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2011年5月11日 (水)

恋愛的演劇論・10

6月の一週まではツアーで、そのアトは引っ越しのために片づけに追われることになる。この小論文が再開されるのはそのアトになるが、要点だけは書き残しておく。
この小論文は、演劇論だ。どういう演劇論かというと、演劇の「現実」と「虚構」についてを論じている(つもりなんだけど)。何故ならば、つまりそのmotivationは、私たちの演劇とは何で在ったか、これから何で在ろうとしているか、ということを、演劇というものの虚構がどう現実と関わる、対峙する、のかという視点で観ていこうとしているといってイイからだ。それは、私たちの演劇の一つのperspectiveである。
それを卑近、身近、私的、独我的な、「恋愛」という情動、情況を多々用いながらやってみようとしているのは、そのほうが多少なりとも身の程で、読みやすいだろうし、少なくとも演劇は他人の人生ではナイという証左だと思うからだ。だから、私個人の恋愛談義や経験談ももちろんふくまれている。要するに、ひとごとのように演劇をとりあげたくナイからだ。
さて、まず、私たちは、「現実」というものを二つのcategoryに分けた。
「現実という概念(category)は、必ず「誰々にとって」という条件なり前提を含む。さらにもう一つ、それが先験的であるのか、結果的事象であるのかという二つのcategoryを持つ。後者の場合の現実は「誰にとっても」ということともいえる」
それから、
「現実というものはメタファー(比喩・譬・metaphor)でもフィクション(虚構・fiction)でもナイ」というあたりまえの命題を置いた。さらに、
「現実を「語ること」というものがすでに演劇なのだ。・・・コトバというものは、すべてメタファーを含んでいると考えてイイからだ。心的表出が言語(書き言葉にせよ、音声にせよ)という表現に置き換えられるとき、そこには、必ずメタファー(比喩・譬)があるのだから」としたうえで、
「「語る側、書く側」が語ったもの、書いたものは「語る側、書く側」に対して逆に変容を強いることはナイのだろうか。もう一つ、「もの」は、「語る側、書く側」の心的表出に忠実に、語られ、書かれているのだろうか」
というふうに問題を立てた。
そうして、
 きみがいま飲みのこしたる水割りのコップみつめる恋の終わりは
のように、(短歌などの)虚構のうえで「表現されたコップは、すでに現実のものではナイ。作者との「関係と了解」よって、変容されたmetaphorであり、fictionだ」とした。
それから、式子内親王と法然との恋の和歌から、「自分が自分に向けたコトバによって自分を虚構化」「このときの虚構化というのはナニなのかといえば、現実の「私」はたしかに存在するのだが、それに対して、変容した自分もいるのだ、という「二重化」を示す」「短歌の「コップ」が、現実のコップでもあるが、虚構においてmetaphorを持った「コップ」になっているのと同じこと」「この二重化は、「コトバ」の持つ、一つの宿命のように思われる」ということに至った。
そのうえで、「「恋」も「愛」も、「コトバ」のうえからだけ考えてみれば、それはそれ自体がすでにfictionであり、metaphorだということは明白だし、「二重化」された意味での現実性(reality)を同時に含んでいる。このとき、「二重化」された恋や愛は(その「コトバ」は)現実の方向にも向かうことが出来るし、虚構の方向へ向かうことも可能だ。これを「等価原理」として扱っていい」ということにした。
さらに「高いビル」というコトバから、「メタファーには「現実」を越える「力」がある。これは、そのまま「虚構」には「現実」を越える「力」があるということにもあてはまる」ということを導き出した。それは「「コトバの力」はとりわけ「虚構」において強く発動する。何故なら「現実」はメタファーではナイからだ。メタファーは「現実」を「虚構化」するときに、初めて現れる」ということだと、進んだ。
そして、エンデのコトバを経て、「「演劇は惜しみなく奪う」ものだ。「愛」も「恋」も「演劇」も、惜しみなく奪うものだ。何をかといえば、もちろん、そのひとの人生だ。それほど危険なものだということだ、という危険性を所持しながらも、それらは、「現実」の「演劇」や「恋」や「愛」は、虚構化することによって、惜しみなく奪われるものから、与えられるものへと変容することが可能なのではないかという、虚構の「力」へさらに踏み込んだ。つまり、「惜しみなく奪われる」こと自体が「惜しみなく与えられる」ことと等価原理になるということだ。「奪われている」ということが「与えられている」と同じであるという、この等価の理屈は、まんま、「恋」、「愛」の理屈だ。
と、ここまでが、やってきたことの、一応のまとめだ。tour、引っ越しがすんだら、私たちの演劇が何を私たちから奪い、何を与えるのか、そこいらあたりから、演技と演技力の違いを辿ることで、さらに「恋愛的」に演劇論を思想してみたい。

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