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2011年6月18日 (土)

恋愛的演劇論・別記

『流山児祥オフィシャルブログ0617』に転載されている広瀬隆氏の〔「電力会社が自家発電をフルに利用すれば電力不足が起こらない」、この事実を国民に知られると、産業界からも、一般消費者からも、「送電線を自家発電の民間企業に解放せよ!」という世論が生まれる。「送電線を すべての日本人に解放せよ!」という声をあげることが、即時の原発廃絶のために、まず第一に起こすべき国民世論である。〕についていうべきは、そのコストと、リスクと、猫に鈴の問題だけだ。べつに流山児ブログに水をさすワケではナイが、たしか、送電線については、以前、広瀬隆氏は、そのロス(放電によって、30%程度の電力が失われる・・・とか、だが、私はこの点については資料も持ち合わせていないし、専門でもナイので確かな事実ではナイ)について原発を東京に造れと主張されていたような記憶がある。広瀬氏の著作は最もブレイクした『危険な話』を主に読んで、と学会の山本弘氏の広瀬論批判を読んだことが、ずいぶんむかしにあるが、かなりの部分、山本氏の論評(広瀬氏の誤謬についての指摘)に分があったと記憶している。
コストとリスクについては、いうまでもナイが(つまり資源輸入国の日本にあっては、原子力は経済的に安上がりだという算盤がある。とはいえ、この算盤は、フクシマ以来、再検討されているようだ)。猫に鈴というのは、誰が、どういう手段方法と責任を持って、産業界(というのが、具体的にどういう業界かワカランのだけど)に掛け合うことを請け負うのかだ。〔「送電線を自家発電の民間企業に解放せよ!」という世論が生まれる」〕保証などいったいどこにどんなふうにあるのか。これは広瀬氏の「虚構」にしか過ぎない。つまり、この一文はいわゆるagitationだ。かなり良心的にみても、問題提起という部類だろう。まあ、早い話、あんた(広瀬氏)が先頭に立ってやったらどうなんだ、というところだ。運動というものに随伴、煽動するintelligentsiyaに感じる焦燥感は、いつも同じだ。

『異邦人』(AAFリージョナル・シアター2011~京都と愛知・京都舞台芸術協会プロデュース公演・作、山岡徳貴子・演出、柿沼昭徳)について。西田聖の深遠な森と、幾何学的な小屋の見事な舞台美術をまるでジャングルジムとお砂場のある保育園のようにダメにした責任と、それぞれが達者な個性ある役者の演技を、悪しき高校演劇のレベルに貶めた恥辱は、すべて演出にある。悪しき高校演劇のレベルというのは、具体的にいえば、下手なのに観客慣れがしているように、つまり媚びた演技をしているかのように、役者がみえてしまうことだ。山岡もすでに手練の者なのだから、ちゃんと、きちんと、しっかりと(これ、国会で最も多く政治家が使うコトバだけど)こういうときは新作を書くぐらいでナイとアカンですよ。なんだ京都ってこんなもんかって思われますよ。

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