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2011年6月16日 (木)

まずは、つれづれに

「真理はあるのか」というより「何故、真理があるのだろう」という問いかけを私は好みます。たいてい、私の自問自答、思考の方法はそれです。

communicationについては、のちにまた論じますが、煎じ詰めていうと、communicationをとる最も簡単な方法は、「自分をワカリヤスクする」ことです。この辺りは、自身の虚構化というカタチで論じられると思います。
東京というところは、「自分をワカリヤスク」しないと生きにくいような街です。もちろん、これは感想批評でしかありませんが。ここには、communicationが、相互理解というよりも、許容というカタチで露出します。これは、表現者になると、「私はこういう表現方法・手段・技法、で表現するものだ」ということを業界、世間に知らしめる能力を要します。「誰々は、こういう者だ」という許容と了解が相手方(業界や世間)にナイと、ここではcommunicationは成立しません。これはcommunicationの意識過程にみえて、すでにそれが転化した自然過程とみることが出来ます。communicationにも、自然過程と意識過程があるのだということ、これは、communicationを考える場合にタイセツなことです。
その辺りからも平田オリザ氏のコミュニケーション論を考察していくつもりです。

〔一人の人間が「蒸発」するという事件はしばしば起こるが、一人の余分な人間が「勃発」するという事件は前代未聞である〕(流山児祥オフィシャルブログ、0616)この時代、一人の人間が「蒸発」、消えようと、その逆に「勃発」、出現しようと、そんなものはどちらも事件でも、前代未聞でもありゃしません。「勃発」の場合、いまではこれを「不審者」と称するだけです。私は寺山修司の短歌や映画は好きですが(特に短歌には影響を受けています)、詩や演劇にはまったく興味はありません。この時代、何故、寺山修司なのかが、まったくワカラナイ。もちろん、寺山修司研究家にとっては、時代を越えてテラヤマなのだろうけど。「書を捨てよ街へ出よう」たって、書なんて、いま持ってる(読んでる)の、いるのかな。みんな街へ出てるじゃん。
いきなり無関係な人間が、見知らぬ男(女)の狂気によって、街中で、多数刺殺傷害されるこの時代に、街頭演劇は、事件(虚構)たりえるのか。事件なら、万引きで足りる。店頭5mまでは、犯罪にならないから、まず訓練に、本でも、果物でも、ギリギリ店頭5m以内まで、盗み出すってのはどうかな。

女性の5割は男性にはワカラナイ。残りの5割においては男性は絶望している。それでも女性を恋慕するのは何故なのか。「ひょっとしたら、このひとはチガウのではないか」という根拠のナイ希望が、幻想があるからだ。演劇の5割はワカラナイ。残りの5割については絶望的だ。なのに何故、私たちは演劇を追い求めるのか。「ひょっとしたら、何か秘められた財宝が隠されているかも知れない」と、まるで『紅孔雀』のように自分の宝物をみつけたいからだ。もちろん、それは「自分さがし」などではナイが、多くのものは、この「自分さがし」でさへ、「そんなのはもう流行おくれだ」という水準で、本質を放逐しつつ忘却しているだけだ。「自分さがし」でいいから、SLOFTにいらっしゃい。迷える子猫ちゃん、小羊くん、ちゃんと「自分」を教えてあげるから。

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