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2011年6月20日 (月)

恋愛的演劇論・13

東京人は、およそ四つに分けられる。東京土人(土人というのは、古くから住んでいる土地のひとという意味だ。差別用語などではナイ)、故郷を棄てたひと、故郷に棄てられたひと、故郷と密通しているひと。大阪や名古屋の場合でもそうだが、資本制文化というものは(この反対を伝統文化ということにして)、たいてい土人の創ったものではナイ。大阪土人などは、表にすら出てこない。東京資本制文化もみな、日本各地のいわゆる地方からやって来た者たちが創ったものだ。いまの若いひとにはワカラナイだろうが、むかしは、「東京にいけば何とかなる」という風潮が日本にはあった。その逆に「東京は生き馬の目も抜く」という戒めもあった。「僕の恋人、東京にいっちっち」なんて歌もあった。東京は中央集権で、文化も集中している。このことは否めない。いわば東京というのは典型的な縮小都市だ。大阪がいま、関西圏としての拡張という都市計画を持っているのは、その正反対だと思えばいい。ここでいう「縮小」というのは、たとえば、新宿の裏側を歩いてみるといい。ラブホテルの真ん前に、小道を挟んで能楽堂がある。巨大ビルの中の大資本の会社に入れば、一歩も外に出なくとも生活していける。宿泊施設は基より、カフェがあり、レストランがあり、酒場があり、ゲームがあり、カラオケがあり、温泉があり、各種宗派の礼拝堂まで揃っている。
しかし、テラヤマの観た、故郷の恐山のごとき地獄まではナイだろう。また、柳田国男の記した天下の奇書『遠野物語』の深層風景を、日本の各地から、東京という虚構の街に上京してきた人々は、東京という虚構の許容の中に、埋めてしまっている。そうした故郷失踪者にテラヤマはいう。「掘ってみろ、キミのココロの畑からは、母親の真っ赤な櫛が出てくるんじゃないのか」。テラヤマの企みは、自身の故郷や少年時代の過去を「嘘」という「虚構」で描くということによって、逆に東京の「虚構」を逆写像しようというのだ。これは映画『田園に死す』の持つ、paradoxだ(だいたい、タイトルのネーミングからして、そうなんだから)。「家出」をすすめるという過激な誘惑の裏には、「キミの家出など、簡単至極な嘘なんだぜ」という、例の含み笑いがみえるのだ。東京にうごめく地方人たちに突きつけた、テラヤマの「東京、そんなものはナイよ。あるのは、トウキョウという虚構だけだよ。キミたちが東京というとき、それは、トウキョウという存在しない他者のディスクール(言説)だ」という鋭い逆理だ。
コトバという「虚構」で創られた街「トウキョウ」に、テラヤマは、もう一つの強い共同幻想である「故郷」を、あたかも「虚構=嘘」のようにみせながら、「トウキョウ」という「虚構」の解体を試みたのだ。『田園に死す』のラストシーン(これは、もともと、川島雄三が『幕末太陽伝』のラストシーンの構想として持っていたアイデアだが、主役のフランキー堺の猛反対て実現しなかった)で、青森の旧家が屋台崩しで壊れていき、新宿の街が現れる、あのshockingなシーンに、観客は故郷の旧家が消失してしまうのを観たのではナイ。むしろその逆に、自身の中で忘れ壊してしまったはずの故郷とは「虚構=嘘」に他ならなかったという、深層をえぐられる、驚きだ。つまり、東京文化人、そうして東京の地方出身者は、テラヤマのscandal性や表現そのものに翻弄されたのではなく、テラヤマが背負って引き連れてきた「故郷」が驚異だったのだ。
しかし、テラヤマもまたロラン・バルトの『表象の帝国』を賛美するようになると、逆にトウキョウは、「虚構」から離れある種の「現実」となっていく。

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