架空の縄をどうみせるかが演出ということになる。それは、そういう演出家もいるかも知れない。オリザ氏自身がそういう演出家ならばだ。しかしここは「比喩」か「想像力」のことをいいたいのだなと良心的に読み取っておく。ところで、やってみれば(経験してみれば)ワカルことだが、「縄跳び」は「キャッチボール」ほど簡単ではナイ。さらにいうならば、イメージの「共有」の難易度が、この二つのゲームで如何程のものかの「解説」はこれ以上行われない。ほんとうなら、ここではこう「解説」されるべきだ。「イメージの共有」という「虚構」においては、「縄跳び」は「キャッチボール」より簡単である、と。「現実」と「虚構」においては、その認識(「イメージの共有」)の難易度で差のつくものがある。たとえば、最も単純な命題を例示してみる。「AはAである」。これをイメージする。論理学ではこれを「自同律」といい、哲学では「同一性」という。「同一性」とは、マーケットにあるバナナも果物屋にあるバナナも「バナナ」としては「同一」だということを示している。さらに台湾バナナもタイ産のバナナもフィリピンのバナナも「バナナ」として「同一性」を示している。もし、「好きな果物」といわれて、子供たちのあいだに例の相談が始まった場合、指導者が訊ねたとしよう。「何を相談しているんだい」子供たちが答える「バナナは好きなんだけど、僕は台湾バナナは美味しいと思うんだけど、フィリピン産は天然ものが多くて、あまり好きじゃナイ」「いや、何でも天然のモノがイイんだ。果樹園で人工的につくられたのは、ちょっと」。これは同一性が崩れたのではナイ。イメージの難易度が同一性の中でアップしたことを示している。ん、・・・たかが、ワークショップのゲームじゃないですか、どうしてそこまで執拗なんですか・・・ごもっとも。だが、これはイメージの難易度としては重要なことだ。バナナはまずイチゴやメロンと「区別」される。次に産地によって「差異」化され、「対立」(生産手段-- 表現手段)へと進んでいく。私たちはワークショップの「仲間を集める」「イメージを共有する」といったゲームを、安易に許容してスルーするワケにはいかないのだ。

life live like

『恋愛的演劇論・23』だったか、今朝方読んだら、「ヤバイ」ってんで、削除、これから改稿。だいたいゆんべはエアコンつけても32℃という仕事場だったですからね。「ヤバイ」というのは、下手な文章を書いたときに使うコトバではありません。それを下手な文章(脈絡が確かでナイ)と気づかないことを「ヤバイ」というのであります。で、「ヤバイ」文章だったので、改稿。
これは、日常のお話ですが、私、「生活」というのが嫌いではありません。たいへん好きです。独り暮らしが、やはりイチバン性に合ってるようです。頭ん中で生活の順序をシミュレートするのね。うーんと、まず、今日は茄子とベーコンを味噌味で煮込んで、これは午前中に作って、夜冷たいのを食べよう。買うもの、茄子、そうそう玉子ね。エリンギもいっとくか。あとはベーコンと。近所のドラッグ・スーパーが開いたら、サロンパスと、敷布団の上に敷く、冷却シート。どうも、朝、背中が汗でべったりは、敷き布団のせいだな。と。サロンパスは、なんだかんだいって、やっぱり、サロンパスだな。冷蔵庫で冷やしておいて、毎日の自転車で、パンパンになった太股に貼るべし。で、料理の下ごしらえ(といっても、茄子のあく抜きをしとくだけだけど)をやってる間に、洗濯と。ともかく夏は一日おきに洗濯。洗濯、好きなんだなあ。洗ってきれいになったのをベランダに干すのが気持ちヨカですよ。そういや、如月小春がまだこっちにいた頃、NHKの仕事で一緒になって、楽屋で「私、読書ばかりしてると思われてるけど、ほんとは、お掃除がイチバン好きなの」なんていってましたわ。で、掃除のやり方なんてペラペラ喋るんですな小春姐さん。あの頃の小春は、あっちこっちに引っ張りだこだったです。すでに既婚だったかどうかは忘却したけど。世間では、私と如月がいい仲だったとかいう噂もありましたが、とかく私にかんする噂の98%はデタラメですから。如月が私にsympathy持ってて、fanだったことに相違ありませんが、私はあんまり完璧な女性というのは(とくに美人というのには)殆ど恋愛対象としての異性的興味を持たないんですわ。
えー、いま味噌を入れて、晩飯のおかずは出来上がり。現在室温31℃。エアコンはまだ入れてません。では、ちょいと買い物にいってきます。買い物も好きでねえ。いろんなもの売ってるでしょ。オモシロイよねえ。ついつい買っちゃうよねえ。

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