恋愛的演劇論・7
なるほど、現実(いや、ここにさらに生活というのをくっつけて)、「現実生活」は「虚構」ではナイ。この小論の端緒にもどるならば「現実生活」はメタファーではナイ。メタファーは「現実生活」から生じたものだ。しかし、これを「現実生活はメタファーではナイ」とカギ括弧でくくった場合、どうなるだろう。「現実生活はメタファーではナイ」というのはひとつのメタファーになる。ひとつの譬えだ。このコトバの変容ぶりはどうだ。
たとえば、駅前の高層ビルを観たひとが「高いビルだなあ」と思ったとする。これはビルを観たそのひとが、ココロにふっと自然に思った(認識した)印象だ。ところが、そのひとがどう意識したのか、そのビルを観て、「高いビル」とコトバを発したとしよう。自然に認識されたものが意識的に「高いビル」と声に出た。もっとも、その声に出たものもふっと自然に思ったままであるとするなら、認識が確認に変容しているだけだ。しかし、となりに誰かがいて、その誰かに向けて「高いビル」と声を発したのなら、それは認識→意識から「表現」へと変容する。これがまったく別の場所で、たとえばスナックなんかで、同性の友人を相手にカクテルなんざ飲みながら、想い伝わらぬ男のことを「あのひとは駅前の高いビルよ」といったとすれば、これがメタファーであり、そのひとの「虚構」だ。(この場合は「暗喩」、まるで~のようなという喩は「直喩・シミリ」と称されるが、便宜上、この小論では、暗喩も直喩もメタファーという名称で記している)。さらに「コトバ」の等価原理から、このひとにとっての「現実」でもある。
さて、このひとは「あのひとは駅前の高いビルよ」というメタファーで、彼の何が伝えたかったのだろうか。「私には不釣り合いだ」だろうか。そこで、それを聞かされた友人が「そんなことはないわよ」と応えたとする。励ましているつもりなのだ。もどって、少しカクテルで酔った彼女は「そんなひとよ、気位が高いのよ」と、反撥する。ありゃ、くい違ったか、と、こういうことはよく経験することだ。先述してある問題のうち〔「もの」は、「語る側、書く側」の心的表出に忠実に、語られ、書かれているのだろうか〕に照合させてみると、確かに「語る側」は心的表出に沿って表現(メタファー)してはいるのだが、聞かされるほうが、チガウ受け取り方をしている。このよくあるくいちがい避けるために、日常では「どういう意味」という問い返しが多用される。そんな面倒をするくらいなら、メタファーな表現など用いないほうがいいのではないかとさえ思えてくるが、そこにはメタファーを用いるべき根拠があるのだ。それは、メタファーには「現実」を越える「力」があるということだ。これは、そのまま「虚構」には「現実」を越える「力」があるということにもあてはまる。ここで、私たちが「コトバ」を等価原理にした方法論が誤っていたのではないかと、懸念を持つのも当然のことだ。しかし、「コトバ」の等価原理は「コトバ」の有する「現実性」と「虚構性」のエネルギーは問題にしていない。物理学の類似概念として導入したものだ。「コトバ」の持つ「力」は、物理学的なエネルギーとはまったく類を異にして現れる。「コトバの力」はとりわけ「虚構」において強く発動する。何故なら「現実」はメタファーではナイからだ。メタファーは「現実」を「虚構化」するときに、初めて現れる。私たちはこの小論の冒頭、〔「現実というものはメタファー(比喩・譬・metaphor)でもフィクション(虚構・fiction)でもナイ」。演劇という表現もこの現実から始まるのだということを了解していないと、演劇の非日常性や虚構性やそのメタファーを勘違いしてしまうことになる。勘違いというのはどういうことかというと、演劇が非日常や虚構や、ある種のメタファーから生まれた(表出された)表現だと思ってしまうことだ〕に、とりあえず、もどってくることが出来た。
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