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2011年6月22日 (水)

恋愛的演劇論・14(改稿)

『演技と演出』(平田オリザ・講談社現代新書・2004年)を吟味、考察しつつ、疑問の幾つかも提出しながら読んでいく。ただ、そういう営為は「いま」私たちに、ある憂鬱に近い躊躇を持たせる。それはたぶん、一時の「静かな演劇」のブレイクの後、私たちがこれから行おうとしていることなど、すでに各方面からいいつくされているか、あるいは、もう世間は、演劇政治家平田オリザに関心があるのみで、彼の演出論や演技論などは、どうでもよくなっているのではないかという、こういうご時世の持つお決まりの通時的な変遷のせいだ。これは、私の伊丹想流私塾(アイホール主催の戯曲塾)の師範を務めたこともある中村憲司のブログ『中村駅長日誌』にいみじくも書かれたように「この十年で、平田オリザさんの作品がスタンダードになったような気がする。客席に背中を向けるのも、同時多発ダイヤログも王道のように感じる」という文章によく現れている。この「王道のように感じる」という印象は重要だと思う。世間の若いひとのあいだでは、すでに演劇たるや、平田オリザ式のものが現代演劇の主流で、アトは、antiオリザか旧式演劇の反動的復活のように受け止められているのではないか、とここもまた屈託の要因だ。
平田オリザ氏は、自らの演劇を「静かな演劇」と謳ったことはナイ。彼の主張は『現代口語演劇』というものだ。それは、(彼のコトバをそのまま使うなら)従来の新劇でも、アングラ・小劇場演劇でもナイ演劇だ。そうして、それは、文字通り台頭してきて、現在にいたっている。ところで、幸か不幸か、私は、オリザ氏の政治的動きに対する批判を耳にしたことはあるが、彼の演劇論に対する真っ当な批判は聞いたことがナイ。(主な原因は私の閉じ籠もり-出無精その他による怠慢からだろうが)もちろん、それらは楽屋や酒の席では語り尽くされているのかも知れない。例えば、私のよく知っている関西の女優が、何かのきっかけに「青年団の芝居はなんか変やねんけど、そのなんかがようワカリマセン」と、私にもらしたことがある。また、北九州の小劇場で、私の作品の終演後、受け付けで、上演台本にサインを入れている私の仕事が終わった直後、唐突に私に「今日の作品の最後の詩は谷川 俊太郎の引用ですか」と質問した若い女性がいたのだが、「いいえ、あれは私のオリジナルです」と答えると「 私、谷川俊太郎さんが好きなんもので」と、踵を返して名も告げず去っていった。ちょうど、劇場のスタッフがいたので、「あのひとは何だか妙なお客ですね」と怪訝にいうと、「彼女は観劇もしたようですが、純粋な観客じゃなくて、最近バイトでスタッフをやってるもんですよ。元、青年団にいたもんですから(しょうがないですよ)」と、ちょっと呆れがち、諦めがちにいうのだ。で、さもありなんというふうな空気があって、この空気はなんだろうなと、その時はそう感じたのだが、似たような雰囲気を体験することが何度もあった。つまり、「あれは、元、青年団だから」という、何だか、芸能界の学会隠しみたいな、この如何にも「青年団崩れ」とでもいいたげな雰囲気は何なのだ、という、空気である。(この理由は、著書にある「旅ですか」という問いかけの仕方で、後ほど、ああ、そういうことかと納得出来る)さて、酒席のネタにはなっているかも知れないが、昨今『劇場法』とやらで騒がしい彼の演劇政治姿勢などはとりあえずどうでもいいとして、彼の思想を知るには、彼の演劇論を知るのが手っとり早いと考える。『演劇入門』『現代口語演劇のために』も読んではみたが、ともかくは、この『演技と演出』を読んだ私なりの考えを、書き留めていく。例によって、私の脳の出来具合から、思考、発想が電子の運動のように(あっちゃこっちゃと軌道なく、ということ)なることを許容していただくことを予め述べておいて、やれるだけやってみる。

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