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2011年6月28日 (火)

恋愛的演劇論・21(改稿)

次の「架空のキャッチボール」に入る前に、整理しておかねばならないことがある。
~~「人それぞれ、言葉から受けるイメージが違う」~~と、オリザ氏がいう場合、彼は「言葉から受けるイメージ」というものをどう考えているのだろうか。けして揶揄ではナイが「言葉から受けるイメージ」というコトバで、どういうことをイメージしているのだろうか。・・・それをこれから彼がレクチャーするんじゃないの・・・というご意見はもっともだとして、私たちが問いたいのは「言葉」に対する定義ではナイ。端的にいってしまえば、「言葉から受けるイメージ」というのは「虚構」ではないのかということだ。たとえば、眼前にバナナがあるとする。それは「現実」のバナナだ。たいてい私たちはそれを、「バナナという名前のついた果物」だということを知っている。知らなくても、そう教えられたら、たとえ目の前にバナナが無くとも、「バナナ」といわれれば、バナナというイメージがやって来る。『仲間を集める』ゲームのさい、「好きな果物」と指示されて受講者たちがまずやったことは、さまざまな果物の「イメージ」を思い浮かべるという作業だ。しかし、それらは「バナナ」や「イチゴ」にせよ「メロン」にせよ、受講者たちの勝手な「虚構」の産物だ。それが仲間を集めるということは、その「虚構」には、予め受講者たちの「仲間」のあいだで、共通規範がなければならないということになる。(何故なら「現実」の果物は、その場にナイのだから)。「人それぞれのイメージ」が「違う」のに、イメージするモノのは同じものでなければならない。これは矛盾ではないのか。いや、否、否否、田舎っぺ大将。そうではないことは、この小論文の(もう忘れられているだろうけど)頭んあたりで俎上にあげている。と、このへんを念頭において次に進む。
「架空のキャッチボール」は、一人ひとりのイメージの違い、その共有が如何に難しいかを実感させるためにやるものだとオリザ氏は述べる。まず3メートルほど離れて二列に並び、ボールを使わない「フィクション」のキャッチボールをやってもらう。次にほんもののボールを使ってキャッチボールをする。そうしたらまた架空のキャッチボールにもどって、ボールの感触のちがい考えさせる。・・・この後その裏付けのように認知心理学の講釈が入って、
~~架空のキャッチボールだと、どうしても小手先の動きになりますが、実際にボールを捕ろうとすると、全身、特に膝のあたりのクッションまでを使って受け止めていることがよく分かります。~~(中略)~~私たちが演劇と呼んでいる「近代演劇」は、戯曲の解釈や心理分析に重きを置いてきました。この方法論では、単純にいえば、重いものを運ぶときには、重いものを持ったときの気持ちを再現することが大事になります。しかし、実際には、気持ちだけでは、なかなかうまく「真似」をすることが出来ません。自分の筋肉の動き、重心の移動のしかたなどを、きちんと科学的に把握して、それを再現させる能力には俳優には要求されます。~~(同)
ごもっと、といいたいところだが、私には経験主義が行き着くところまでいきついたなという感じがする。「架空のキャッチボール」にせよ、実際にキャッチボールをしたことがある者、あるいは観たことがある者、まったくやったことのナイ者、と、振り分ければ、それぞれが違った架空のキャッチボールをするはずだ。認知心理学などを持ち出さなくとも、「経験」というのはその辺りまでだ。もし、両者のスタンスを近づければ、砲丸玉を投げ合っているワケではナイのだからそれなりに、また、遠投という距離をとれば、それなりに「架空のキャッチボール」も変容するのはいうまでもナイ。パラ位置からいえば、実際にキャッチボールをしてみても、巧く出来ない者は出来ない。運動能力の差というものがあるからだ。ここにこの作業の「観察力」や「想像力」という直感の欠如をみてとるのは、単なる横槍だろうか。(余談だか、オリザ氏のいうごとく、長い間、演劇の訓練にpantomimeが排除されてきたという歴史はある。つまり「カタチ」だけの演技はダメだという新劇系統の誤謬だ。これはスタニスラフスキーの否定した「紋切り型」の演技に倣ったものらしい)。

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