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2011年5月 2日 (月)

恋愛的演劇論・9

エンデが、「芸術と日常とはまったく別の二つの領域です」というとき、私たちがいままで追ってきた「現実」と「虚構」とのcategoryのチガイ、また「コトバ」としての双方の等価原理をいっているのと、ほぼ同等のことをいっていることになる。もう一つ、注目すべきは、「本当の芸術は、耐えられないほどの悪や罪を描きます。悲劇の名作なんか、本当に耐えがたいものです」と、いいきっていることだ。これは、エンデの拒絶する、教育的芸術(芸術の教育への道具化)へともつながるところだ。他の分野はワカラナイが、私にいわせれば「演劇は惜しみなく奪う」ものだ。もちろんこれは有島武郎の「惜しみなく愛は奪ふ」のparodyだが、「愛」も「恋」も「演劇」も、惜しみなく奪うものだ。何をかといえば、もちろん、そのひとの人生だ。それほど危険なものだということだ。そんなものを(現状でいうところの)教育に出来るモノがいるだろうか。しかし、ここでの教育は「現実」のものであり、同等に「愛」と「恋」も「現実」のものだとしたら、等価原理として、それは「虚構」としての存在を許される。「力」は「現実」を虚構化することによって得られると先述した。その論法でいえば、「現実」の「演劇」や「恋」や「愛」は、虚構化することによって、惜しみなく奪われるものから、与えられるものへと変容することが可能だということだ。「惜しみなく奪われる」こと自体が「惜しみなく与えられる」ことと等価原理になるということだ。「奪われている」ということが「与えられている」と同じであるという、この理屈は、まんま、「恋」の理屈だ。えっ、どちて、というモノは、恋なんかしたことねぇんだろ。この感覚は、「恋」するものが持つ特権である。と同時に、演劇に足を踏み入れたものが持つ特権でもある。

というところで、主筆は、ちょいと一週間ばかりSLOFTのauditionのため、留守をしますので、いつもながらの開店休業。
次回は、「力」のもつ、疎外について考えてみる予定。

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