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2011年5月 1日 (日)

恋愛的演劇論・8

「ファンタジーによって世界は変えられる」と述べたのは、ミヒャエル・エンデだ。私はエンデの『モモ』をネタ本にして『十一人の少年』という戯曲を書いて、岸田國士戯曲賞を受賞した。(ところで、ほかにもさまざまな演劇の賞やら文化関係の賞やらを頂戴したが、今後、SLOFTの活動においては、経歴(profile)にそれらは全て割愛することにするつもりだ。抹消でも剥奪でもイイや。ただの物書き、ひとりの劇作家でイイのだ。そこから始めないと意味がナイよな気がしてんだ)ということで、エンデのウェブにあたって『哲学者としてのミヒャエル・エンデ』(朝日新聞社、1986年)から、幾つか彼のコトバをひろってきた。
「私は今日の世界はすべて資本主義体制だと見ます。マルクス主義だっていまではみんな資本主義になっています。ただ西側が私的な資本主義であるのに対して国家を単位とした資本主義になっていることだけです」
これは、あくまでそういうニュアンスでとらえる限りは正しい。しかし「マルクス主義国家」というものはマルクスの哲学の中には存在しない(マルクスの思想、その方針においては、国家は死滅せねばならない)。私的な資本主義も国家を単位とした資本主義も、それがメタファーで述べられているのなら、許容出来るというだけのものだ。
「だいたい芝居の練習っていうのは、できるだけ失敗をかさねておくためにやるようなものです。失敗をしてはじめて、何が正しいのかはっきりする」
不勉強な私は、エンデがシュタイナーの学校で、演劇をやってた(役者もやってた)ことすら知らなかった。このコトバも永六輔さんの「語録」に入る程度なら、そういうふうなものだと思う。
「たしかに、戦後四十年の現代文学においては、作者は読者を啓蒙し、知られざる事実のあれこれを知らしめるものだ、とする考えが風靡してきました。いわば、作者は読者に教訓をたれる教師だ、といったイメージです。が、私は、そんな創作態度を大いなる思い上がりだ、と断じます」とブレヒト的芸術論、つまり芸術を教育的な目的に使おうとする態度を拒否し、エンデ自身その主義を貫徹するためには「私自身が作品中で解釈におちいらないこと、それがじつはほんとうに困難なことでした。いけない、これでは説明になる、と思われるところは捨てる、そういうふうに自分に禁じるのは、骨の折れることでした」
ここはもっとも拝聴するに値する。特に「理が勝ちすぎている」と評される昨今の私の作品、私の書く姿勢においては、深く考えねばならないところだ。とはいえ、私は持論の展開を戯曲にすることは多々あるが、それで何か教育を成そうなどと目論んだことは微塵もナイ。というより、そういう教育的な、啓蒙的な、戯曲、演劇に対して、私なりの〔反抗〕の意地を通しているだけだ。
「私が音楽を聴いて、理解すべきことがありますか? うん、まあ、あるかもしれない。私が音楽学でも研究して、作曲法か何かを知っているとしたら、曲の構成を見きわめるとか、そんなことをするかもしれない。でも、理解する? 音楽に理解はいらない。そこには体験しかない。私がコンサートにでかける。、そこですばらしい音楽を聴く。帰り道、私は、ああ今夜はある体験をした、という思いにみたされている。でも、私は、コンサートに行く前とあととを比べて、自分がいくらかりこうになった、なんて思うことはありませんよ」
もちろん、そのとおりだと思える。が、私はこういう論調こそ俗説なのではナイかと思うのだ。芝居でも、よくいわれる「観ていて面白くて、終わったらそれまでで、何にも残らないってのがいいんじゃないの」。ほんとにそうかイ。プロ野球のゲームひとつ観ていたって、「あそこで歩かせるのはなあ」とか「あそこはピンチヒッター出すべきでしょ」とかいうんじゃないの、ファンというのは。だから、私の芝居に対しての毀誉褒貶、妬み嫉みに悪口雑言、たいてい右から左。信頼している(けしてyesmanではナイ)ひとの批評しか訊かない。
「あなたが街を歩いていて、向こうの歩道でひとりの若者が女の人を殴っているところを見たとします。と、その瞬間、あなたは道徳的な決断を迫られます。見てみないふりをするか、逃げ出すか、それとも走っていって制止するか。それが実際の人生です。けれども芝居を見ていて、オセロがデスデモーナを殺すところを目にしても、そこに飛んでいく必要がないばかりか、それを楽しむことすらできる。その殺人を、エンジョイするのです。つまり、その瞬間、あなたは完全に日常のモラルの世界から脱けだして、芸術の領域にはいりこんでいられます。芸術と日常とはまったく別の二つの領域です。本当の芸術は、耐えられないほどの悪や罪を描きます。悲劇の名作なんか、本当に耐えがたいものです。でも、それが舞台という魔術的な次元に移しかえられることによって、ホメオパティー的方法で観客のなかに逆方向の力を呼びさまします。観客をかえって健康にしてくれる力です。それが芸術の秘密です」
べつにホメオパティー(毒には毒をもって、あるいは、ワクチンのような効果のもの)を持ち出さなくとも、芸術とはそういうものだ。ここで、私たちは、やっと「現実」と「虚構」の問題にいきついたことになる。

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