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2011年6月29日 (水)

恋愛的演劇論・22(改稿)

η何が粋かよ 気が付くときは みんな手遅れ 吹きざらし~(東映・『沓掛時次郎 遊侠一匹』主題歌・主演・中村錦之介、監督・加藤泰)フランク永井が歌ったらしい。映画は観たが、記憶にはナイ。ところで、流山児との二人芝居で、『昭和残侠伝』はシリーズで8作創られたという私のせりふがあったが、あれは9作の間違い。ただし、花田秀次郎(高倉健)風間重吉(池部良)のcombinationは、内7作。
なんの関係もナイ前置きで恐縮だが、つづき。
~~架空のキャッチボールが難しいと感じるもう一つのポイントは、相手がどんな球を投げたかが、よく分からない~~(同)
~~相手がどんなボールを投げているか、重さ、スピード、コースなどを想像して、ボールを受け止める。これを私は「相手役とのイメージの共有」と呼んでいます~~(同)
およそ、この二つの文言は、キャッチボールの経験があれば、まったく意味のナイ杞憂、というに過ぎない。バタイユという哲学者はコミュニケーションについて、こういっている。「自己自身とは[コミュニケーション](相互交流)のつながり、主体と客体との融合のつながりだ」(つまり、自己とは単独で存在するものではナイといいたいのだ)。これだけ読めば、そりゃあ、ヘーゲル(の弁証法)じゃないのか、と思われそうだが、バタイユは、自己自身(私)は流れゆく事物(ヘーゲルにおける運動)の中の[停止したポイント]であると捉えているところだ。つまり、「架空のキャッチボール」にもどれば相手がどんな球を投げようとも、それを分析的に想像などしなくとも、受け止める「私」は、好きなように受け止めればイイのだ。もっとありていにいえば、そんなものは、受け止める側の「私」が勝手に決めればイイことで、そう考えれば架空のキャッチボールなど難しいものではナイ。例えば、相手が上空に放物線を描くようにして高く球を投げる。この球が落ちてきて「私」が受け止めるまでのあいだ、「私」は、相手役と数分、せりふのやりとり(お喋り)をしていても構わない。ボールの双曲線の微分方程式は「私」が決めればイイ。客が、相手役がボールを投げたことを忘れた頃に、落ちてきたボールをひょいと受け止めても、一向に差し支えない。何故なら、演劇は「虚構」だから。この場合のrealityは、ボールが確かにキャッチされたということにつきる。・・・そんなバカなことあるワケないよ・・・ですか。しかし、「相手役とのイメージの共有」は遵守されておりますが。

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