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2011年6月24日 (金)

恋愛的演劇論・16(改稿)

オリザ氏も予め(でも、ないか、後書きでだから)ことわっているように、この『演技と演出』は、オリザ氏のワークショップの方法を軸に展開されている。序章の書き出しはこうだ。~「演出」とは何でしょうか?~。ここで「?・questionmark」が必要なのか否かについては、単なる疑問の「強調」と受け取っておけばイイ。(なんで、こんなことに拘泥するのかは、別の機会に述べる)。たしかに、「演出とは何か」と問われて、「こうだ」とまともに答えられる演出家も、俳優も、評論家もそうはいない。それがこの国の(というよりも、外国だって、そうなんだけど)演劇の学に対するlevelというものだ。
~~「とにかく演出家だけが演出をするのではないし、演出家がいなくても演劇は創れるという点だけは、まず確認しておきたいと思います」(同・序章)~~。
この観点には、演劇関係者においては、常識的に納得出来る部分もあれば、出発点としてアトラクト(引っ張り込み)の強い部分だと、深読みする読者もあるはずだ。後者の部類は、柄本明氏の独特のワークショップを知っている者にとっては、違う意味で、そこを納得するに違いない。柄本明ワークショップでは演劇の一つの構造を「観るもの」と「観られる者」に振り分けて、目の前の椅子に演出家が座っていようと、小学生が座っていようと、この関係は変わらないというところに受講者を運んでいくが、オリザ氏の場合、この関係は「変容」もしくは「欠落」していくからだ。それは彼の理論上の帰結であるとしかいいようはナイ(その点についてはのちに「コンテクスト」の部分で考える)。とはいえオリザ氏の「演出家がいなくても演劇は創れる」という命題は確認してみることにする。
~~「まず議論を分かりやすくするために、便宜上、俳優が自分を制御して何かの振る舞いをすることを「演技」と名付け、外から与えられるものを「演出」と名付けたいと思います。さらに、この演出を与える人を、「演出家」と呼びたいと思います」~~(同・序章)
これは、議論をワカリヤスクするための便宜上の扱いとなっているが、帰納的な命題としてもワカリヤスイものになっている。何故なら、アトは、ここから、演技や演出や演出家を演繹していけば、いいのだから。(「今日は雨がふる」というのを帰納的命題とするならば、演繹的とは、「だから傘を持っていく」「出かけるのをやめにする」になる。逆に「傘を持っていくのは今日雨がふるからだ」「出かけないのは雨になるからだ」という演繹から「今日は雨がふる」という帰納命題を求めることも出来る)。しかし、この本のモチーフであり、テーマは、ワークショップは如何にして「役者」を創っていくかだ。これをパラ位置からいえば、「役者」を創るためのワークショップの指導は如何にあるべきかになるが、私たちのほんとうの興味は、かくして創生されたる「役者」と、その「演じられる劇」は如何なるモノになるのか、だ。

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